第097話 父と娘と
シェニントンでの馬鹿騒ぎは一日で終わり、翌日からは王都シャルヘンに向かっての行軍を再開した。
「うう、頭痛い」
隣にいるエリアは馬に乗りながらそんなことを呟いているのがユートにも聞こえた。
酔っ払い運転――いや、酔っ払い乗馬はこの国の法律ではどうなのだろう、とくだらないことが頭に浮かんだが、騎兵の中にもそんなことを呟いている連中がいることを考えれば多分何も決められてないのだろう。
日本なら一発で監獄送りとなるような行為でもあっさり許容されているあたり、緩いなと思いながらもまあこれが許されるような勝利を得てよかった、と笑っていた。
ちなみにウェルズリー伯爵は戦利品のゴードン王子の馬車をアリス王女から特別に下賜されて、横になりながら移動している。
ウェルズリー伯爵の容態は安定しており、病気に対して効くとされる土治癒をかけてもらいながら移動していた。
それでも時折血を吐いているようだったが、少なくとも致命的なものではない、というのが野戦病院担当の法兵の診立てだった。
「早くウェルズリー伯爵には戻ってきてもらわないと……」
病床のウェルズリー伯爵には申し訳ない話だが、ユートにはウェルズリー伯爵の代役としてずっと司令官を務めるのは無理だった。
単なる戦争も、前線で部隊を指揮するくらいならばようやく慣れてきたが、一軍を指揮するとなると全く別の話であり、まして王都に着けば軍人として以上に、軍を指揮する貴族としての礼節などが求められる機会が増えることを考えれば、ユートではどうにもならない。
「まあ最悪、サマセット伯爵にやってもらえばいいじゃない」
二日酔いのせいで余り機嫌の良くなさそうな顔でエリアがそんなことを言う。
「ああ、西方軍司令官としてサマセット伯爵がやってくれれば穏便に解決するな」
「そうでしょ。そもそもあいつがユートに司令官押しつけたんだし」
後方で兵站を担ったサマセット伯爵にひどい言い様だが、軍を指揮する貴族としての立場、軍官僚としての立場なら別に戦下手であったとしても関係はないし、サマセット伯爵に頼めばいい、と考えて気持ちが軽くなる。
「こういうところがあるから、上の方は結局高位貴族になってくるんだろうな」
ユートはそう嘆息しながら、晴れ渡る空を見上げた。
王都までの行軍は特に問題もなく進んだ。
途中で東部貴族の軍勢と出くわすこともあったが、敵対しようというのではなく、自分は下よりアリス王女の為に戦おうと思っており、今、アリス王女の下にはせ参じた、という者ばかりだった。
もちろん、それらの大半は日和見をしていたことはわかっているが、真っ向からそれを指摘してもお互いに損しかしないので笑顔で受け容れる。
彼らは特段責められることはないが、実際にアリス王女のために戦った者よりは、論功行賞で下の扱いを受けるのは確実となるだけのことだ。
そして、ユートたちは無事に王都に入ることが出来た。
王都シャルヘンに到着すると、アリス王女はすぐに王城に登城した。
付き従うのは第二王女であるアナ、そしてどうにか回復したウェルズリー伯爵、それにユートに、先代カニンガム伯爵とシーランド侯爵の五人だけだ。
王女に高位貴族三人の中に放り込まれる格好となった上に国王との謁見など、ユートにとって緊張以外のなにものでもなかったが、慌ててアナが用意してくれた礼服に着られてこの場にいた。
なお、ユートたちが率いてきた軍勢の大半は既に王都郊外の演習場で野営させ、一部は王立士官学校や中央軍の駐屯所、宿舎に配置している。
中央軍は司令官のフェラーズ伯爵ウィルフレッドこそゴードン王子派につかなかったが、傘下の一部は大隊長や中隊長に従って参加しており、今後の暴発の危険がないとは言えない、というところから、警戒しての配置だった。
