第099話 この家名の下に
「ユート、家名はどうするのですか?」
アリス王女のティールームを辞すとすぐにアナが聞いてきた。
「どうする、と言われてもなぁ……」
ユートとしてはそれよりギルドのために必要な法令の方が気になっていたが、恐らく王女のアナにとっては家名を決めることの方が大事なのだろう。
「何かいいアイディアはない?」
もうすぐ九歳のアナに臆面もなく訊ねるが、アナも難しい顔をしたままだ。
「これまで領地がないまま爵位を得た前例はほとんど聞かないので困るのです」
「教会は?」
「教会は家を捨てたことが前提になっているので、そもそも家名は馴染まないと聖をつけるだけにしているのです。例えば聖ピーター伯爵、というように」
いくら経済的基盤が領地に拠らないという意味で一緒だからといって、教会のように聖をつけるのはおかしいし、だからといって冒険者を象徴するような一字など思いつきもしない。
「とりあえずウェルズリー伯爵あたりに聞いてみるか……」
貴族のことならば、ウェルズリー伯爵かサマセット伯爵あたりに聞くのが一番とユートも思う。
ただ、サマセット伯爵は西方直轄領の政務に加えて王女派の中心的人物として忙しいようであり、まだ病み上がりでそこまで仕事が入っていないはずのウェルズリー伯爵に聞くことにした。
「それで、私のところに来た、というわけですか」
「ええ、何かいいアイディアないですかね?」
案外執務机の上には大量の書類があったが、ウェルズリー伯爵は邪険にせずにユートを迎え入れてくれた。
「とは言っても私も前例を聞きませんからねぇ……」
「ギルド伯爵、とかはどうですかね?」
「それは、やめておいた方がいいでしょう。ギルドは本来は同職連合の意であり、冒険者ギルド固有の名ではないわけです。もしユート君の、ギルドを“領分”とする貴族というのが成功すれば今後他のギルドでも似たような施策がとられる可能性があります。特に鉱山の経営から鉱石の分配までやってる鍛冶ギルドのあたりは貴族に組み入れたいという意向もあるでしょうし」
ウェルズリー伯爵の言葉を聞いてユートは頭を抱える。
冒険者ギルド伯爵ではさすがに締まらない。
「まあそれ以上は私にもなんとも……ああ、でも今日ちょうどいい人物が来ますので、紹介しましょうか?」
「え、本当ですか? お願いします!」
ユートが食いついたのを見て、ウェルズリー伯爵は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「ふむ、話は聞いたぞ」
やってきた人物にユートは驚いていた。
クリフォード侯爵ジャスティン――先頃まで軍務卿であり、ゴードン王子派軍の総司令官として相対していた人物だ。
「あの、なぜクリフォード侯爵がここにいるんですか?」
「簡単なことだ。私は前軍務卿だからだ」
その“前”の文字は逼塞を命じられた結果ついたんじゃないのか、と思うがさすがにそれを口に出さない分別はある。
「私はこのたび軍務卿を拝命しましたからね。引き継ぎにジャストを呼ぶのは当然でしょう?」
ウェルズリー伯爵は悪戯が成功した時の子供のような表情をしている。
本当にこの人は五十そこそこの人なのか、と思う時が多いが、それ以上言っても無駄な気がしたので、ユートは敢えて何も追及はしないことにする。
「えっと……」
「ああ、戦いのことならば気にするな。というよりも、私も貴公に話を聞いてみたいと思っていたのだ。ちょうどよい機会であるから、私が有職故実について貴公の相談に乗るかわりに、戦いについての話を聞かせてもらいたい」
「僕は戦いのことはあまり……ウェルズリー伯爵に聞けば……」
「この男がそんな面倒くさいことをすると思うか? 面倒くさいからと王立士官学校時代に出世に繋がる委員長職を私に丸投げしてきたような男だぞ?」
