第八の神話
チュン……チュンチュン。
朝だ。まごうことなき朝だ。
夜に愛し合うシーンが表現出来ない時によくあるスズメの鳴き声がしてるから、これは朝なのだ。
カーテンの隙間から漏れる朝日が照らすのは、もっこりと膨れ上がったベッドの上。よくある6畳1間のワンルームの鉄筋コンクリート製2階建てアパート『ウルトラ荘 【ハァイ!】』の203号室であるそこは、玄関を開けたら廊下兼台所がまず目に入る。その背後に位置する2つの扉にそれぞれ洗面台と脱衣所と風呂、そしてトイレが備わっている。いわゆるユニットバスではないのが、家主のこだわりだ。
そして、それを背に見て左側に、この簡易的なパイプベッドと小窓が奥に備わり、中央には今の季節を表す少し大きめのテーブル兼任のコタツ、家主お気に入りのポリエステル製の黒い低反発座椅子。
フローリングの床には黒のカーペットが敷かれている。
右側に地デジ対応の24型液晶テレビに、幾つか揃ったコンシューマ……家庭用ゲーム機、今流行りの猿の頭を模したWkiiに、つい先日発売したばかりの最新型ゲーム、通称RS4、レロレロステーション4。更に、同メーカー発売の、ゲームを始める前に必ずどっかの知らんおっさんにビンタされないと電源が点かないとか、問題作として話題のRSVINTA等が揃っている。
……因みに持ち主のソフトを収納しているケースを見ると、昔ながらの名作……女の子のデザインや解像度は微妙な作りのくせに、ヒロイン達の親密度が高まると主人公に売りつけようとする幸せになれる壺やら、3年後に死ぬ予言から逃れる為に買わせようとする壺やらがめちゃくちゃリアルで高い解像度を誇る『ときどきツボリアル』
15年前に亡くなったはずの主人公の実のひいお婆ちゃんが、105歳になって生き返った物語を描いた『俺のひい婆ちゃんがこんなに長生きなわけがない』
広島市内にあるプロ野球選手のおっさんと恋する物語『呉、C、~ゴ・カープ〜』(※くれと読んではいけないらしい)等、ギャルゲーと呼ばれるジャンルが多数揃っている。
悲しいかな、この部屋の家主は二次元に逃げる程、モテなかった。
ジリリリリリ!!!
ピピピー!! ピピピー!!!
お兄ちゃん! 朝だよ! んもぅ! 起きないならお目覚めのチュウしちゃうんだからね!
ウゥー! カンカンカン!! ウゥー! カンカンカン!!
近所からしたらはた迷惑な程に鳴り響く、複数の目覚まし時計。
こうでもしないと起きれないのだから、中々に睡眠と言う誘惑に弱いのだろう。現在時刻は朝の7時。起床しなければならない時間だ。
布団から右手が生える。わきわきと若干気持ち悪い手つきで次々目覚まし時計を切って……そのまま右手が力尽きる。
二度寝、熟睡、むにゃむにゃもう食べられないよ。
外は既に、木々は緑を失って枯葉が舞い散る季節。寒さが布団の魔力を数倍に跳ね上げ、温もりが睡魔を増長させる。
だが、このままでは遅刻、上司呼び出し、始末書、遅刻届提出と、負の連鎖が待ち構えている。
《うぉらマスター!! 起きやがれコンチクショー!!》
ベッド脇で充電されていたスマートフォン……ノアの方舟から、2頭身、全長にして20センチメートル程のトカゲのぬいぐるみが飛び出して、布団の上にダイブ。めり込む布団の中から『ぐぇっ!』と間の抜けた叫びがこもると、ガバッと家主……コウ・ザ・ストーンズが起き上がる。
「やめて! 俺はドMでもあるけどそんなプレイはぁぁぁぁぁ!!
