第六の神話
コウ・ザ・ストーンズは思い出していた。このスヴェトラーノフ公国に……鋼と山脈、深い森が広がるこの異世界にやって来る前の事を。
瞳を閉じ、暗闇と静寂が渦巻く中、鮮明に……鮮明に、まるでたった1人しかいない中で上映される映画館の様に、過去のヴィジョンを浮かび上がる。
彼は異世界の歪み……ディストーションから生まれた怪物、通称ディス・モンスターと戦っていた。
コウにとっての日常。戦う事が当たり前で、生活の一部。
そして、戦いの最中それがこの異世界にまで逃げ込んでしまい、ディス・モンスターを追って自身もここまで来た事を。
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「……しまった……!」
亜空間フィールドが収縮し、それがこの世界……機械から創られた、人ならざる者達が人と共に生きる近未来的様相の異世界から存在が消えた事を意味していた。
激しい戦闘の後か、コウの衣服はボロボロとなり、額からは未だ紅の川が頬を伝い滴り落ちている。
人口減少に歯止めがかからず、人に変わって機械が世界を回しているこの世界において、幾人もの子供の命がそれの腹に収まるのは、大きな損失だった。
……何かの工場であろうそこは、戦闘で千切れた鉄製のパイプから怪しげなガスが、排出音を立てながら白い煙となって噴き出している。
空間が捻じ曲がっては消えたその場所を苦々しい表情で見つめていると、音楽と歌が着信音となって主人を呼び出す。乱暴な手つきでしつこく自己アピールを繰り返すそれ……最近ではスマートフォンと呼ばれる携帯電話の一種と酷似したそれを取り出しては耳に当てる。
聞こえてきたのは、艶のある女性の声だった。
「あんた……取り逃がしたみたいね。言ったでしょ? 相手は何百年も生き延びて知識も豊富なディス・モンスターだから、油断するなって。給料いらないのかしら?」
「……わかってる、すぐに跳躍先を特定してくれ」
来ると思っていた。彼女は目ざとい。この様な失態を知れば、嬉々として自身を罵倒して来る。
ひとつ大きな溜息を吐くと、肩を落として通話先の相手に伝える。
「やってるわよ……調査完了したみたいね。ノアの方舟にデータを転送しといたから、確認しなさい。あと、行き先の世界、貴金属が豊富らしいから、ネックレスか何かお土産で買ってきなさい。いいわね」
通話先の女性は気だるそうに言うだけ言って、一方的に通話を切ってしまう。
女性は、命がけで戦うコウの無事を全く心配していなかった。それは、裏を返せば必ず勝つと確信している……と、言うよりは土産の方が大事なだけだ。
コウは大きな溜息を、今の通話で生まれたストレス毎吐き出すと、そのまま通話の切れたスマートフォン……ノアの方舟を操作する。このノアの方舟が、コウの戦う能力の全てを司っている。
表示された異世界の座標を確認すると、アプリケーションを起動。途端、何もない空間が割れ、捻じ曲がり、トンネルの様なそれが生まれる。座標を入力されたその空間トンネルこそが、コウ専用亜空間フィールドだ。歩を進め、足を踏み入れる。途端、先程まで使用していたノアの箱舟に光が収縮。その輝きが急速に増し……弾ける。
「なっ……!」
小さな声が漏れる。そこから何が起きたのか、コウには遂に分からなかった。
気がついた時には、既に森の中にいた。
昼間なのか、真夜中なのか、時間感覚すらも分からぬ闇の中かと錯覚すら覚える常闇の森に。
コウが紡ぐ物語は、ここから始まった。
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もう長い事この腐敗した空間にいて、嗅覚はとっくに麻痺していた。
最早顔の中心部に鎮座するそれは飾り同然となり、ただの酸素と二酸化炭素の出入り口となっている。
一体どれだけの時間、木々の間に身を潜めていたのだろうか?
