第146話 ウェルズリー伯爵の懸念
七月十五日の、蒸し暑い朝、ユートたち第三軍はシルボーを進発した。
既に補給廠のヘルマン・エイムズ補給廠長――戦時編制への移行に伴い正式に補給廠が設置されたことでユートの権限により警備中隊長から移動している――から物資も受け取っており、疲労以外は戦闘を行うのに全く問題はない。
「レオナ、捜索大隊の疲労は大丈夫か?」
進発前、ユートはレオナにそう訊ねた。
レオナのエーデルシュタイン伯爵領軍捜索大隊は最後まで撤退掩護戦闘をやってくれた関係でシルボーに戻ってきたのは昨日、一日の休息はほとんどが補給に費やされて将兵はほとんど休息なしの連戦だろう。
「大丈夫ニャ、あちきら妖虎族は山中で何週間も狩りをすることもあるニャ。それから比べればちゃんと食事も摂れて、寝床もある生活なら
「妖虎族はほんまそこら辺はしぶといわ」
「餓狼族が軟弱なだけニャ」
「アホか、オレらはちゃんと軍隊の基準に則って休息与えとるんや!」
いつものレオナとゲルハルトの夫婦漫才になったのに、ユートは少し笑い、そして顔を引き締める。
「そろそろ出発だな」
「そうニャ。厳しい戦いだニャ」
「なによ、レオナ。戦う前からびびってたらしょうがないわ」
戦う前から気持ちが負けていたら勝てるわけはない、というエリアが言うことにも一理あるとはいえ、レオナが言うとおり、厳しいになるだろう。
ユートの手元にある第三軍の戦力はエーデルシュタイン伯爵領軍突撃大隊、捜索大隊、それに西方驃騎兵第二大隊と西方混成歩兵第三大隊、それにフェラーズ伯爵が気を遣って派遣してくれた中央驃騎兵第五大隊と中央軽歩兵第六大隊の六個大隊に軍直属法兵中隊だけである。
セオドア・リーヴィス大隊長の西方戦列歩兵第一大隊はなんとか虎口を脱したものの現在はクリフォード侯爵のクリフォード城で防戦にあたっているはずだった。
これは他のアダムス支隊の構成部隊も同じであり、主力をクリフォード侯爵が連れて行ったにも関わらず、なんとかクリフォード侯爵の嫡子ロドニーが持ちこたえているのはアダムス支隊が戦力に加わっていることが大きかった。
もっとも、そのお陰でユートの手元には六個大隊しかないわけで、これだけでクリフォード侯爵領を解囲するのには足りないのでここから南下しつつ、周囲の南部貴族を慰撫していかなければならない。
そして、その寄せ集めの戦力でクリフォード侯爵の嫡子ロドニーを救う、という任務を遂行するのだ。
もっとも、ユートにとって一つ気楽な要素はウェルズリー伯爵が一緒、ということだ。
南部貴族の関係を全くわかっていないユートにとって、何よりもの課題は南部貴族の慰撫であり、それについては生粋の大貴族――もっとも本人は次男坊だったはずだが――で、軍務卿というノーザンブリア王国の閣僚、そして総軍編成勅令によってノーザンブリア王国総軍司令官にも任命されているウェルズリー伯爵がいるのといないのとでは大違いだ。
「ユート君、書状は出しておきました。早めに進軍して、出来るだけ多くの貴族を取り込みましょう」
確かにもしローランド王国軍がクリフォード侯爵のクリフォード城を包囲しつつ、別働隊が北上しているならば抗戦する南部貴族は衆寡敵せず討ち滅ぼされているだろうし、降伏する南部貴族も出るかも知れない。
そうなればユートたち第三軍が事実上各個撃破されているのに等しいわけであり、極めて不利だ。
「総軍司令官閣下、私が先行しましょうか?」
フェラーズ伯爵の中央軍から派遣されてきた中央驃騎兵第五大隊のリオ・イーデン大隊長がそう提案する。
「ああ、君はイーデン提督の弟さんでしたっけ? ……そうですね。ユート君はどう思いますか?」
「先行するのはいいと思いますけど、問題は敵に遭遇した時、ですよね?」
「ええ、そうですね」
ユートの言葉にウェルズリー伯爵は満足げに頷く。
「……イーデン大隊長、敵と遭遇した時は、戦闘せずに本隊と合流する、でいいですか?」
「わかりました」
リオ・イーデン大隊長は静かに頷いた。
どちらかといえば豪快で時に貴族らしからぬ粗野さすら見える、騎兵らしい西方驃騎兵第二大隊のリーガン大隊長と違って、リオ・イーデン大隊長は騎兵らしからぬ冷静さを持っている男のようだった。
「頼みます。無駄な犠牲を出す余裕はないので」
「軍司令官、お任せ下さい」
そう言いながら、リオ・イーデン大隊長は胸を叩いて笑った。
