第152話 妖虎族は眠らない
「君が為、か」
ユートはぽつりとそう呟きながら、メリッサ茶を啜る。
かすかな柑橘の香りをふわりと漂わせるそのお茶と、そしてユートが私物として持ち込んでいる、婚約者が用意してくれた華美になりすぎない程度に品のいい装飾がなされたティーセットは、遙か西方に残してきた婚約者を思い出させてくれた。
単なる政略として婚約者を持ったはずだったのだが、いつの間にか憎からず思うようになっていることと、そして何よりもそうしたノーザンブリア王国のしがらみに完全にとらわれていて、それでいてそれに全く不満を思わない自分に気付いて少し驚いていた。
「ユート、そんなにアナからの手紙が嬉しかったの?」
もう一人の婚約者、エリアが笑いながら同じようにメリッサ茶を啜っていた。
先ほど補給廠から補給物資と一緒に慰問品が届いており、兵たちには故郷の家族が選んだ慰問品と家族からの手紙が届いていたし、家族のない者たちも軍務省から嗜好品が届けられている。
当然、司令官のユートにもエレルで待つアナとジークリンデから手紙と慰問品としてメリッサ茶が届いていた。
「いや、なんていうか、な。いつの間にか遠くまできたもんだなぁ、と思って」
「まあそうね。ほんの数年前まであたしなんかうだつのあがらない傭人だったのが、いつの間にかエーデルシュタイン伯爵の側室にして西方軍司令部付副官、だもんね」
「正騎士を忘れてるぞ。ついでに野戦武勲勲章持ちも」
「そうそう。多すぎて忘れちゃうくらいの肩書きと名誉なんか、傭人やってた時には想像もつかなかったわ」
エリアはそう言うとにやりと笑っている。
「アナの手紙にさ、『君が為に雄々しく戦っていることを誇りに思う』って書いてあったんだよ」
「そう……まあそうよね」
「いや、それで自分がなんで戦ってるのかな、と思って、な」
「……難しいわね。アナやジークリンデは多分国や大森林のために命を賭けるのを当然として育てられてきたんだろうけど……えっと、なんて言ったかしら?」
「高貴なるが故の義務、か?」
「そう、それ。あたしやあんたも今は貴族なんだから高貴なるが故の義務があってしかるべきなんだろうけど」
「そんな風に教育受けてきたわけじゃないからわからないよな」
「ええ。だからあたしはあんたの為に戦うわ。アリスの――アリス女王のことも大事だけど、あんたやギルドこそがあたしが命を賭ける価値があると思ってるものだもん」
ユートはエリアの言葉に頷く。
重たかった――自分がエリアを筆頭とする冒険者たちの命を預かり、そして冒険者を殺してでも冒険者ギルドを発展させなければいけない、という事実が重たかった。
だが、やらねばならないとも思ってもいる――もううじうじと悩む時間は過ぎたとも思っている。
「ユート、そろそろ出撃五分前、よ。出るわ」
エリアがそう言って司令部天幕を出る。
既にアーノルドがクリフォード城に入る兵たち全員を天幕前に整列させていた。
王国の命運を賭けた決戦が、始まろうとしていた。
ユートたちはレオナの先導でじりじりと進む。
ふと見上げると空に月はなく、ただただ星が輝いていた。
すっと流れ星が落ちる。
「流れ星、か……」
隣に立つエリアが嫌そうな声をあげる。
「どうした? 願い事お願い出来なかったのか?」
「なによ、それ?」
ユートの軽口にエリアが不機嫌を隠さずに返事する。
「いや、流れ星に願い事をすると叶うっていう言い伝えがあってな」
「久々にあんたの故郷の話を聞いたわ。前にアリスに言っていたのもそうだけど、あんたの故郷って星に願いごとするの好きね」
「ああ――どうなんだろう。日本の言い伝えなのかなぁ……」
特にかつてアリス女王に教えた天の川伝説は日本というよりは中国の伝説だったような気がして曖昧な答えを返すがエリアは頓着しなかった。
「まあそっちの方がいいわ。こっちの言い伝えはろくでもないしね」
「なんだ、それ?」
「星流れる時、人が死ぬ」
エリアが小声で言ったせいか、妙に低い声に聞こえて、ユートはびくりと背筋を震わせた。
二人がそんな軽口を叩いている頃、戦闘を行くレオナは苦闘していた。
とはいえ、別に戦っているわけではない――隠密任務であるのに戦ってしまえばそれは任務失敗だ。
