第150話 暗躍・後編
だが、それでもマンスフィールド内国課長はオールドリッチについて調べることを諦めはしなかった。
別にオールドリッチについてそこまでこだわる必要はないようにも、マンスフィールド内国課長自身も思ってはいたが、それでもこだわっていたのは勘だった。
「課長も仕事が好きですな」
ジェームズは苦笑いしながらもマンスフィールド内国課長が追加で調査すると言えばそれに付き合ってくれた。
そして、意外なところで調査は大きく進展することになった。
「王室直轄領の代官がオールドリッチを知っている、ということか……」
ジェームズが持ってきた情報にマンスフィールド内国課長はなんと当たり前のことを忘れていたのか、と苦笑いする羽目になった。
南部に点在している王室直轄領の代官もまた内務省や総務省、財務省、法務省といった省庁から派遣されている正式な官僚だ。
内務省の官僚たちは同僚であるオールドリッチのことを知っていても何もおかしくないし、他の省庁の官僚にしても王立大学の卒業生なのだからオールドリッチの知り合いがいるかもしれない。
「問題は、どうやって接近するか、ですな」
ジェームズは頭を悩ませる。
まさか内偵調査に軍務省情報部の名前を出す馬鹿はいない。
だが、王国のエリートとも言うべき官僚たちが、どこの誰かも名乗れないマンスフィールド内国課長やジェームズに会ってくれるわけもなく、まして手元の諜報員たちはもっと身分的には低い者が多いのでどうやっても接触できそうになかったのだ。
「大丈夫だ、俺に任せろ」
マンスフィールド内国課長はにやりと笑いながら、よれよれのシャツの胸ポケットから大事そうに一枚の札を取り出す。
「勘合符ですな」
勘合符とは複雑な形状に切断した一片の札を事前に相手に渡しておき、それとぴったり嵌め合う札を持参することで身分を証明できる、身分証明書のようなものであり、勘合符だ。
顔が知れ渡っている大貴族ならばともかく、その家人ともなれば人物を証明することは出来ないことも多く、証明するならば主家の重代の家宝や爵位の勅任状などといったものを使わねばならないが、そんな馬鹿なことは出来ない、ということで発明されている。
主立った貴族――特に大貴族ともなれば事前にこの勘合符を省庁などに届け出ておき、自身の署名入りの書状とともに家臣の身分を証明する。
「これは……波に華の紋章ですか?」
「シーランド侯爵家のものだ」
「……課長、いくらなんでも勘合符の偽造はまずいですよ……」
「馬鹿野郎! 本物だ! シーランド侯爵の親父、先代シーランド侯爵のものだ」
シーランド侯爵の父親である先代シーランド侯爵にはマンスフィールド内国課長は世話になっている。
歩兵大隊で上手くいかなかった時に、情報部へ異例の転属させてくれたのも先代シーランド侯爵であり、それからはなんだかんだでよく飲みに行ったりしていた。
今も七十を超えてなおかくしゃくとしている豪快な老人であり、マンスフィールド内国課長が情報部に配属になった頃はちょうど王都にいたこともあってよく遊びに連れ回された記憶が蘇ってくる。
そして、マンスフィールド内国課長の持つ勘合符は、マンスフィールド内国課長が正式な諜報員の元締めである情報統括官になった時、先代シーランド侯爵が国内で様々な危険があるだろうから少しでも助けになるように、と贈ってくれた物だった。
それはいくどもマンスフィールド内国課長の窮地を救ってくれたお守りであり、何よりもあの豪放磊落な老人にもらった、大事な宝物だった。
「しかし、書状の方はどうしますか?」
勘合符と言えどもそれだけで身分を完全には証明できず、本来ならば勘合符を発行した貴族の署名入りの書状があって初めて身分を証明したことになる。
これはたとえば勘合符を落として拾われた時に悪用を防ぐためのルールであり、実際に勘合符が一般的になった八十年ほど前に、拾った勘合符で詐欺を働いた者がいたことから出来たルールだった。
「知っているか? 俺は先代シーランド侯爵の筆跡を真似るのが得意なんだぞ」
得意と言うよりもこの勘合符を使うために、先代シーランド侯爵の黙認のもと身に付けた技術だ。