ユートとウェルズリー伯爵、それに第三軍主力にウェルズリー伯爵が直率するウェルズリー伯爵領軍の軽歩兵二個大隊の七個大隊がノーザンブリア王国南部を南下する。
意外なことだが行軍速度は極めて速い。
これはウェルズリー伯爵が馬車をかき集めておいてくれたお陰で、行軍速度の遅い歩兵たちは全て馬車に収容して行軍することが出来たからだ。
本来ならば馬車による行軍は不期遭遇戦を考えれば危険だったが、戦場になりつつあるとはいえ一応自国領、しかも中央驃騎兵第五大隊が先行しており、かつ即応戦力として西方驃騎兵第二大隊と、馬車に速さに徒歩でついてこれるエーデルシュタイン伯爵領軍突撃大隊、捜索大隊――つまり獣人たちがいることから、ウェルズリー伯爵とユートはこの策を選んだのだ。
そして同時にユートは、ウェルズリー伯爵の凄さは戦場における指揮もそうだが、何よりも食糧を予め備蓄しておいたり、急行軍が必要な時に馬車を用意しておいたりする能力――軍政家としての能力、と痛感していた。
「そういえばマンスフィールド内国課長は?」
馬車で行軍しつつ、ウェルズリー伯爵と話していたユートはノーザンブリア王国のスパイの元締めとでも言うべきマンスフィールド内国課長を思い出した。
マンスフィールド内国課長の警告のお陰であの石塁陣地の攻防の時に不用意に敵領深くまで踏み込まずに済んだのだ。
今回ももしかすれば情報を持っているのではないか、と思ったのだが、ウェルズリー伯爵は静かに首を横に振った。
「マンスフィールド課長は現在、侵攻中の敵軍に対して工作を展開しているはずです。彼の諜報に関する見識は極めて高いので、全面的な裁量を認めていますし、だからどこにいるかまでは把握していません」
「残念ですね。マンスフィールド内国課長ならもしかすれば、と思ったんですが……」
何よりも情報が足りなかった。
それを補うにはマンスフィールド内国課長のような人物がいれば助かると思ったのだ。
「ユート君、もしかしたら、なのですが……」
「何ですか?」
「ちょっと気になっていることがあります。今回のローランド王国の侵攻について、マンスフィールド課長が朧気にしかつかめなかったのは当たり前です。彼は内国課なのですから。では、情報部外国課は? 外務省は?」
「……それって」
「ええ、そうです」
ウェルズリー伯爵はみなまで言わなかったが、ユートにも意味は伝わっていた。
内応者がいる――ウェルズリー伯爵が言いたいことはそれだったのだろう。
「マンスフィールド課長はもしかしたらそっちから探っている――あるいは我々の情報が流れないように暗闘しているのかもしれませんね」
「なんというか……」
さすがに情報部や外務省に内応者がいるとなれば、こちらの情報――例えば今こうして行軍しているという事実――も筒抜けになっている可能性があるだろう。
「ユート君、進軍を急いだ方がいいかもしれませんよ。この戦場で早馬を使えば目立ちすぎます。そう考えると情報を我々が追い抜いてしまえばいいのです」
そう、無線のような即時に遠距離を通信する通信手段はないのだ。
遠隔地と素早く通信する方法としてはユートが作った信号所がせいぜいであり、それはノーザンブリア王国南部にはないし、密使なりが目立たないように走るしかない。
「クリフォード侯爵家の未来のためにも、ですね」
ユートが頷いたが、ウェルズリー伯爵は眉を曇らせた。
「……そうですね」
「どうしたんですか?」
「いえ、戦いに勝っても負けてもクリフォード侯爵家の未来は暗いな、と」
「やはり、クリフォード侯爵領がローランド王国軍に蹂躙されているからですか?」
「それもありますが、クリフォード侯爵が打って出たからですよ」
ウェルズリー伯爵はなぜわからないのか、と不思議そうな顔をした。
「どういうことですか?」
「なんでクリフォード侯爵は所領にいたんでしょうか?」
ウェルズリー伯爵に謎かけのように問われてユートはようやく意味がわかった。
「……そういえば謹慎中でしたね」
「ええ、王位継承戦争の責任を取ってクリフォード侯爵は謹慎中――なのに軍を率いてアダムス支隊に参加した挙げ句、会戦では大敗のきっかけを作ってしまった。多分、陛下はお怒りでしょうね」
「つまり、戦いに勝ってクリフォード侯爵家が生き残ったとしても今度はアリス女王によって処罰される可能性もある、ということですか?」