…………あれ?」
《なあマスター、おはようの代わりにブン殴っていいか?》
いささか寝ボケているコウに、冷ややかな視線のトカゲのぬいぐるみ。
ようやく起きた主を待っていたかの様に、ポフンポフンと可愛らしい音を鳴らしながら、トカゲ同様白いにゃんこ、鳩みたいな鳥、クチナシ色の子犬、やたらおじいちゃんにデフォルメされた熊のぬいぐるみが飛び出す。
《おはようマスター! ねーねー、『60代の父が再婚し、自分よりも年下の継母になった複雑な家庭環境のお義母さんと一緒』観ていい!?》
《全く…寝ぐせでボサボサ、よだれの跡、醜いですわよ。殿方は身だしなみが大事ですわ。早く顔を洗ってらっしゃい》
《マスターや……シャケはまだかのう?》
《翁…シャケは昨晩食べたでしょう?》
《食うとらん! わしゃあ食うとらんぞ!?》
朝から脳内にギャースカ響くぬいぐるみの様なナマモノ達。
そう、見た目が随分と可愛くなっているが、これらはれっきとした彼が使役する5体の神獣達だ。
先日のスヴェトラーノフ公国で顕現した姿から随分とちんまりしてしまったが、四六時中あの姿で現れては、消費が激しくマスターたる神獣士の精神力が保たない。
所謂パソコンで言うスリープモードの様なものが、愛くるしいぬいぐるみモードだ。
「おま〜ら……一斉に喋るな……二日酔いみたいに頭に響く……」
頭を軽く手で支えて低い声で呻くコウ。
ラミアー事件がやっと解決し、実に1ヶ月振りの我が家にして、スイッチ1つで明かりがつく、火が点く、蛇口をひねると水が出る、柔らかいベッド、そして何より馬臭くない近代的な生活だ。
もっとゆっくりとしていたいが…。
《ほら! もう時間がありませんわ! 早く顔を洗って歯を磨きなさいまし!》
《社内でお父さん不倫ふりーん♪
22歳の新卒OLが妊娠しちゃって熟年離婚りこーん♪
再婚相手の継母は俺より5つも年下♪
しかも俺の妻の大学の後輩♪
どうすんだ親父来年孫とその子が一緒に産まれんだぞー♪》
《ウル坊それマジで朝の子供番組か!? 歌がえげつねぇぞ!?》
《ワシが若い頃はほんに神獣士には気骨のある若者が多かったもんじゃがのぅ……ワシもそりゃあ戦ったもんじゃ》
《あの、翁……その話何度も聞いてますから……なんで翁はぬいぐるみモードの時、いつも認知症になるんですか……》
賑やかを通り越してやかましいくらいの神獣達が、どうにもそれを許してくれない。
渋々暖かなベッドから降りると、ひんやりと冷気に支配された部屋の中を暖めようと霊気ストーブとコタツを点けて洗面台に向かう。
歯を磨き、残念ながらお湯は出ない蛇口の凶器とも言える冷たい水で顔を洗う。お陰ですっかり目が冴える。
そして、寝ぐせ直しで自由へ向かって進撃している髪をブラシでといていく。
次は着替えだ。ワンルームの片隅に出来上がった衣服の山……1人暮らしの男性にありがちな、たたむのを面倒臭がって取り込んだままのそれからジーンズと背中に『ギロッポンでシースー』とか書かれた妙なセンスのシャツを着込み、淡い水色に近いデニムシャツをその上に羽織る。更に銀製の十字架のチョーカーをつけてその上に暖かな、グレーのマフラーを首に巻く。
ソックスは黒だが、靴を履くと見えない位置にピンクのリボンがデザインされて、遊び心がある。
最後に中折れの黒のハットを被る。これが彼の出社スタイル……シンプルな服装が、彼の好みだった。
仕事で使う資料や、職場から支給された業務用ノートパソコンが入ったリュックを背負って、ノアの方舟をジーンズのポケットに入れる。
準備は出来た。
「行くじぇ、おま〜ら」
『はーい』
騒がしいナマモノ達も、主の支度完了を見てか、コウの周りをふよふよと浮かんで付いてくる。
コウの日常が、今日も始まった。
★★★★★
ここは、神々や天使が住まう世界、神界。
異世界の衰退や新たな異世界の誕生を観測、管理を行う、神と呼ばれる者やその同族たる神族。