時間感覚も狂いを見せ、いつ現れるとも知れないそれを、ずっと待ち続けていた。隣では相棒が退屈しのぎだろう、自身の横腹を舐めて毛繕いに勤しんでいた。
頼もしくも愛らしさすらある餓狼に小さく笑みをこぼすと、頭を数回撫でてやる。
ガサリ。
風ではない、草木を分ける音が暗闇の彼方から聞こえる。
それも、断続的ではない。徐々に近づく様に草木を分ける音が近づき、苔ばかりのこの一帯からは靴を鳴らす音へと変わる。
コウは素早く木の裏へと身を隠し、ウルフも木を駆け上がり、視界の死角へと回り込む。
デボスの合図もないままこの場所へ現れたのならば、塔を使えなかったのか、見張りを行うも敵が索敵を潜り抜けてしまったのか……自分達の作戦に支障をきたしている事を意味していた。
コウは腰に下げた伐採用の手斧を手に取る。ここへ向かう前、村の狩人から譲り受けた武器だ。相棒も爪と牙を剥き出しにし、いつでも飛びかかる準備が出来ている。
足音が近い。すぐそこまで来ている。息を飲み、敵へと視線を向けると、そこには彼の想像だにしない事実があった。
「アンナ……さん……?」
虚ろに瞳を曇らせて、右手に何かを引きずる友人の母の姿。シュミーズはボロボロとなり、あちこちが引き裂かれ、破れて最早衣服としての機能を果たしていなかった。
何故彼女がここに現れたのか。それは、考えたくはないものだが考えられる答えはたった1つしかなかった。沸き上がる疑念、信じたくないと言う嫌悪、嘘であってくれと込める願い。
コウの中で渦巻く幾つもの感情を嘲笑うかの様に、アンナが引きずるそれを軽々と片手で持ち上げる。
「クラ……イン……!?」
持ち上げられたのは、ぐったりとし、指先1つも動かぬ友の姿。母親であるはずのアンナがクラインをこんな目に遭わせたと言うのか。
突如として起こる衝撃の波に飲まれ、身動きが取れないでいるコウ。
呼吸が乱れ、小刻みに身体が震える。制御を失った身体をなんとか落ち着かせようと深呼吸を繰り返すも、上手くいかない。
「ダメよ……そんな事じゃ。すぐに隠れてるのがバレちゃうんだから」
正面から聞こえる甘美な声に、急激に意識が引き込まれる。コウの瞳が捉えたのは、眼前にこの森の暗闇よりも邪悪な微笑を浮かべたアンナ。その華奢な腕が、穿たれた矢の様な速度でコウの首を掴み、まるで小石を投げるかの如く放り投げる。
「がはっ! ぐっ……!」
瞬間遮断された酸素を、荒い呼吸で一気に取り込む。コウに続く様に、クラインが弧を描いて苔が広がるそこへと投げ込まれる。
「クライン! クライン無事か!?」
「なん……とかね……はは、足の感覚……ないけど……」
コウの強い口調の呼びかけに、今の今まで気を失っていたのだろう。血の気の引いた真っ青な顔で、弱々しく答えるクライン。
逃げられぬ様に両足の骨を大腿骨から折られているのだろう。両足とも本来の人間の関節ではあり得ぬ方向に曲がっており、その場から身動きが取れずにいた。
命には別状なさそうだが、危険な状態であるのには変わりはない。一刻も早く治療を行わなければならないが、その前にこの場を切り抜けなければ、クラインを救う事が出来ない。
「ふふ……厄介だと思っていたけど、大した事なさそうね…」
再び姿を現すアンナ。だが、それは本当にアンナなのかと言える程、彼女は変貌していた。
コーカソイドと言われる白人種であったはずの肌が緑色に変色し、腕や胸元が鱗で覆われ、何よりヒトとして定義される直立二足歩行が廃され、下腹部から下が巨大なヘビのそれと化していた。
ラミアー
かつて神話にて神に美貌を見初められ、神の妻への怒りを買い、ヘビの身体へと変えられた悲劇の女王。神との間に産まれた子供を皆殺しにされ、愛する我が子を失った悲しみから子供を持つ母を羨み、子供をさらい喰らう怪物。
それが、クラインの母アンナの正体だった。
「ひ、ひいっ!? 母さんが……母さんが化け物に……!」
「あらあら、この姿では息子にすら初めましてだったかしら?」
ヘビ科特有の先端が割れた舌先を覗かせながら、クスクスと笑うアンナ。
クラインは母が母の面影を残した化け物となった事に酷く狼狽、混乱をきたしてしまっていた。
コウもまた、異形となったアンナに困惑しながらも、彼女を敵と認識したのだろう。意を決したのか、眼前で笑う友人の母に向かって斧を構える。
「やはりディストーションから生まれた化物……ディス・モンスターだったか……! お前は……いつからアンナさんとすり替わった?」
「ふふ……貴方が可愛い可愛い私の息子と出会う少し前よ。正確には身体と精神を乗っ取った……だけど。よく気がついたわね?」
「そんな……か、母さん……母さん!」
母の身体を乗っ取った怪物に、クラインは大粒の涙を流しながら睨む事しか出来ない。幼い頃から女手一つで自分を育ててくれた、時に厳しく、時に海よりも広い愛情で包み込んでくれたアンナを……怪物が食い物にした。自身の手で殺してやりたい衝動がクラインの身体を津波の様に押し寄せるが、両足がそれを叶えてくれない。
悔しい。唇を噛み締め、母を奪い去った仇を睨むしか出来ない。
対して、小さな子供が算数の問題を解いてみせたかの様に、手を叩いて優しい口調で褒める、母性と狂気が混同した悲劇の女王は、コウの回答に大層愉悦な様だ。
刹那。隙を突き、主を守らんと彼女の上空から稲妻の如く降りかかるクチナシ色の巨大な影。遠吠えをたなびかせて開いた牙が、ラミアーを頭から呑み込んで噛み千切らんとする!
