第103話 家族を思う心
王国暦六〇三年七月一日、王都シャルヘンは沸いていた。
それはアリス第一王女が王太女として立太子するべく、立太子礼が行われていたからだ。
臣民たちは、数年前から病に倒れたままとなっている王、その後継者を巡る暗闘から内乱という暗いニュースが雲一つない青い空のように明るく晴れ、降り注ぐ初夏の日差しのように王国の前途は光に満ちているという気分にさせていた。
あわせてアナスタシア第二王女と、新しく伯爵に陞爵したユート・エーデルシュタイン伯爵の婚約も発表され、英雄と王女という組み合わせ、そしてあまり表に出てこなかったアナスタシア第二王女の可愛らしさに臣民たちは歓喜した。
また、同時に大森林の姫君ジークリンデ・エーデルシュタインとユート・エーデルシュタイン伯爵の婚約の発表、それに伴って北方から餓狼族ゲルハルト・アドルフと妖虎族アルトゥル・レオンハルトが祝賀に来たことも、北方の紛争が終わったことを王国臣民に実感させた。
もちろん、不安を覚えない者がいなかったわけではない。
一ヶ月前、内務省警邏本部と北方軍が王都のど真ん中、官庁街で睨み合ったという事実を覚えている者は多かったし、そこから貴族と官僚を巻き込んだ政官界の対立を感じ取っている者もいた。
そうでなくとも、アリス王女はまだ十五歳であり、十五歳の王女が摂政王太女として王国の舵取りをしていくことについて不安を抱いている者も多かった。
とはいえ、立太子礼と叙任叙爵式、そして婚約発表の流れの中で王国の雰囲気は慶賀一色となっており、そうした不安を持った臣民もともかくその雰囲気にあわせて不安は胸の内にしまい込んでいた。
「まあ実態は全然収まってないのですよ」
アナは王都のエーデルシュタイン伯爵の屋敷――これは伯爵陞爵の引き出物としてパストーレ商会から贈られた――のティールームで淹れたてのメリッサ茶を飲みながらそう呟いていた。
メリッサ茶はレモンのような匂いがするハーブティーであり、そのハーブは北方の大森林にしか生えないものだったが、アナが好きと聞いたゲルハルトが餓狼族大隊の物資として持っていたのを全部プレゼントしてくれたのだ。
「サマセット伯爵とハミルトン子爵か?」
「まあお二人はそうでもないのですが、その下の貴族がもめているのです。ハワード男爵とテンビー子爵が強制隠居の上、両家が減封となったことがマイナスに影響しています」
あの王都乱闘事件はすぐに口さがない王都の庶民たちの話の種となった。
進め、いや止まれ、とやり合っているところを公園では大道芸人たちが大げさな喜劇調で演じ、庶民――特に子供はそれを真似て進め、止まれ、とじゃれ合っていた。
恥をかかされた――というより現在進行形でかいている警邏本部はそれを取り締まろうとしたものの、取り締まれば余計に広まると危惧した内務卿に補されたハントリー伯爵の鶴の一声で取り締まることを禁止されている。
事態を拡大させたハワード男爵とテンビー子爵は内務省や軍を追われただけではなく、強制的に隠居させられた上、知行地の一部を収公されるという憂き目を見ていた。
これは自分の立太子礼にけちをつけられたアリス王女の報復的な処分と噂されており、ハワード男爵家、テンビー子爵家ともにアリス王女の治世下――つまり向こう四、五十年――では冷遇されるのではないかとすら言われていた。
そして、こうした厳罰によって両者の所属していた派閥の貴族が動揺していた。
「まあウェルズリー伯爵とハントリー伯爵なら抑えてくれるだろう。ハミルトン子爵とサマセット伯爵もそうそう暴発させないだろうし」
「それだけならばいいのですが……」
アナが言いたいことはわからないではない。
タウンシェンド侯爵の後継者となったトリスタン卿は謹慎すると称して南部のタウンシェンド侯爵領に引っ込んでしまっている。
これはいいのだが、謹慎とは名ばかりであり、実際には南部貴族のうちタウンシェンド侯爵家と所縁の深い者を集めて何やら企んでいるという噂も流れていた。
そして、もう南部貴族のもう一人の大物クリフォード侯爵もまた同じように謹慎していることから、南部貴族全体として何らかの良からぬ考えを持っているのではないかと言われている。
「クリフォード侯爵はそんな人には思えないんだけどなぁ……タウンシェンド侯爵は知らないけど」