純白の翼を背に持つ天使族が共生し、住まう場所。
観測する異世界から生まれるあらゆる近代的、未来的なものを取り入れたこの世界は、豊かな自然の中に雑居ビルや高層ビルと言った大小様々なオフィス街。更には喫茶店や飲食店にデパートにと、商業圏内も並び、その間には歓楽街も立ち並ぶ。
コウが住むアパートは、そんな場所から離れた住宅街の更に小高い丘の上にある。
丘の途中には遊具が並ぶ公園や、コンビニがあるのもポイントが高い。
「レシーよしーっスカ? うーーーーい。(ォライッ、ォライッ 」
出勤途中に立ち寄ったそのコンビニ。
大量のパンやらおにぎりやらが入った袋から、次々と取り出しては胃の中に収めながら歩いていく。これも毎朝の事で、コウはとにかく常人の優に10倍は食べる大食漢だ。
無論、これにも理由がある。
神獣を複数扱える稀有な存在ワン・オブ・ミリオンは、その強大過ぎる精神力を持ってはいるが、だからと言って際限なく精神力が溢れるわけではない。あくまでも容量……器が他者よりも大きいと言う事なのだ。
故に、その大き過ぎる器である精神力の回復、維持にワン・オブ・ミリオンの身体は莫大な肉体エネルギーを消費する様に出来ているのだ。
コウの弱点の1つが、この消費エネルギーの問題だった。
因みに、シャケおにぎりは神獣・ベアが食べている。
「あら、第三神位様じゃないですか、神界に戻られたんですね」
この神界にも、交通ルールという者が存在し、信号が赤になって立ち止まるコウに、女性の声が聞こえる。
「サツキちゃんじゃない、そりゃあもう、サツキちゃんに早く会いたいって愛ゆえにだじぇ」
サツキと呼ばれた女性は一言で言うならば美人だった。
神族である彼女は、ショートの黒髪に切れ長の瞳。薄い唇にはリキッドルージュだろう。かすかに淡い桜色が映えている。
身長は男性にしては小柄なコウと変わらぬ165センチメートル。ブラウンのヒールを履いているからか、僅かにコウより高い。ブラウンカラーのニーソックスにアイボリーのキュロットを履き、ネイビーのタートルネックセーター。その上に黒のチェスターコートといった出で立ちだ。まさにクールビューティーを体現したかの様な雰囲気も相まっている。
彼女は、非常に優秀なキャリアウーマンだ。
神界第一信用銀行に勤める22歳のサツキ・メイは、コウの2つ年上で、この春から神界第一信用銀行のテラーを勤める才色兼備の秀才肌である。
テラーを分かりやすく説明すれば、窓口担当の事を指す。
普段から仕事は完璧、顧客ニーズへの対応能力も高く、既に彼女でなければ対応に応じないなんて個人顧客も両手では足りない程だ。
コウがこの世界に来たのは、今から5年前。その時にひょんな事で当時高校生だったサツキと知り合い、今に至る訳だ。
コウの周囲に浮かぶナマモノ達も、次々にサツキにおはようの挨拶をする。
「おはようございます、皆さん。今日も可愛らしいですね」
神獣達に微笑みながら、挨拶を返すサツキ。無論、神獣形態の彼等も知っているが、やはり女性のサツキは、この形態の方が好みだった。
「サツキちゃん、今日給料入ってるはずだから後で引き出しに来るよ」
コウの神様としての給料は、銀行振込だ。
随分庶民的だが、神様だって慈善事業ではない。きちんとした職業なのだ。しかも、神界で職業が神となれば、エリート中のエリート。
合格率は毎回3割を下回る程に難しい危険世界取扱乙種、丙種の資格は勿論、異世界運行管理資格も必須だ。
また、異界の言語コミュニケーション能力、TOILECに至っては最低850点以上は必要になる。その他にも様々な難関資格が必要なものだから、その道は狭き門だ。
コウだって勿論、厳しい鬼上司である第一神位様にしごかれて、神という職業を行う上で最低限必要な危険世界取扱乙種、丙種と異世界運行管理資格を持っている。
「分かりました、ところで…」