「いやね……こんなので私をどうにか出来るとか……ちょっと見くびり過ぎじゃない?」
瞬間、ウルフの顎に飛び込む細く華奢な拳。急速落下する自らの頭上の巨体を体格差等存在しないかの如く、蝿でも払うかの様に簡単にあしらってみせる。
「おおおっ!!」
更に間隙を縫う様にコウがアンナ目掛けて走りだし、重量感のあるスヴェトラーノフ産の良質な鋼鉄を使用した斧を振りかぶって上段から斬りかかろうとするが、それすらも人ならざるヘビの尾を音も立てずに振り抜き、コウの横腹を殴り吹き飛ばす。その勢いは凄まじく、コウが叩きつけられた木が幹から亀裂を走らせ、音を立ててへし折れる。クラインが何度もコウの名を叫ぶが、叩きつけられた衝撃から受けた、大きなダメージに身を悶えていた。
「あらあら……もうおしまいかしら?」
「コウ! 畜生! 神様……! 主よ! 見ているならお救いを! この悪魔に裁きを与えてくれ!」
退屈そうな口調でヘビの身体をくねらせて這い歩き、へし折れた木の根元で横たわるコウに近寄るラミアー。
母を乗っ取ったそれを睨みながら、クラインが必死に神への祈りを叫ぶ。だが、絶叫に似た祈りを、ラミアーが嘲笑う。
「神様? それは無理じゃないかしら? だって神の御使いの神獣士がこのザマよ?」
「しん……じゅうし……?」
ラミアーの言葉の意味が分からなかった。痛みに耐えながらも立ち上がろうとする友が神から遣わされた僕?
もうこの時点で、クラインの理解の範疇を超えていた。
「ふふ……今日は気分がいいから教えてあげる。この子は神獣士。神様の眷属である神獣に選ばれた戦士の事よ。この子の場合……」
アオォオンッ!!
額に黄色に輝く餓狼が飛び出し、前足の爪でラミアーを引き裂こうとするが、あっさりと前足を捕まえていなす様に地面に叩きつける。
「このワンちゃんが、使役してる神獣みたいね。強い精神力を持つ人間じゃないと、精神力を餌に動くこの子達は動かないの。そうでしょう?」
「……その通りだ。だから、精神力が枯渇し心が崩壊する為、使役する神獣は1人につき1体しか扱えない……!」
斧を杖代わりに立ち上がるコウ。
両手でそれを構え直すと、今度は相棒……神の眷属、神獣・ウルフと共にラミアーに一撃を与えんと、同時に立ち向かう。
牙が腹部を狙い雄叫びをあげながら襲いかかり、コウが左肩から裂こうと木製の柄を握り締め、力任せに振り上げる。
「それが神獣士。降りかかる災いに、神に成り代わって立ち向かう者……あら?そう言えば、聞いたことあるわねぇ……神獣士が神様になった話」
軽い世間話をしているかの様な口調で自身を叩き斬ろうとするコウの手斧の刃を掴んではそのまま握り潰し、神獣毎右の拳でコウを殴り飛ばす。それが効いたのか、コウの精神力が限界を迎えたのか、苔に覆われた地面に叩きつけられる前に、ウルフの身体にノイズが走り消滅していく。
「ああ、確かその神様になった神獣士の名前が、コウ……コウ・ザ・ストーンズだったわねぇ。いやだわ、何百年も生きてるから、すぐに思い出せなくなって……」
困った表情で手を頬杖にするラミアー。懸命のコウの攻撃は、まるで通用していない。
明らかに、大人が本気の子供をあしらっている様なレベルの差だ。
「コウが神様……!?」
近所の噂話の様に知らされた事実。異形と眼前で戦う友が、神となった人間。まるで聖書の様なそれに、クラインは思考は完全に追いつかなかった。
その人でありながら神でもある青年の首を掴み、片手で持ち上げるラミアー。武器を失い、相棒を失い、美しい顔を苦痛で歪める。
「神殺し……なんて、結構箔が付くんじゃないかしら? 貴方もそう思うでしょう?」
徐々に爪が首に食い込む。力が気道を圧迫し、酸素が不足していく。チアノーゼが浮かび上がり、両手でラミアーの腕を握り締め、足をバタつかせてもがき苦しむ。