「トリスタン卿は私もほとんどお会いしたことはないのでなんとも言えないのですが……」
「あら、アナが知らないって珍しいわね」
ジークリンデと一緒にメリッサ茶を飲んでいたエリアが不思議そうにアナを見た。
「それが……先代タウンシェンド侯爵が七卿の一人として王都に駐在していたので、領地のことを見るのは必然的に嫡男のトリスタン卿になっていたのです」
「ああ、サマセット伯爵も嫡男に見させているらしいし、そういうものなのね」
「……何か……大変なのですね……」
「え、ええ、まあ」
ジークリンデが小さな声で呟いたのに、ユートもそんな動揺したような答えしか返せない。
ユートはアナやエリアはともかく、このジークリンデとどういう関係を築いていけばいいのか未だにわからず、距離感が掴めていない。
恐らくジークリンデも距離感を計りかねているようで、政略結婚とは難しいものだな、とユートに痛感させている。
とはいえ、そこら辺はエリアが上手くやってくれているようだった。
純エルフであるので実際の年齢はともかく、外見はエリアとは近く見えるし、エリアも親近感はもっているようだった。
「近い将来、二人を七卿に入れればバランスはとれると思うのですが……」
「……なぜ……入れないの?」
「ポストが足りないのです。今のところ外務卿しか空いていませんから、どちらかは漏れますし、そうなると混乱に拍車を掛けることになるのです」
アナのそんな言葉にジークリンデは頷きながら聞いているが、アナから感じるような政治的な見識というか、勘の良さのようなものを感じることは出来ない。
だからといって大森林でそうした政治的な動きがないわけではないのはレオナやゲルハルトを見ていればわかる。
あの二人はそうした貴族の動向など政治を知っているし、先頃まで略奪以外では大森林を出たことのないゲルハルトが知っているということはエルフや獣人にもそうした政治の動きはあるのだろう。
ジークリンデが病弱であるのでそうした政治に関わってこなかったのか、それとも純エルフがそうした政治とは隔絶した――例えば大森林の象徴的な存在なのか、どちらなのだろう、とユートは気になっていた。
「それはそうとしてユート、そろそろやらないといけないことがあるわよね?」
「えっと……」
それをジークリンデに聞こうかと思った時、エリアにそう言われて、なんだっけか、と頭を悩ませる。
「あんた、アリス王女から言われたこと忘れたの? ギルドをエーデルシュタイン伯爵家の“領分”とするための法令などが欲しければ通すって言われたわよね?」
「……そういえば言われていた」
忘れていたわけではなかったが、王都乱闘事件以後、西方混成兵団が王都の治安維持やらの仕事を担うことが多くなり、忙しさにかまけて放置していたのだ。
自分の叙任叙爵式の警備計画をなぜ自分で立てないといけないのか、と何度もウェルズリー伯爵に愚痴ろうとしたが、頭を抱えるのが常になっているウェルズリー伯爵と、そんなウェルズリー伯爵に仕事をさせようと奮闘するカニンガム副官の姿を見て何も言えなかった。
「どうするの? というか冒険者ギルドの利益になる法令ってどんなものなの?」
「俺に言うな。法令は門外漢だ」
一応、日本にいた頃は法学と経済学を勉強していたこともあるが、あんなものは日本のものであって、この世界では通じるわけはない。
「法務卿あたりに聞いてみる、とかどうかしら?」
「ウォーターフォード侯爵だっけ?」
「バーナード卿はあまり当てにしない方がいいのです。あの人は良くも悪くも頑固で保守的なのです」
「つまり、法令を改廃するような方向のアドバイスは……」
「まずしてくれないと思うのです」
まあ法律を守らせ裁判を司る法務卿は保守的で頑固な方が安心できるような気がするが、アドバイスを受ける相手としては不適任だろうというのはよくわかる。
「じゃあハントリー伯爵?」
「……ものの理とやらで、お前らも仕事をしろって言われるぞ」
事実上、外務卿と内務卿を兼任している上、財務卿の仕事も一部引き受けているハントリー伯爵は五人しかいない七卿のうちで一番の多忙となっている。
そんなところに相談を持ちかけたら、口癖のものの理とやらを持ち出されて仕事の手伝いをさせられるのが目に見えていた。