「こっちにも歩哨が立ってるニャ。もうちょっと迂回しないとダメかニャ?」
独り言ちるとすぐに決断する。
これがノーザンブリア王国軍ならば部下が意見具申しただろうが、それはあくまで王立士官学校で――今日から基準でいえば初歩の初歩とはいえ――士官教育を行っており、士官ならばある程度の知識を持っているからだ。
そうした体系だった教育を行っていない大森林では、族長など限られた家系しか戦術的な知識はなく、それ以外の者は黙って従うことを美徳としており、この場でレオナに意見を言う者もいなかった。
「迂回するニャ」
レオナが断を下すと、妖虎族はその言葉に忠実に、すぐに動き始める。
だが、迂回してもなかなか道は見つからない。
「あいつら、予想外に警戒してるニャ」
「まあせやろな。オレらの夜襲を警戒してる上に包囲しとるんやからこのくらいは警戒するやろ」
いつの間にかゲルハルトがレオナたちに追いついてきたらしい。
「どうするかニャ……」
「夜襲したったらええやん」
ゲルハルトはレオナの言葉に爽やかな笑顔とともにそう答えた。
「夜襲?」
ユートは一時行軍を停止してまで戻ってきたレオナとゲルハルトが、戻ってくるなり言った言葉に驚いていた。
夜襲を仕掛けても失敗するだろうから籠城軍に加わろう、というのに、夜襲を仕掛けるとはどういうことなのか理解出来なかったのだ。
「ユート、木の葉を隠すんやったら森に隠せって言葉は知っとるやろ?」
「ああ、わかるけど……」
「あいつらは夜襲を仕掛けてくると思っとるやん? ほんでそこに夜襲仕掛けられたら、ああ、思ってた通りやん、と思うやん」
「つまり、夜襲を見破ってこちらの策はこれで終わり、と思わせといて、実はその隙にクリフォード城に入城していました、ということか?」
「そういうことだニャ」
ゲルハルトとレオナの献策にユートは腕組みをして考える。
「入城したことは悟られないか?」
「あちきと精鋭の妖虎族で夜襲を仕掛けるニャ。それなら追跡されても振り切って混乱してるうちに気付かれずに入城できるニャ。ユートたち本来は見つからないように、夜襲で敵の警戒態勢が緩んでいるうちに入城すればまず気付かれないニャ」
「レオナたちだけで奇襲を仕掛けるとか危険じゃないか?」
「大丈夫ニャ。あちきらは慣れているから絶対に逃げ切れるニャ」
レオナは自信満々に言い、ユートもそれを追認するしかなかった。
「いいかニャ? まずは火を放つニャ。あちこちに火を放つニャ。人間だって動物、火を怖がるニャ」
レオナは選抜したわずか五十名の夜襲隊を率いていた。
残りの七百名余の妖虎族たちはゲルハルトに預けてユートたちの先導をしてもらっている。
ここにいる百名はレオナが良く知っている、妖虎族の精鋭であり、死の山でずっと過ごすことをも苦にしない精神力と、どんな獲物でも忍び寄って喉を掻き切れるだけの戦闘力を持った連中だった。
全員がレオナの言葉に無言で頷く。
「出来れば指揮官の二、三人は殺しておきたいニャ。でも無理はするな、ニャ」
再び無言で頷く。
「合い言葉は石と神、白い襷を掛けるニャ。絶対に同士討ちだけはやっちゃいけないニャ」
そう言うと、レオナは返事を待たずにきびすを返し、するすると敵陣へ向かい始め、それを追って他の妖虎族たちも無言で敵陣に侵入していく――ユートたちも含めての奇襲ならばともかく、精鋭の妖虎族ならば哨戒線をかいくぐることなどわけはなかった。
ごう、と火が上がる――それを合図にしたように、あちこちで火の手があがった。
レオナが火を付けて、それを見てあちこちに散っていた妖虎族たちが同じように火を付けたのだ。
「火事だぞ!」
あちこちから火の手が上がったのを見て、歩哨の誰かが叫んだらしい。
その声を聞いて、火事だ、火事だぞ、と木霊のように歩哨たちが次々と叫んでいく。
ローランド王国の正規兵のことだけはあって、将兵たちもすぐに飛び起きたらしく、夜の静けさがあったローランド王国軍の宿営地はあっという間に喧騒に包まれた。
「敵襲だ!」
「やはり夜襲だ!」
「歩哨は何をやっていた!?」
怒号が飛び交う中、何人もの兵たちがレオナたちの刃に倒れていった。
「敵がいるぞ! そっちだ!」