まさに無駄な足掻きでしかなかった。時が進むにつれて足が動かなくなり、腕の力が抜けていく。
「なんでこんな弱い子が神様なのかしら……? これじゃ箔なんてつかないわ。つまんない」
意識が朦朧とし、戦闘不能となったコウをまるで飽きた玩具の様に投げ捨てる。
友が……神と呼ばれたコウすらもが敗れた。クラインの心に絶望が鎌首をもたげて来る。自身の心を支配しようとするそれを振り払い、眼前で倒れているコウの元へ行こうと、大粒の涙を滝の様に流しながらクラインが這う。距離にして10メートル程でしかないが、両足が使い物にならない彼にとって、それは果てしなく遠く感じる。
「コウ……! コウ! 誰か……! 誰でもいい! 神じゃなくてもいい! 誰か……誰かコウを助けてくれ!!」
「……そりゃあ出来ない話だじぇ」
聞き覚えのある声と口癖が、絶望の森の中に響き渡る。
どこからともなく、森の中からゆっくりと、それでいていつもの余裕をこの緊迫した空気に割り込ませながら歩み寄る1人の影。
「悪いなクライン……こいつは俺が仕組んだ罠でね。まぁ〜上手い具合に絵図を描かせてもらったじぇ。アンナさんにも、おま〜らにも」
「貴方……」
その人物の登場は、ラミアーにも予想外だった。
彼は、何の力も持たない記憶喪失の旅人のはずだった。だが、彼はここに現れた。
さも、自分もこの舞台の役者であるかのように。この異常な、怪物すら存在する事すら、いつもの事だと言わんばかりに。
悠然と、その人物はアンナとクライン達の間に、割って入って来たのだ。
「こいつは……ここで御退場もらわないといけないんでね」
良質な、国軍の騎士が愛用しているロングソードを片手に歩み寄る姿……。
その切っ先が、意識の混濁してうつ伏せに倒れているコウの背……心臓へと向けられる。
「や、やめろ!やめてくれ!!」
クラインが叫ぶ。舞台の脇から突如現れて、物語を引っ掻き回すイレギュラーな存在に。ラミアーもまた、予想もしていない人物の行動を興味深気に眺めていた。
「さよならだじぇ」
ずじゅり。
生々しい、肉を突き刺す音が、クラインの叫びと共に聞こえる。
「………………っ」
断末魔すら上げる事なく、コウの肉の中へと冷たい鉄の刃が喰い込んでいく。
地面を紅黒い水溜りが染め上げ、肉体が力なく事切れる。
コウの命の灯火が……今、この瞬間、失われた。
「わああぁぁっ!! コウッ!! コウゥゥッ!!」
泣き喚くクラインを尻目に、舞台はさらに進んでいく。
だが、本当に誰も予想していなかった事態は、ここからだった。剣を引き抜き、森の暗黒へと投げ捨てると同時に、命の鼓動を失ったコウの身体が徐々に光り輝き、まるでこの暗闇の中を戯れる蛍の群れの様に大小の大量の粒子へと分解を始めたのだ。
この現象に、ラミアーの表情がみるみる強張る。彼女はこれが何を意味するのか、瞬時に理解した。いや、してしまったのだ。
「まさか……あの子も……ディス・モンスター……!?」
やがて粒子は、コウの死体があった場所に取り残された小さな金属の様な材質と、ガラスの様な材質で出来た箱状のそれへと吸い込まれていった。
その箱……この世界にはないはずの、スマートフォンを手に取る、コウと呼ばれていたディストーションによって生まれた存在を屠った男。
「な、なんなんだよ……! 何がどうなってんだよ!? コウは一体何者だってんだよ!? 神様だったり、母さんを乗っ取った化物と同じだったり! 答えろよ! あんた! デボォォスッ!!」
クラインの叫びに、この時代、この世界にはあり得ないはずのスマートフォンを手に持った男が、全く予想もしていなかった答えを高らかに叫んだ。
「……クライン。おま〜が知るデボスなんて奴は、この世界にも、どの異世界にも存在しないじぇ。俺は……俺の名前は、コウ・ザ・ストーンズ! 神界よりディストーションの回収の命を受けて舞い降りし第三神位、翼の神コウ・ザ・ストーンズだじぇ!!」