「シュルーズベリ侯爵、病床のところ大儀です」
アリス王女が到着したと聞いて、病気で倒れていたというシュルーズベリ侯爵がわざわざ登城してアリス王女を出迎えた。
シュルーズベリ侯爵もまた頬はやつれており、軽くはない病気であることは医学には素人のユートでもよくわかった。
「いえ、王女殿下の尊顔を拝し恐悦至極……」
「早速ですが、父上をお見舞いします」
アリス王女の言葉にシュルーズベリ侯爵は頷く。
「わかりました」
「父上はどのようなご様子ですか?」
「…………この夏までは持たぬのではないか、典医たちが申しておりました」
シュルーズベリ侯爵の言葉を聞いて、アリス王女はきっと唇を噛む。
この夏まで持たない、ということは長くてあと三ヶ月、ということか。
「父上……」
アナが泣きそうな声を上げた。
いくらおしゃまな第二王女でも、実の母を既に亡くしていて、父もまた今死病に冒されている時に気丈な様子を見せることは出来ないのは当たり前だ。
「わかりました。ともかくお見舞いしましょう」
そう言うと、アリス王女は付き従うユートたちを見た。
「申し訳ないのですが、ここから先は父と娘の話をしたいのです。あなたたちはしばらく遠慮して下さい」
アリス王女にそう言われて、うんと言わないわけにはいかない。
「ああ、ユート卿は一緒に」
アリス王女の言葉を受けて、シーランド侯爵や先代カニンガム伯爵は妙な顔をしたが、それ以上にユートがなぜ、という顔をしていた。
「あなたはもうすぐ身内になる身でしょう」
「ユート……」
アナがユートの右手を掴んだ。
つまり、貴族としてのユートではなく、アナの非公式の婚約者としての立場で立ち会えというのだろう。
シーランド侯爵にしろ先代カニンガム伯爵にしろそれを見て納得したような表情だった。
「父上、お久しぶりでございます」
アリス王女は王の寝室の、大きな天蓋付きベッドに横たわるトーマス王に近づくと、そう呟くように言った。
侍従も侍女も全て下がらせて、室内には他にユートとアナしかいない。
「アリス、か。久方ぶりよの」
トーマス王は体を起こさず、首だけ動かしてアリス王女の方を見ると、苦しい息でアリス王女に言葉を返す。
「はい。少し西方に行っておりました」
「聞き及んでおる」
そして、少し悲しそうな目をする。
「ゴードンは、おらぬか」
「はい」
その短い会話で、ゴードン王子がどうなったかは悟ったようだった。
「そう、か。アリス、お主は王たる資格があるようだの」
「そうでしょうか」
「ああ……最後まで情にほだされぐずぐずと後継者を決められずに、兄妹相剋を生み出すようなこの父よりも、よほど……王らしい」
トーマス王が言っているのはゴードン王子を討ったことだった。
彼が生きていれば女系のアリス王女の子と、男系のゴードン王子の子の間で将来アリス王女の後継者争いが起きかねないのはかねがねアリス王女が危惧していたとおりであり、それを阻むためには王子が生まれないうちにゴードン王子を討つことが望ましい。
だが、兄妹の情を考えればそう簡単に割り切れないのもまた人間である。
「いえ、兄上は自ら自裁されました」
「そうか……あれも心優しき子であった」
そういうとトーマス王は瞑目した。
泉下のゴードン王子の冥福を祈っているのか、それとも自分の逡巡が結局貴族を二派閥に分けた兄妹相克の争いを生み出し、そして自裁せざるを得なくなったことを詫びているのか。
「アリス、王たる資格はあれども、国を治めるは難しいぞ」
実感のこもった声だった。
「貴族もそうであるし、民たちもそうだ。あちらを立てればこちらが立たぬ、何かを生かすためには何かを殺さねばならぬ。その中でよりよいと信ずるものを、孤独に選び取っていかねばならないのが王だ。ゆえに己を信じながら、己を疑い続けよ。凡庸な王ではあったが、それでも道を踏み外さなかった儂の言葉ゆえ、心の奥底に刻んでおけ」