「ええ、そうですね。アリス女王陛下のお考え次第ですが、軍務省内にも有事の際には二大侯爵が寄子を率いて防戦にあたる、というのはいささか時代錯誤的ではないか、という意見もあるのです。ちょうど旧タウンシェンド侯爵家が改易されることですし、これを気にクリフォード侯爵家も改易か転封してしまって、南方軍か南方城塞司令官の下で指揮を一元化しよう、という動きは必ずあるでしょう。特に東アストゥリアスでは前タウンシェンド侯爵の内通で突破を許してしまった経緯もありますし」
ユートは少しばかり考え込む。
「……それってクリフォード侯爵家の人、例えばロドニーさんとかもわかっているんですよね?」
「多分わかっているでしょう。いえ、クリフォード侯爵もわかっていたと思いますけど、それでも王国の危急にそんなことに構っていられなかったのでしょう」
ユートはそれを聞いて、自分の意見をウェルズリー伯爵に言った。
「それならばやっぱりおかしいかと思います。今懸命に戦っているクリフォード侯爵家の士気を下げる未来しかない、というのもそうですし、王国の為に戦おうとしたクリフォード侯爵のことを考えてもそうです」
「でしょうね。でも恐らくこれは覆せません。どの程度で留めるか、という話にはなるでしょうけど」
つまり、転封か改易か、という話なのだろう。
「ただユート君、君は唯一、陛下と直接談判できるコネクションを持っている人です」
「え?」
ウェルズリー伯爵の言っていることがユートにはわからない。
確かに伯爵で西方軍司令官兼西方総督の地位は高いが、それをいえばウェルズリー伯爵だって伯爵で軍務卿なのだ。
「アナスタシア王女殿下を通じて、ティールームに招待することが出来るでしょう? さすがに私のような――いえ、私でなくとも閣僚クラスの大物貴族がそのような真似をすれば色々と不味いですが、君の場合はアナスタシア王女殿下がいる」
そこでウェルズリー伯爵は顔から微笑を消した。
「私は表から、クリフォード侯爵の擁護を精一杯やってやります。あんな男ですが、私にとっては営庭の友なのです。ユート君――いえ、エーデルシュタイン伯爵。どうかアナスタシア王女殿下を通じて掩護をお願いします」
ウェルズリー伯爵が居住まいを正してユートに頭を下げる。
「もちろんです」
ユートも否やはない。
恐らくクリフォード侯爵家を改易あるいは転封しようという軍務省やアリス女王周辺の人物も私利私欲や私怨でやっているわけではなく、将来のノーザンブリア王国の為には寄親寄子制は不要と考えているのだろう。
ユートも確かに寄親寄子制よりも、全ての貴族を一人の人物――今ならばウェルズリー伯爵――が統括する方がよっぽど効率がいいと思うし、その考えが間違っているとは思わない。
だが、今はノーザンブリア王国危急の時だ。
よくて戦後は転封しかない、となっているクリフォード侯爵領軍の士気は下がる一方だろうから、戦いに勝つ上ではマイナスだ。
今目の前で泥棒が起きているのに、貧困の解決策を提案しているような的外れさがあるのだから、ユートはクリフォード侯爵家の転封や改易には反対するつもりだった。
「ありがとうございます。その為にも勝たないといけませんね」
頭を上げたウェルズリー伯爵はそう笑った。
そうこうしているうちに、南部貴族が続々とユートの第三軍の旗印の下にはせ参じた。
驚くような速さで集結する貴族領軍にユートは大物貴族であるウェルズリー伯爵の書状の威力はすごい、と驚いていたが、集結した貴族の話を聞くと、もう一度驚くことになった。
曰く、寄親であるクリフォード侯爵家の危機のためにはせ参じた、と。
このような緊急時に勝手に兵を動かせば謀叛の疑いを持たれる可能性もあり、クリフォード侯爵は行方不明、嫡子ロドニーもクリフォード城に籠城中で指示を出せず、クリフォード侯爵家を救うために動きたくとも動けない状況にやきもきしていたらしい。
ユートはそれを聞いて、同時に旧タウンシェンド侯爵家の寄子たちが前タウンシェンド侯爵の叛乱に付き合って一緒にノーザンブリア王国に敵対した事実を思い出し、南部の二大侯爵による寄親寄子制を危険視する軍務省の見方もわからないではない、と強く思った。
そしてシルボーを出発して十日後の七月二十五日、先行していたリオ・イーデン大隊長の中央第五驃騎兵大隊から急報が入った。
敵の威力偵察と思われる騎兵と触接、これを破った後、現在本隊に復帰中、という知らせだった。
威力偵察を出しているということはその後ろには有力な本隊がいるはずであり、いよいよ戦機が熟している、ということだった。