信号が青に変わり、揃って歩き出すと同時に、サツキが神妙な面持ちで口を開く。
「先日夏の祭典で、勝手に第四神位様×第三神位様の濃厚なガチホモ薄い本を販売させて頂きました所、1000部即完売で冬の祭典でも重版させて頂く事になりましたので、御報告させて頂きます。第四神位様にもお世話になりましたとお伝え下さい。」
サツキのさらっと言ってる割にはとんでもない爆弾発言に、横断歩道のど真ん中で盛大にズッコケるコウ。
……才色兼備、凄腕キャリアウーマンのサツキは、実は現役バリバリの腐った御婦人だったりしちゃったのだった。
★★★★★
コウの職場は、さながら『完成しちゃったバベルの塔』だった。
だから神界は全て、共通言語で統一出来ていると言うわけではないが……。
兎にも角にも、やたらめったらと高いわデカいわな建築物だった。
当然、こんなものは普通は建築不可能だ。とある異世界では、ドバイと言う国にある建築物のブルジュ・ハリファが現在の所世界一高く、828メートルである。それがまるでミニチュアの玩具に感じるのだから、その規格外ぶりがよく分かる。
この建築物の名は『ユグドラシル』
9つの世界に根を張り、3つの魔法の泉を持つ世界樹の名を持つそこには、異世界の観測及び衰退、崩壊後の後処理。新たな異世界の誕生にはその指針の指導等を行う部署等、様々な異世界への関わりがある。
だからと言って、個人の願いやら祈りには一々応えたりはしない。
あくまで彼等神は観測者であって、七つの球を集めたら出てくるアレではないのだ。
「おはようさん」
シュンと音を立てて素早く開く自動ドアを抜けて、その部屋に足を踏み入れる。
まばらに起きる『おはようございます』の声に手を上げながら、コウは自分のデスクへと向かう。
ここはミズガルズ……通称『ディストーション対策課』
大小様々な大きさのモニターが、所狭しと壁に個々人のデスクにと並び、部屋の際奥には一際大きなメインモニターが圧迫感すら与えている。
一般的な学校の体育館程の広さをもつそこには、段々にデスクが並んでおり、まるで大学の講義室か、アニメによく出る宇宙戦艦の艦橋司令室みたいな作りだ。
階段には赤い絨毯が敷かれており、中世時代を思わせるランプが等間隔で吊るされている。無論、油や電気等ではない、非常に強い力を持つ霊気ランプであるから、小さなそれでも部屋は明るく照らされている。
そんな部屋には精霊と呼ばれる肉体を持たぬ存在やら天使やら、果てにはよく分からない玉ねぎに手足が生えたものも、忙しなく行き来してたりパソコンを操作したりしていた。
コウの席は最後尾。1番高く全体を見渡せる、言わば所属長の席となる。
コウはこのディストーション対策課の長にして、対ディストーション遊撃部隊の隊長だ。
……隊員は、使役してる神獣5体のみ。実質コウ1人だけの、名ばかり部隊ではあるが。
デスクに座り、リュックからノートパソコンを取り出す。
無線LANのここは、社内の共有フォルダがあり、その中にコウ専用の『ディストーション回収報告書』がある。
ぶっちゃけコウが、1番嫌いな作業だ。どの異世界でどんなディストーションがあり、どれだけの濃度で、どんな影響があり、どんな戦闘及び対策を行ったか、費用はどれだけかかったか等を記入していく。領収書がない異世界では、経費証明の為、ノアの方舟に記録された証拠音声や映像まで添付しなければ、翌月から給料が貰えず神様なのに餓死か孤独死を迎えてしまうから、嫌いでも必ず行わなければならなかった。
「受付のサフィアちゃん」
「Cの65」
「総務課のユリンさん」
「Eの70」
「企画部のミーニャちゃん」
「Bの70」
「各部署の女性社員のブラのカップを正確に暗記しているその頭脳、本物のコウきゅんだお!おかえりだお!」
「タケフツ……いや、今はトヨフツか、一昨日帰ってきたじぇ」
ノートパソコンで作業をしているコウの背後に突然現れた青年。