「わかりました」
アリス王女が頭を下げると、トーマス王は満足げに頷いた。
「ところでアナスタシア」
少し離れたところでユートと共に立つ、アナを呼んだ。
「はい、父上」
「すまなかった」
トーマス王はアナにそう詫びた。
「そなたは聡い子であった。ゆえに隠してはいたが、ずっと寂しかったであろう。そして、そなたに何かしてやれぬうちに儂は旅立たねばならぬ」
「父上……」
「既に母と兄は亡く、父もまた旅立てば、そなたに残されたのは、姉しかおらぬ。そなたは聡い子だ。もしかすればよからぬ貴族が、よからぬことを考えるやもしれぬ。しかし、そなたとアリスまでが相剋となれば、この父は浮かばれぬ。最後までそなたには無理を強いるが、姉を立ててくれ。この父の最期の願いだ」
アナの口からは言葉が出なかった。
双眸からは涙が溢れ、何か言おうにも意味を成すような言葉にはならない。
「アナスタシア」
アリス王女がぴしゃりと言った。
「しっかりなさい。あなたの口から父上に言上するべきことがあるはずです」
そう言いながらちらりとユートの方を目で指す。
「ち、父上……」
「なんじゃ?」
「先立って、北方大森林の民と和睦がなりました。和睦の条件は、ここにおる正騎士ユート卿が立てた冒険者ギルドの中立化、とのことです」
うむうむ、とトーマス王は目を瞑り、頷きながら効いている。
「そして、あちらからはイリヤ神祇官の親族たるジークリンデ殿がユート卿に嫁ぎ、また我が一族よりはわたくしがユート卿に嫁ぎたく思います」
「そうか」
トーマス王は頷く。
「大森林の件、本来ならばニコラシカが儚くなった時にどうにかせねばならなかったこと。この父の後始末をしてくれて感謝するぞ」
そして、ユートの方に視線を向けた。
もう首を起こすこともなかった。
「ユート」
睨めつけるような、強い視線――それは長く君臨してきた王者の視線だった。
「そなたは不思議な男のようじゃの」
それだけ言うと、もう一度じろりと見る。
「長年王座に座っておれば、大体の者については腹の奥底に何を隠しているかわかるもの。しかし、そなたはそうではない。不思議な男のようじゃ」
そこで視線を緩めると、目を瞑った。
「娘を――アナスタシアを頼む。この子は、家族のぬくもりを知らぬ子じゃ。そして、そうしてしまったのは儂の不徳。申し訳ないが、この子に家族のぬくもりを教えてやって欲しい。これは王としてではなく、一介の老父としての願い。どうかよろしく頼むぞ」
「は、はい!」
ユートは大声で答えていた。
それを聞いてトーマス王は満足げに頷くと、再びアリス王女の方に視線を移した。
「アリス、そなたは儂の玉璽を持ち出していたであろう」
アリス王女はばつが悪そうに頷く。
「持って参れ」
「既にここに」
「そうか。ハーマンとケヴィンを呼べ」
トーマス王の言葉に、すぐにアリス王女は呼び鈴を鳴らして侍従たちを呼び、シュルーズベリ侯爵と、宮内卿である正騎士ケヴィン・アーネストを呼びにやらせる。
二人も待機していたらしく、すぐにトーマス王の寝室へと入ってくる。
「良いか、今から言うことを全て勅諚とせよ」
「お体の方は?」
「馬鹿なことを言うな、ハーマン。これをせねば死んでも死にきれぬ」
そう言いながら、トーマス王はアーネスト宮内卿にいちいち言うことを書き取らせて、その上で自ら玉璽を押していく。
まずは自身の不予があるので、アリス第一王女を王族摂政として国政を見させるという勅諚。
次にアナスタシア第二王女に対する婚約の許可と、その婚約式に関する勅諚。