「それに、あの方々は冒険者ギルドのことを何も知らないのです。そう考えると冒険者ギルドと法令の両方に詳しい人物が必要なのです」
「そんな都合のいい人物、いるわけないよなぁ……」
ユートはため息を吐いた。
だが、エリアは自信満々な表情をしている。
「ああ、あたし一人知ってるわよ」
「誰だよ?」
「デイ=ルイスさん」
西方総督府内務長官ルイス・デイ=ルイス――確かに王立大学での俊英であるデイ=ルイスならば法令に詳しいだろうし、ユートたちほどではないにしろエレル冒険者ギルドの業務にも通じているだろう。
「あと、エリックさん、プラナスさんあたりもいいかもね」
パストーレ商会代表支配人エリック・パストーレは法令への詳しさ、エレル冒険者ギルドの業務への詳しさではデイ=ルイスに一歩劣るかも知れないが、その分、民間から見た法令については詳しいだろう。
ついでにパストーレ商会エレル支店支配人であるプラナスのあたりも世知に長けており、冒険者の仕事への見識を考えれば意見を聞いておきたい人物でもある。
エリックとは屋敷を贈られた時に一度会っているが、お互いに忙しかったこともあって余り話をすることもなかったので、一度しっかりと話をしておきたいという気持ちもあった。
「なあ、エリア、エレルに戻るか?」
「いいわね。セリーちゃんの赤ちゃんも気になるし、母さんにも会ってないし、一度エレルに戻りましょう! ああ、アドリアンの意見も聞かないといけないしね」
「そうしようぜ」
そう言いながら、ユートはふとアナの顔を見た。
「あ」
そういえばアナは当然王都生まれの王都育ち、しかも実の父親であるトーマス王は危篤に近い重病という状況なのだ。
忘れてはしゃいでいたユートは、アナの顔を見てどうしていいかわからなくなる。
「ユート、嫁いだ以上、例え王女の身位を持っているとしてもわたしはエーデルシュタイン伯爵家を優先するべき人間なのです。父上よりも夫君を立てるのが当然のことなのです」
アナはそう言って首を振る。
「……エリア」
「……ユート、もうちょっとしてからにしましょうか。今の時期は暑いしね」
気まずそうにエリアとユートが顔を見合わせた。
「ユート、本当に構わないのですよ」
アナは表情を見せずに、なおもそう言う。
「なあ、アナ。お前、陛下から言われたことを覚えているか?」
「ええ、姉様を立てよ、と」
「違う。陛下はお前のことを、家族のぬくもりを知らぬ子、って言ってたんだ」
それはユートが言われたことだったが、すぐ傍にいたアナも聞いていたはずだ。
「アナ、家族が死にそうなら、悲しくて当然だし、不安で当然なんだ。そんな時に、貴族としてとか、妻としてとか、そんな“こうあるべきだ”は考えなくていい」
「でも……」
今度はエリアがアナの傍に寄る。
「ねえ、アナ。あんたは賢いわ。冒険者としてならともかく、貴族の妻としてならあたしは一生かかってもあんたに勝てないと思ってるわ。でもね、あんたはまだ九歳の子供なの。九歳の子供は、子供らしく我が儘言ったりしていいの」
エリアの言葉を聞いて、アナの頬を涙が伝った。
「ユート、本当に我が儘言っていいのですか?」
「当たり前だろ?」
「ユート、ごめんなさい。わたしは今は父上の傍にいたいのです。父上がお亡くなりになるまで、あと何回会えるかわかりませんが、会えるだけ会いたいのです。ユート、ごめんなさい」
そんなアナの頭をエリアが撫でてやっていた。
「アナは?」
「泣き疲れて寝たわ」
あの後、アナは泣きじゃくった。
小さなその胸は、父王が今にも病死しそうという状況で、不安に張り裂けそうだったのだろう。
堰を切ったように泣くアナをエリアはずっと頭をなで続け、そしてさっきまでベッドで寝かしつけていたのだ。
「ともかく、しばらくは王都にいよう。秋口にエレルに戻って、冬をエレルで過ごすような形でいいかな?」
「ええ、それでいいわ。セリーちゃんたちもその頃には落ち着いているでしょう」
典医たちの診立てが間違っていなければ――アナには酷なことだがトーマス王の寿命は秋口までには尽きるだろう。
恐らくアリス王女もそれまでは忙しいだろうし、法令についてももう少し余裕がありそうだ、とユートは思っていた。
「時間もたっぷりあるんだし、あたしたちが求める法令は完璧なものにしちゃいましょう」
エリアはそう言って笑った。