まず目に付くその長身。コウとは比べものにならない187センチメートルのそれに、細身の身体。しかし、単純なモヤシ体型ではなく、しっかりと筋肉がついている。髪は右眼が隠れる様な前髪に腰まではある長い白銀のそれ。面長だがシャープな顔立ちで、鋭い三白眼に紅の瞳。
真っ白な着物に桜の花がデザインされた黒の帯を締め、梅の花があしらわれた白い羽織を羽織っている。
誰が見ても、その人物は美しい容姿であった。
ただ残念なのは、折角の三白眼は牛乳瓶の底につるを取り付けた様な、いわゆるぐるぐる眼鏡で隠されており、絹の様なしなやかさを持つ銀髪は、乱雑に縛っているからかボサボサだ。
極めつけは着物なのに、何故か穴あきグローブを両手にしており、違和感が半端ない。
……彼、トヨフツ・タケミカヅチはガチのヲタクであり、第四神位・剣の神の地位に立っている。
また、同い年の20歳である上に、妙にウマが合う事から、仕事とは別にプライベートでも中の良い、コウの友人でもあった。
「あーそういやトヨフツ、さっき通勤途中にサツキちゃんに会ったじぇ」
報告書を作成しながらコウはトヨフツに目を配る事なく話す。
「ほう、サツキ女史にかお」
「なんかおま〜と俺の同性愛を描いた本を売ってたらしい」
げんなりとした口調で、ノートパソコンで作業をしながらコウが言う。
「あぁ、それなら漏れも夏の祭典で10冊買ったお」
ディス・モンスター名:ラミアああああああああああああああああああ
トヨフツのさも当たり前な口調に、コウの手がカタカタ震え、報告書に『あ』の羅列が爆誕してしまう。
「お、おま……まさか……」
さらっと言ってのける友人に、全身震えながら椅子に深く腰掛け直すコウ。今最大限守らなければならないお尻を防御する為だ。
「やだなぁ、漏れはBLもNLもGLもイケるだけだお?
……ところで、まずウチの会社さあ、サウナあるんだけど…入ってかない?」
「……おま〜との縁も今日までだったな。さようならトヨフツ」
背後からコウにそっと手を回して囁くトヨフツを払い、ジト目で睨むコウ。もちろん、両手はおしりを防御してだ。
冗談と分かっていても、やはり恐ろしいものは恐ろしいのだ。
「あぁん、コウきゅん冷たいお。折角新作のエロ同人誌描いたからチェックしてもらおうと思ったのに」
互いに勤務時間であるはずだが、こんなやり取りはしょっちゅうだ。
彼、トヨフツは大手の男性向け同人サークル『かしまのかみっ☆』の主宰でもある。
その為、こうしてよくコウには新作の原稿を見せたりして、原稿のチェックを依頼しているのだ。
早速原稿を受け取り、リクライニングのオフィスチェアを倒して原稿に目を通す。
「今流行りのけんこれか」
けんこれとは、倦怠これくしょんの略称で、武装した倦怠期の熟年人妻達が敵と戦うと言うゲームだ。
1番人気のまち子(46)がイメージキャラクターとしても有名である。
「トヨフツ、3ページ目の割烹着の胸の膨らみ、0.02度下向き修正、8ページの胸はこの丸みを0.006ミリ線を大きく。12ページは乳首を0.054ミリ上に描き直し……まぁこんなもんかな」
「流石コウきゅん、おっぱいの申し子と呼ばれるだけあって、微妙な違いと修正位置まで分かるとか……! そこにシビれる! あこがれるゥ!」
コウもまた、こんなんだから先日の指針会議で『もうコイツ翼の神の二つ名と司るものを剥奪して乳神でいいんじゃね?』とか議論されてしまうくらいには、おっぱいに対しての知識や品評、果てには一目で女性の適切なブラのカップが分かる程度の能力を持っていたりなんかしちゃっていた。
「あの、第三神位様」
不意に部下の1人である若い男性天使が話に割り込む。
「ん? なに、モーガス?」
ディストーション対策課の部下である男性、モーガスの方へと振り向く。
「第一神位様が至急アースガルズへ来る様にとの御連絡です」
来たか。来てしまったか。そんな表情を浮かべるコウ。