そして、アリス第一王女の王太女への立太子礼に関する勅諚。
何度も言葉に詰まり、何度も言い直し、それを同じく重病のシュルーズベリ侯爵が修正して勅諚を完成させていく。
三通の勅諚を完成し終えると、トーマス王は力尽きたように目を閉じた。
「父上……」
アリス王女がそんな言葉を漏らしたが、トーマス王は眠りについたのか返事をしなかった。
大広間へ出てくると、ウェルズリー伯爵たちは待っていた。
別室へ案内されたようだが、アリス王女たちが出てくるのを待つと言って聞かなかったようだ。
「レイモンド、ブルーノ、ロードリック、待たせました」
「して、陛下は?」
一番に訊ねたのは意外なことに先代カニンガム伯爵ロードリックだった。
「陛下はお休みになられています。その前に少し、勅令を頂きました」
「して?」
「私は摂政王太女となります」
短い言葉だったが、そこにはアリス王女の王になるという強い決意が込められていた。
もちろんこれまでも王になるために戦い抜いてきたのだが、トーマス王の言葉を聞いて今まで以上に王となることに強い執着を持った言葉だった。
その言葉に、ユートも含めた全員が跪く。
「まずハーマン。あなたは少し休みなさい。その状態ではまともに仕事も出来ぬでしょう」
「姫様! ……いや、摂政殿下! 儂はまだまだ働けますぞ! 王国の変化の時に財務卿たる儂がおらねば……」
「それでは陛下より先にあなたが逝ってしまいます。これほどの不忠はありません」
「しかし!」
「くどいです。それ以上言うならば、陛下より与えられし摂政の権をもってあなたの財務卿の職を解かねばならなくなります」
「……わかりました」
不承不承、シュルーズベリ侯爵は頷く。
七卿のうち内務卿タウンシェンド侯爵は討死し、軍務卿クリフォード侯爵は逼塞を申しつけられて事実上解任されている。
それに加えて財務卿シュルーズベリ侯爵が休養を申しつけられ、恐らく慣例に従って宮内卿アーネスト正騎士も近い将来解任されるだろう。
これから起こる、そしてクリフォード侯爵が予言していた権力闘争が起きそうな雰囲気に、シュルーズベリ侯爵以外の貴族たちも内心に不安を覚えた。
「ハーマン、宰相の代理はハントリー伯爵に申しつければいいですか?」
外務卿のハントリー伯爵の名前が出たことでシュルーズベリ侯爵はほっとする。
少なくともアリス王女は七卿の全面的な刷新を考えているわけではないことはわかったからだ。
シュルーズベリ侯爵にしてみればアリス王女は時に冷徹であり、もしかすれば七卿をいきなり刷新するようなドラスティックな改革をしてしまうのではないかと不安に覚えていたからだ。
「はっ! ハントリー伯爵ならば儂よりも優秀でしょう。いささか若く、そして変わり者なのが玉に瑕ですが……」
ユートもかつて正騎士の叙任式に勅使としてやってきて会った人物のことを思い出して、シュルーズベリ侯爵の言葉に笑いそうになってしまう。
「それと、サマセット伯爵に王都へ出仕するように使者を出しなさい。兵站はもうどうにかなっているでしょうし、西方もサマセット伯爵の力が必要なことはそろそろ終わっているでしょう」
すぐに使者が発せられる。
おそらくサマセット伯爵も王女派軍の動きに合わせて王都へ向かっているはずので、そう時間がかからないうちに王都に到着するだろう。
「それとバーナード卿とキース卿にも直ちに登城するように命じなさい」
アリス王女の命により、法務卿ウォーターフォード侯爵バーナードと総務卿コーク伯爵キースにも呼び出しがかけられる。
アリス王女の矢継ぎ早の命令に、そこにいた面々は今まで停滞していた国政が一気に動き出すような錯覚を感じた。
いや、それは錯覚ではなかっただろう。
ノーザンブリア王国はアリス王女の下、大きな変革期を迎えていた。