「警急大隊は集まれ! その他の大隊は早く鎧を身に着けろ!」
そう命令していた、口ひげの立派な司令官らしい男のところに投げナイフが飛んできて、その司令官はすんでのところで身をよじって躱す。
「ちっ! 外したニャ!」
レオナが舌打ちしながら二度目はない、とばかりに逃げ始める。
「そろそろ引くニャ!」
レオナはローランド王国の言葉はわからなかったが、それでも歩哨をしていた大隊が集まりつつあるのはわかる。
それはつまり、相手の警戒が緩んでいるということであり、恐らくユートたちは無事に入城できるだろう。
ならばレオナの仕事は終わり、あとはローランド王国軍が態勢を立て直す前に無事に逃げることを考えるべきだった。
レオナの命令ですぐに撤収を始めるが、どうも上手く行かない。
よく見ると、あちこちで歩哨たちが妖虎族を逃さない、とばかりに戦っており、妖虎族はそうした歩哨を苦もなく倒しているが、その分だけ時間はとられてしまう。
レオナたちが宿営地の外に出た時には、既にローランド王国軍もまた混乱を脱してレオナたちの追撃にかかっていた。
レオナたちも出来るだけ姿を隠して逃げているのだが、燃え上がっている宿営地が格好の照明となってローランド王国軍の追跡を振り切れないのだ。
暗闇に隠れられなければ、妖虎族と言えども少し強いだけの兵に過ぎない。
圧倒的に多数の敵軍に追跡されれば逃げ切れるわけもなくなぶり殺しにされるのが目に見えている。
「まずいニャ。あの指揮官を討ち漏らしたのが失敗だニャ」
レオナはそう悔やんだが、しょうがない。
「あちきがしんがりを務めるから早く逃げるニャ!」
レオナはそう言うと、背中に背負っていた長物――魔石銃を構え、独りローランド王国軍の方へと向かった。
たった一人で戦う、などというのは無茶にもほどがあるのはわかっている。
魔石銃があると言っても、レオナがいくら強くても、一人は一人なのだ。
魔法を少し使えて、身体能力が少し高いだけの一人の少女に過ぎないのだ。
レオナも流石に一人で挑むつもりなどない。
妖虎族を追跡している敵軍を横目に見ながら、目につかない茂みに隠れて魔石銃を構えた。
前に指揮官を狙撃することはウェルズリー伯爵に禁止された、とユートが言っていたが、暗闇から射撃したらたまたま当たっただけ、と言い訳するつもりだった。
レオナにとってはウェルズリー伯爵が後生大事に――彼女にはそうとしか思えない――抱えている騎士道精神とやらよりも、妖虎族の仲間たちの命の方がよっぽど大事だった。
「まずは、騎兵指揮官ニャ」
レオナはそう独り言ちると、魔石銃の照星の先にいる、騎兵の指揮官らしき男に狙いを付け、心を落ち着けて引き金を引いた。
轟音――そして、レオナの目にはその指揮官が頭を吹き飛ばされ、噴水のように血が噴き出すのが見えた。
「次は、あいつニャ」
次席指揮官らしき男に狙いを付けて、再び引き金を引く。
その男も同じように頭を吹き飛ばされて落馬するのが見えた。
「次」
レオナは小さく呟きながら、指揮官とおぼしき、服装のしっかりとした騎兵を狙撃していく。
「もうあっちはいいニャ」
指揮官を次々と失って混乱の極致に陥った騎兵を無視して、続いて後続の歩兵たちに狙いを移す。
右のポケットの中の弾丸を数えると、手持ちの弾丸はあと十発くらい。
弾丸が高価すぎて数が揃えられないのが玉に瑕だが、少なくともこの戦場ではその値段に見合っただけの仕事はしてくれている。
歩兵の指揮官も射ち倒したところで、どうやらレオナは自身の場所を突き止められたらしいことを知った。
冷静な指揮官――その姿は見えなかったが、恐らくレオナが討ち漏らした例の口ひげの指揮官がレオナの魔石銃の発火炎を見つけたのだろう。
レオナも発火炎があることはわかっていて、発射の時は暗視視力を失わないように目を瞑っているが、まさかここまで早く見つけられるとは想定外だった。
「しょうがないニャ。逃げるニャ」
もう少し歩兵の指揮官を倒しておきたかったが、見つけられては元も子もなかった。
だが、例の指揮官は有能にして狡猾だったようだった。
逃げようとするレオナを、まるで真綿で首を絞めるように歩兵たちを先回りさせて追い詰めていく。