「偽造って……課長は本当よからぬ事にだけは知恵が回りますな」
「まあ一番いいのは誤魔化すことだけどな」
マンスフィールド内国課長はそう笑う。
確かにルールでは勘合符と署名の入った書状――委任状が必要になることが大原則であるが、公式に何かの権利を主張するのではなく、今回のようにちょっと話をするのに身元を証明する程度ならば勘合符だけでも構わない、とする官僚も多い。
細かいところに目くじらを立てて大貴族の心証を害せば出世の妨げになるし、何よりも勘合符を悪用すれば極刑である上、悪用された貴族は面子にかけても探したして誅伐するからそうそう悪用する詐欺師もいないからだ。
「どっちでいきますか?」
「書状無しでいいだろう。逆にちょっと世間話をしにいくのに書状まで持っていれば却って怪しい」
世間話をしにくるのに、委任状までもって完璧に身分証明をしているなど、何か下心でもあるのではないかと思われて然るべきだからだ。
「シーランド侯爵は今、北方軍の司令官だったか」
「いえ、戦時編制に改編されたことで第二軍の司令官に横滑りしていたかと思います」
ジェームズは密かに手に入れては頭に叩き込んでいる軍の機密情報を思い出してマンスフィールド内国課長に伝える。
マンスフィールド内国課長はすぐに服装も裕福な商人のような格好からやや武骨な、侯爵家の家臣のような服装に着替え、白い付けひげを付けて少し年齢よりも上、六十近い老人に変装すると邸宅を出て行った。
ジェームズもそれを見て商会の手代といった格好からやはり侯爵家の若手家臣、といった服装に着替える。
マンスフィールド内国課長は代官やらのところにはジェームズをお供に自ら訪れるつもりなのだ。
今は内国課長――もはや現場職でも何でもないのだが、それでも昔取った杵柄、というやつであり、血が騒ぐというやつなのだろう。
意外なことに情報はすぐに集まった。
これは一つはオールドリッチが内務省内でも結構な有名人であり、王室直轄領の代官やシルボーにいる内務省の官僚たちがほとんど知っていたからだ。
そうした官僚たちの人物評によると、決して王立大学時代から頭脳明晰で成績優秀だったわけではないが、様々な勉強会を主催し、貴族も含めて顔が広い男であり、そうした人脈で出世していくタイプだったようだ。
だからこそほとんどの官僚が繋がりの深い浅いはあっても名前は知っていた。
そして、そのオールドリッチが最も強く結びついていたのは、先代タウンシェンド侯爵であることもわかった。
その結果からマンスフィールド内国課長はオールドリッチを最重要人物であると位置づけている。
先代タウンシェンド侯爵に近しい人物で、王国官衙で横断的な人脈を有していて、今回外務省外交情報局と、軍務省情報部外国課の両方のローランド王国担当者と交友関係がある。
その人物が何かしていた、と考える方が、外交情報局と情報部外国課がともにローランド王国の動員情報を見逃していた、と考えるよりも合理的だからだ。
もちろん百パーセント、オールドリッチがクロとは思っていないが、それでも」かなりクロに近い――少なくともこの戦争が終わるまでは監視下に置いておくべき人物、というくらいには存在を危険視している。
「官僚に対する監視が少々弱かったですかな?」
ジェームズはオールドリッチについて何も知らなかったことについて、そう総括しようとしていた。
王国官衙に横断的に人脈を持つ男を野放しにしておいたのは、防諜機関でもある軍務省情報部内国課として問題だったか、と反省しているようだった。
もっとも彼は一介の課員であり、責任があり反省するとするならばそれはマンスフィールド内国課長がするべきなのだが。
「まさか。一々省庁の勉強会まで抑えていたら身が持たないぞ」
マンスフィールド内国課長はそう笑う。
基本的に内国課の仕事は対貴族――特に大貴族の軍事情報を把握することが主任務であり、次いで防諜ではあるが、基本的に官僚を強く疑う、という思考はしない。
むしろ侵入してくるローランド王国の工作員やらを摘発するのが仕事であり、一般的に忠誠心が高いとされている官僚に対する防諜はあまり重要視してこなかった。