コウは、第一神位と呼ばれる彼女が苦手だった。いや、苦手と言うよりは恐怖の感情を示した方が適切だろう。
「あー、すぐに来るって伝えといてくれ。トヨフツ、とりあえず原稿は返しておくわ」
モーガスに伝言を頼みながら、トヨフツに原稿を渡す……が、トヨフツの様子がおかしい。
まるで意図の切れた操り人形の様に力なくうなだれている。
途端、トヨフツのぐるぐる眼鏡がまるで手品か何かのようにその場から消え、ざっくりと縛っていた銀髪が解かれてカーテンの様に広がる。
雰囲気もヲタク特有のそれが消え、鋭い双眸が開かれる。
勿論、両手の穴あきグローブも、跡形もなく消えている。
「む……また入れ替わっていたか……コウ、帰っていたのだな」
「あー、タケフツに変わったか、トヨフツに言った様に、一昨日にね。ほら、トヨフツの原稿」
受け取っていた同人誌の原稿を差し出され、途端表情が一気に強張る。
「なっ……! またかような、いかがわしいものを……!」
そう、彼、タケミカヅチは2つの人格を持つ二重人格だった。
今入れ替わった人格はタケフツ・タケミカヅチ。生粋の武人で剣の腕は超がつく程の一流で、剣を使った戦いでは1度たりとて、コウは勝った事がなかった。
それぞれタケフツとトヨフツは相反しており、トヨフツは『ペンは剣より強い』タケフツは『剣はペンより強い』と豪語していた。
そして、タケフツは女性に滅法弱かった。
もう1人の人格が描いた萌えとエロの権化たるそれを手に取るが、顔は紅潮し、何やらギクシャクとした動きになっている。
女性に目もくれず、日々剣の道を歩んできたタケフツには、こういう免疫はほとんどなかった。
「おま〜大丈夫かよ……とにかく、俺はちょっとあの鬼畜上司んとこ行ってくるよ」
はぁ、と大きな溜息を吐いて、出来上がった報告書をプリントアウトしてクリアファイルに入れるコウ。
その姿はもう予防接種で自分の番が来た子供のそれによく似ており、人格が入れ替わった友人も、その雰囲気で状況を把握できたようだ。
「ヴァルハラの所か。あの面妖な女の事だ、また無理難題を押しつけられぬよう、せいぜい祈る事だな」
「神様が祈ってどーすんだよ……とにかく行ってくるわ……」
完全に他人事な物言いの友人に向かい、力なくツッコみながら、右手を左右に振りつつ開かれた自動ドアから廊下へと出るコウ。
友人に見送られながら恐怖の大魔王……もとい、自身の上司が待つ彼女の応接室へと、足を運ぶのであった。
★★★★★
絢爛豪華。この場所を表現するには、それ以外の言葉が当てはまらなかった。
富と言う富を詰め込んだかの様な絵画や調度品に彩られ、だからと言ってゴチャゴチャとしたイメージはない。
大会議室程の広さを持っているのもそうだが、この執務室の主のセンスが良いのだろう。
北欧風の白を基調とした赤いカーペットが敷かれたその部屋は、全体的にすっきりとしており、圧迫感は感じない。
天井には煌びやかなシャンデリアが飾られており、来客用のテーブルは落ち着きを与える木製だが、その細工は非常に繊細で、脚には赤ん坊を抱く聖母が掘られている。
椅子は座った瞬間ふんわりと身体を包み込む柔らかさだ。
主のデスクは威厳すら与える黒い大型のもので、こちらにも豪奢な彫刻細工が施されている。
そのデスクの向こう、黒く背もたれが高い椅子に、この部屋の主は鎮座していた。
「久しぶりね? コウ・ザ・ストーンズ? あの程度のディストーションに、随分のんびりとしてきたんじゃないかしら?」
美しい女の声。
「あー……報告書にもあるだろ? ちょっとしたトラブルだよ。全く、モテる男はツラいじぇ」
後頭部を掻きながら、面倒臭そうに上司に報告をするコウ。
上司の許可も降りていないのに、堂々と上司を背に、設置された来客用の椅子に座って、足を投げ出している。
「報告書については読んだわよ。問題はそこじゃないの。時間がかかりすぎって話をしてんのよ」