それでよく出世出来たな、と思うが、面倒くさがっていてもやるべきことはやる人だし、何よりも軍事的な才能を考えれば事務処理能力の高い補佐役をつけて出世させるのが一番、と上層部は考えていたのだろう。
「まあいい。戦いのことは置いておくとしても、だ。有職故実については教えてやろう」
「お願いします」
「まず、家名についてだが、一般的には従騎士や正騎士になる時に決める必要がある者が多い。平民は建前としては家名を持たないからな」
平民が従騎士になった、と聞いて浮かんだのはアーノルドだった。
アーノルドは確か平民の出で、軍人になって従騎士に任じられたと言っていたとユートは記憶している。
「アーノルドさんはどうしてアーノルドの家名を決めたとか知っておられます?」
「あやつの実家は商会だ。商会は王国改革の前、まだ輜重段列がなく酒保商人に頼っていた頃の名残で家名を持っているから、その家名をそのまま使っている。ついでにいえば、軍人や官僚には代々王立大学や王立士官学校に入って高等官になる家系というものが存在していて、それらは代々同じ家名を名乗っているな」
「私とユート君の共通の知人で言えば、ブラックモア君がそうですね」
ウェルズリー伯爵が口を挟んできた。
そういえばブラックモアは正騎士になることを熱望している平民出であることを思い出す。
「彼のお父さんも軍の士官でした。代々王立士官学校を卒業して軍の士官になり、実力だけで従騎士身分を維持する、という家系ですね」
「もし自分が士官になれなくとも家名を非公式に持っていて子なり孫なりなりが士官になれば再びその家名を名乗らせればいいだけだしな」
家名について色々と教えてもらったが、ユートが知りたいのはそこではない。
「じゃあ大多数は予め決まった名前を名乗る、ということですか?」
「そういうことだ」
断言したクリフォード侯爵におい、と思わず突っ込みを入れそうになったが、クリフォード侯爵は言葉を続ける。
「ただ、そうではない場合もある。一つは当たり前だが、そうした家系ではなく、商人でもなく高等官になった平民だな。この場合は自分で家名を考えればならない。この場合は適当に父の名、偉人の名などから取ってつけることが多いようだ」
父親の名、といってもこの世界の父親ではないので少し不適切だろうし、日本の名字だった青柳やそれに所縁の名前を使うのもなぜその名なのか、と詮索されれば余りいいことではないだろう。
一応、東海洋遙か彼方にある島からこっちに神隠しか何か――魔法のように転移してきた、と言い訳は考えているが、魔法の専門家などからすればそれがチープな言い訳に聞こえるかも知れない。
それにユートは東海洋にある島の出身、と公式に記録されてしまい、近い未来、あるかわからない東海洋の島をあると信じて探検家やらが海上を彷徨うことになるのも避けたかった。
となると偉人、だが、ユートはこの世界の偉人には余り詳しくはない。
せいぜい百年前に王国改革を行い、軍を近代化して平民の政治参加への道を開いた名君エドワード王くらいしか知らないが、さすがにエドワードと名乗るのは僭越だろう。
「もう一つは領地を持った貴族の場合だ。領地を持った貴族は、基本的に領名を家名とするものだが、転封になったものの、前任の領主が苛政を敷いていて除封されたので、その家名を名乗りたくない、という場合だな。この場合にも、それまで名乗っていた家名も使えぬゆえに所縁の家名か、教会の経典の一節から取った家名を名乗ることが多い」
「所縁の家名?」
「先祖が使っていて今は使われなくなった家名、或いは正騎士から妻を迎えている場合、妻の家名などがこれにあたるな。後者は婿入りしたようだ、という理由で余り使われることはないが」
これもまたユートには縁のない話だった。
「じゃあ経典の一節から取るのが一番ですかね?」
「まあそういうことになるだろうな」
クリフォード侯爵はそう頷いたが、ウェルズリー伯爵が首を横に振る。