「今回の場合、旧タウンシェンド侯爵家が絡んでいるのが全て、なのだろうな」
先代タウンシェンド侯爵は長く内務省の官僚として王国に仕えてきた男であり、当然その影響は内務省に強く残っているのだろう。
代替わりと、内務省内では先代タウンシェンド侯爵と対立していたサマセット伯爵が内務卿に就任したことで先代タウンシェンド侯爵派閥は崩壊したと思っていたが、そうでもなかったようだった。
むしろ潜伏し、そして諜報機関と化けていた、という可能性すら出てきたのが、今回のオールドリッチの一件になりそうだった。
「ともかく、一つは内国課を総動員しなくてはならんな」
オールドリッチと、その背後にあるかもしれない旧タウンシェンド侯爵家絡みの人脈、それを洗い直して、場合によっては摘発しなければならなかった。
「課長、帰りますか?」
ジェームズはそう言ったが、マンスフィールド内国課長は首を横に振る。
「帰るのもそうだが、先にやらねばならないことがある。ウェルズリー伯爵にこのことを伝えておいてやらねば、あいつは疑心暗鬼になるだろう。ジェームズ、君を臨時に主任情報統括官に任じる」
「ウェルズリー軍務卿に伝えるってのはわかりますが、なぜ自分が主任情報統括官なんですか?」
「簡単だ。あいつの下で、内国課からの情報を受け取って伝える役割が必要だ。俺が出来ればいいんだが、さすがにオールドリッチ組織をどうこうする、となると内国課長が指揮を執る必要があるだろう。そう考えると、お前しかいない」
「わかりましたけどね、あとで文句は言いっこなしですよ」
そう、ジェームズという男は決して無能ではない。
しかし、礼儀作法や人間関係の機微には疎いところがあるのが最大の欠点、という男なのだ。
マンスフィールド内国課長はそれを王国総軍司令部に送るのには一抹の不安があったが、どうしようもなく、せめて一度総軍司令部に顔を出して、ウェルズリー伯爵に必要な情報と、そしてジェームズの人となりを伝えておこう、と決めた。
マンスフィールド内国課長たちが王国総軍司令部にやってきたのは、ちょうどウェルズリー伯爵とユートたちがクリフォード城に到着する前日のことだった。
「というわけで、な。情報部内国課としてはその仮称“オールドリッチ組織”がローランド王国軍の動員情報を意図的に伝えなかったのではないか、と考えている」
マンスフィールド内国課長の言葉に、同席していたユートは頷く。
「なんとも厄介ですね。諜報関係は正直、私の本職ではないですし、王立士官学校時代に机上でやっただけですが、そういう組織というのもあり得るのですか?」
「ああ、休眠諜報員、という奴だな。もっとも今回の場合、先代タウンシェンド侯爵が組織した派閥がそのまま諜報機関に化けているようなものだから厄介だが」
「マンスフィールド課長、先代タウンシェンド侯爵の派閥全てが寝返っているわけでもないのですよね?」
「ウェルズリー伯爵、今の段階でそれを答えられると思うか?」
「それもそうですね」
ウェルズリー伯爵はそういうと、嘆息した。
「この軍勢の中にも裏切り者はいる、と考えた方がいいのでしょうか?」
「否定はせん。ただ、可能性としては余り高くはない、とは言えるだろう。ざっと名簿を見させて貰ったが、殆どはクリフォード侯爵家の寄子だからな」
内務省が旧タウンシェンド侯爵派とサマセット伯爵派にわかれているように南部貴族もクリフォード侯爵派と旧タウンシェンド侯爵派がいる。
もっともこのあたりは寄親寄子関係、つまり戦時の時の動員関係があるからなので、内務省の派閥争いとは違い、旧タウンシェンド侯爵派とクリフォード侯爵派と言えども仲が悪いわけではないし、だからこそマンスフィールド内国課長も言い切れなかったのだ。
「名簿は軍機なのですが、どうしてマンスフィールド課長がそれを手に入れたかについては聞かないことにしましょう」
ウェルズリー伯爵はそういうと笑った。
軍務省情報部内国課は貴族の軍事情報を主とした諜報活動を行っている組織であり、そこの元締めであるマンスフィールド内国課長の言葉に、少しは疑心暗鬼が晴れたようだった。