「これは、厳しいかもしれないニャ……」
珍しくレオナが弱音を吐いた。
先回りされ続けて、もう逃げられる場所はなかった。
暗闇に逃げようにも、まだ燃えている宿営地――もしかしたら意図的に燃やし続けているのかもしれない宿営地のせいで暗闇が少ない上、松明を呆れるくらい揃えているせいで隠れるに隠れられないのだ。
「あっちだぞ!」
「そこにいたぞ!」
そう言う声が響く間隔がどんどん短くなり、とうとうレオナは完全に逃げ場をなくしてしまった。
「ようやく捕捉出来たぞ」
例の口ひげの指揮官が松明で照らされてその凶相をあらわにしていた。
いや、本来ならばロマンスグレーの、いい年齢の重ね方をした男なのだろうが、レオナには悪魔にしか見えなかった。
「貴様が例の夜襲指揮官だな」
少し発音に南方なまりのあるノーザンブリア語で、口ひげの指揮官がそう声を掛けてくる。
「なんのことかわからないニャ」
「ふん、名乗ろうか名乗るまいがどちらでもよい。このまま捕虜にして全部吐かせてやるでもよいし、ここで貴様を討って二度と王国軍が夜襲などという戦術を使えなくさせてやってもよい」
その口ひげの指揮官がそういうのを見て、レオナは周囲を観察する。
歩兵の数は決して多くはない――恐らくあちこちを捜索させるために分散したのだろう――が、それでも一個小隊を超えるくらいの数はいる。
歩兵たちの武器は槍であり、槍衾を作られればレオナでも囲いを突破するのは困難だろう。
土弾なりを使えれば囲いを突破するのも出来るかもしれなかったが、レオナは魔法より剣を好んでいたせいでほとんど学んだことがない。
こんな場面でいきなり使って成功すると思うほど楽観的ではなかった――つまりは命運極まった、ということかとレオナは覚悟した。
「獅子の子レオナ・レオンハルト、ただでは死なないニャ。覚悟するニャ」
既に弾丸のなくなっていた魔石銃を投げ捨てると、鎧通しと北方で呼ばれる鎧通しを抜き放った。
「ふん、面白い」
口ひげの指揮官は口でこそそう言ったが、レオナの覚悟を見て生半可なやり方では自分たちがやられると判断したのか、厳しい顔つきのまま、ローランド語で歩兵たちに囲みを厳しくするように命じる。
じりじりと包囲の輪が狭まってくる。
「覚悟しろ」
そう口ひげの指揮官が呟き、歩兵たちが今一歩、前に出た時――
――不意にレオナの右手から火の手が上がった。
「なんだ? 残党がいたのか?」
口ひげの指揮官の言葉とほぼ同時に、歩兵たちを跳躍して何かが飛び込んでくる。
「レオナ、大丈夫なんか!?」
大きく狼筅が振るわれ、当たるを幸いと四、五人の歩兵をその槍ごと吹き飛ばす。
「火炎旋風!」
聞き慣れた声が響く。
「なんでここにゲルハルトとユートがいるニャ!?」
「あら、あたしもいるわよ!」
いつの間にか歩兵を後ろから斬り倒したらしいエリアが笑いかける。
その間にもゲルハルトは土弾を叩き込みながら、それに対処しようとする歩兵たちの隙を突いて膂力に任せて狼筅で殴り倒していく。
包囲していた背後を取られれば、どんな屈強な精兵でも為す術はなく崩されるしかない。
「覚悟するのはどうやらそっちみたいだニャ」
レオナが口ひげの指揮官に不敵に笑いかける。
「ふん、儂が粘ればその間に味方が駆けつけるわ」
それもまた道理――ユートたちにしても味方を率いてきているわけではない。
「そうだな。逃げるぞ、レオナ」
「待て」
「待てと言われて待つ馬鹿はいないニャ」
「待たんか! レオナ・レオンハルト、儂はルーテル伯マクシム、再び戦場で干戈を交えようぞ!」
その声をきっかけにしたように、ユートもレオナも、そしてゲルハルトもエリアも走り始めた。
もうそれ以上ローランド王国軍は追ってこなかった。
「無事でよかったわ」
「さすがにしぶとい妖虎族でも今回は永眠しとるかと思ったわ」
クリフォード城まであと一歩、というところまで逃げ切れたのを見て、エリアとゲルハルトがそんな声を掛ける。
「あちきが死ぬわけはないニャ。妖虎族は眠らない、ニャ」
傷だらけになりながらそう強がるレオナに、まずユートが笑い、次いでレオナが、エリアが、ゲルハルトが笑った。
その屈託のない笑い声は、生きていたからこその笑い声だった。
 