「ユート君、あなたの部下には石神信仰している獣人が多いのではないですか? だいたい大森林の民も王国臣民も平等に冒険者ギルドに参加できる、というのがあなたの婚姻の目的だったはずですよ」
ウェルズリー伯爵の言うことにも一理ある。
「となると、困りましたね」
ユートは本気で頭を抱えた。
先祖の家名、父親の名前、偉人の家名や名前、教会の経典の全てが否定されて、せっかく家名にまつわる有職故実を教えてもらったのに全く名乗る家名についていいアイディアが思いつかないのだ。
「ユート」
不意にアナが口を開いた。
「エーデルシュタインはどうでしょうか?」
エーデルシュタイン――大森林の言葉で高貴なる石、美しい石を意味する言葉であり、大森林の統率者であるイリヤ神祇官の家名であると同時に、大森林のエルフや純エルフの氏族の家名である。
「いいのか、勝手に名乗って?」
普通に考えれば思い切り大森林寄りの家名であるから、王国臣民にも大森林の民にも平等、という観点で考えればユートにはあまりよい家名とは思えない。
それに大森林の有力氏族の家名を勝手に名乗るのもどうなのか、と思うところでもある。
「わたしの母様もエーデルシュタインの家名を持っていました。ですから、王国貴族の慣例から大きく外れるものではないと思いますが……どうですか?」
話を振られたクリフォード侯爵が頷く。
「アナスタシア王女殿下の仰るとおりにございます。慣例から外れているわけでもありませんし、確か百年近く前に王族の方が臣籍降下された際、母方の祖父の家名を名乗った例もございますので、面と向かって非難することは出来ませんでしょう」
アナは満足げに頷く。
「それにジークリンデ殿の家名でもあれば、エルフの方でも問題はないでしょうね」
ウェルズリー伯爵がそう補足する。
「エルフの方は女系相続が主、つまりジークリンデ殿がエーデルシュタイン氏族である以上、ユート君がエーデルシュタインの家名を名乗るのはあちらの流儀にも合致します。むしろ大森林をないがしろにするわけではない、といういい政治アピールにもなるのではないでしょうか」
ウェルズリー伯爵はさすが前北方軍司令官だけのことはあって、エルフや大森林の習俗にも通暁していた。
「ユート君が構わないならばエーデルシュタインの家名はいいと思いますよ。政治的にも非難されることもないですし、大森林にも配慮した家名になるはずです。それに獣人たちもその家名があれば、そうそうユート君の下から離れることはないでしょう」
「そうですね」
ユートは別にこれといって名乗りたい家名が――青柳は別として――あるわけではない。
それならば政治的に問題のない家名を名乗ればいいのではないかと素直に頷いた。
「やっぱり獣人が僕の下を離れるのってまずいんですか?」
「ええ、大変に」
ウェルズリー伯爵は妙に獣人に配慮するな、と思って投げかけたユートの質問にウェルズリー伯爵はにこやかに微笑み、そしてユートは身構える。
大体の場合、ウェルズリー伯爵がにこやかであればあるほど、ろくでもないことを考えているというのはこれまでの経験でよくわかっていた。
これまではろくでもないことを考えているのは敵に対するものだったが、いつその矛先がユートの方を向くかわからない。
「私は苦難の川の会戦の後、あなたの部隊を猟兵と評しましたが、あれは今までの戦いを根底から覆しかねない存在です。近接法兵支援を受けて戦列も組まずに戦うというのはこれまでの戦術の常識からは外れています」
「ほう、猟兵と言うのか。なるほど、苦難の川では痛い目を見せられたしな。なぜ森林を突破したのだ?」
「ええっと……その直前に、ふと思ったんです。これって戦ってる相手は人か魔物かは違っていても普段の狩人の仕事と変わらないんじゃないかと。それなら、下手に戦列とか難しいこと考えるよりも、冒険者が一番戦い慣れた戦い方で戦えばいいんじゃないかと思いまして」