「そりゃ仕方ないだろ……ノアの方舟がディス・モンスターになられたら、神獣も召喚できない俺は、ただのイケメンだじぇ?」
コウの神獣は全てノアの方舟を媒体としている。神獣は顕現する為に、何かしら主が身につけているものを依代にしている。要は、召喚されない時はその中で実体を持たずに眠っているのだ。
コウの様な神獣士にとって、それは共通する最大の弱点でもある。
「あんた、今月給料カットね」
「はぁ!? 何でだよ!? ちゃんとディストーションは全部回収しただろ!?」
あまりに無茶苦茶な仕打ちに、思わずコウが振り返る。そこにいたのは、抜群のスタイルを持つ絶世の美女だった。
ヴァルハラ・ツェ・オーディン。
第一神位 主神と呼ばれる、この世界の若き最高統括者である24歳。
腰にまで伸びた金色のウェーブ……正確にはカールがかかったボリュームのある艶やかな髪はダイヤが散りばめられたバレッタで纏められ、つり目に目元のホクロが色気を増長している。
少し厚みのある唇にはグロスが使われているのだろう、艶があり目を奪われる。
中々着こなすのが難しい紫のスーツは、ヴァルハラの妖艶な雰囲気と相まって、彼女の為にあるかの様に似合っている。
スカートがやたら短く、大胆にも太ももが露わに晒されており、その無駄がなく、出るべき場所がしっかりと出ている身体のラインがよく分かる。
まさに大人の色気に包まれた、妖艶な女性だ。
「理由の1割は、1ヶ月もかかり過ぎた職務怠慢。残り9割はお土産の貴金属を買って来てないからよ」
「知らなかったじぇ、1ヶ月離れてる間に、ここが神界じゃなくて地獄に様変わりしていたなんてな」
完全無欠に私怨……と言うか、ワガママで給料を止められるとあっては、たまったものではない。
しかも、ヴァルハラが呼び出した空中投影ディスプレイに向かって、総務課に連絡を命じている辺り、冗談ではなく本気だから困ったものだ。
そう、ヴァルハラは、超がつく程のワガママな性格だった。
まるで世界は自分中心に回っていると言わんばかりだが、実際にこの神界はヴァルハラを中心に回っているし、それどころか異世界すらも回っているから手に負えなかった。
「それが嫌ならすぐにこの世界に飛びなさい」
手早く操作された空中投影ディスプレイをコウに向ける。
映し出されているのは、蒸気機関車が走る、比較的発達した文明の世界。前回の世界に比べて畜産や農業が確立された、欧州の様相だ。
「この世界にディストーションが出たのか?」
映像の向こうで行われている平和そうな人々の営みを眺めながら、コウが不思議そうに問う。
「出たのは神獣よ」
「神獣?」
彼女の言葉を聞き返すコウ。
「そう、現れるはずのないこの世界に、はぐれ神獣が紛れ込んだのよ」
元々、神獣は世界の危機に対して現れ、主を選定して共に戦う存在だ。
その為、平和なこの世界に神獣が現れる事はあり得ないと言うのが、彼女の弁明だ。
「なるほどね……。神獣の事は神獣士に……か。わぁったよ、行かなきゃ給料ナシって言うなら、すぐにいくよ」
彼の癖であろう、肩を竦める動作を見せながら立ち上がる。
もしもこの神獣が何か問題を起こしてしまったら、きっとこの世界の人々では対処が出来ないだろう。
そうなる前に、回収か神獣達が住まう世界、神獣界へと誘導する。
これが、今回のコウの任務だ。
「この世界はバニラアイスが有名だから、それも買って来なさいよ」
さりげなく、またしても余計なお使いを押しつける女神様。
その美貌からは、小さく笑みが浮かんでいる。無論、友好的な微笑ではない。彼女の妖艶さも含んだ蠱惑的で小悪魔的なそれだ。
「へいへい、んじゃ、行ってくるじぇ」
ノアの方舟を操作し、異世界と異世界を繋ぐ亜空間への扉を開く。
こうして、新たな異世界へと旅立つ事になったコウ。
亜空間の中を歩く彼を含め、この時はまだ、運命が悪戯を画策していた事に誰も気づいていなかった。