なるほど、とクリフォード侯爵はしかめっ面をして、ウェルズリー伯爵は面白そうに笑う。
「なるほど、なるほどな。それで猟兵、か。レイ、貴様の名付けも悪くはないではないか」
「戦列を組まずに小隊どころか分隊を超えて班――ああ、冒険者の言い方ですとパーティですか――パーティ単位で法兵の支援を受けて戦うというのはちょっとありえない戦い方ですね」
「うむ、軍教範にはない考え方だ。しかし、軍に取り入れるのは困難だろうな」
ウェルズリー伯爵もクリフォード侯爵も一流の軍人である。
すぐにその戦術についての議論を始めたが、ユートにはさっぱりわからなかった。
ともかく、家名をエーデルシュタインにすることは決まったので程よいところで議論を切り上げて逃げようとする。
「また困ったことがあったら頼って来い。レイは面倒くさがりだから適当なことを言うかもしれんが、私はそんなことはない」
帰り際にクリフォード侯爵はそんなことを言ってくれたので、ユートは笑顔で礼を言って辞する。
帰りがけにもクリフォード侯爵とウェルズリー伯爵はまだ軍の教範はああだこうだと言い合っていたので、恐らく引き継ぎそっちのけで軍の編成やらについて話をするのだ、ということは想像がついたが、それについて何かを言う気力はなかった。
「ユート、家名はあれでよかったのですか?」
帰りがけにアナが申し訳なさそうにそう訊ねてきた。
「どういうことだ?」
「いえ、立身出世の志なって晴れて伯爵位を与えられるというのに、その家名をユートの関係のないところで決めてしまってよかったのか、と思っているのです」
「ああ」
そんなことか、と言いたくなったが、おそらくアナの常識では功成り名遂げるの名には、自分の思う家名に対する名誉や名声ということになっているのだろう。
ユートは別にそんなことを気にしてないが、アナにとってはとても重大なことなのだろう。
「エーデルシュタイン、いい名前じゃないか。それに、アナは北方で言っただろう」
「え?」
アナは小首を傾げ、今日は略装と言うことあって見えていたオレンジ色の尻尾も同じように動く。
この愛らしさがわざとやっているものならば、九歳にしてずいぶんとあざといと思うが、ユートはそうした煩悩を振り払って言葉を続ける。
「ほら、北方大森林の血を引きながら、王国の王女でもあるアナにしか出来ない仕事だ、獣人と人間がいがみ合うのは見たくないって言っただろう?」
そう、あれはウェルズリー伯爵を味方にしようとした時だったとユートは記憶している。
「ええ……」
「それを体現する、いい家名じゃないか。ノーザンブリア王家ゆかりであり、大森林ゆかりのこの家名の下に、その理想を実現できる、いい家名と思う」
それに、とユートは続ける。
「自分はそこまで家名や出世には固執しないさ。みんなと上手くやっていければいい、と思ってるだけだしな」
そう思っていただけのはずなのに、思えば遠くに来てしまった、と自嘲っぽく笑う。
そう、エリアを正騎士にして迎え入れ、アナやジークリンデと結婚して伯爵にもなって、アドリアンやセリルの居場所も作ってやれて、ゲルハルトやレオナという得難い友も得て、何よりも冒険者ギルドもノーザンブリア王国公認となった。
それ以上、何を望むことがあるのか。
「そうですか。ユートがそういう気持ちでいてくれたことはとても嬉しいです」
アナはそういうと、とびきりの笑顔を見せてくれた。
だが、次の言葉を聞いて、ユートは凍り付くことになる。
「ところでユート、エリアには既に気持ちを伝えてあるのですか?」
まだちゃんとは伝えていない。
なんとなく照れくさかったので、アリス王女がちゃんと約束してくれるまで、などと考えながら言わずじまいだったのだ。
凍り付いているユートを横目に、アナは珍しくため息を吐いた。
「ユート、それはよくないことなのですよ」
ユートは黙って頷くしかなかった。