第四十の神話
あれから、ごんは毎日山を駆け回った。或る者は、海を母と表現した。
ならば、この山というのも恵みを生み出す母だろう。毎日毎日、この山からごんが集めていたのは毬で身を守る栗だった。
この栗は古来より日本において美味とされており、栄養価も非常に高い。それ故に、ごんはそれらを山々から集めては、農村へと下っていく。
人々が寝静まった夜中に目指していたのは、ひとりぼっちで暮らす兵十のオンボロ家の物置だ。
口の周りに毬がチクチクと刺さりながらも、それを堪えて持ってきた栗をそっと物置の中に置いて行く。
もちろん拾ってきたのは栗だけではない。この寒さが忍び寄る秋は実りの季節で、食べ物が豊富だ。江戸の世界でも高級品とされるまつたけも、惜しみなく毎日2、3本は届けていた。
ある晩、ごんとキュウビは共に連れだって夜の散歩に出かけていたところ、中山のお城の近くの細い道から、誰かが歩いてくるのに気が付いた。
流石にこの時間にこの姿を見せては驚かせてしまうだろうと、キュウビは大きな岩の陰に。ごんは、道の片側に伏せて隠れる事にした。
月明かりの美しい晩だったが、江戸の世界には夜道を照らすものはそれ以外に存在しない。
それ故、ごんの様な小さな体躯のキツネに真っ暗な道の最中で気付く事は難しかった。
子ギツネと化けギツネが耳を澄ませる。やってきたのは、2人の男。片方は、ごんとキュウビがよく知る男の声だった。
「そうそう、なぁ加助」
もう片方の男の名を呼ぶ声は、兵十のものだった。
「ああん?」
加助と呼ばれたつぎはぎだらけの薄く汚れた男が、面倒臭そうに返事をする。
「俺ぁこの頃、とても不思議な事があるんだ」
「何が?」
兵十の言葉に、やや興味が薄そうに生返事をする。だが、兵十はそれに気付いてか気付かずか、話を続ける。
「おっ母が死んでから、誰だか知らんが俺に毎日毎日栗やまつたけをくれるんだよ」
「ふぅん、誰が?」
やや小柄な加助が、火のついた提灯で先を照らしながら、横に並ぶ兵十の話を聞き続ける。
左の耳から入った兵十の声が、右の耳から抜けているかのような生返事が続いているが。
「それが分からんのだよ。俺の知らないうちに、置いて行くんだ」
会話を続ける2人が、ごんのすぐ横を歩き去っていく。この謎の栗やまつたけを置いているのが、まさか自分だと露にも知らない男達の後をついて歩く。
実にごんにとっては興味深い……というよりは、自分の行いを兵十たちがどう思っているのか気になって仕方ないのだ。
ごんは確かに良い行いをしている。が、やはりまだまだ未熟な子供。自分がしている良い事が褒められるんじゃないかという期待が毛深い胸に膨らんで、思わず会話を聞き入る。
「ほんとかい?」
初めて兵十の話に興味を持ったらしく、加助の声に芯のようなものが入って、兵十の方へと顔を向ける。
「本当だとも、嘘だと思うなら明日見に来いよ。その栗を見せてやるよ」
「へぇ~、そんな事もあるもんだなァ……」
兵十と揃って不思議そうな表情を浮かべる。
『実はそれはオイラの仕業だよ』という言葉が何度も口から出そうになるごんだが、人間の言葉を喋れない彼が声を発したところで彼等にはただキツネの鳴き声にしか聞こえない。それどころか、とっ捕まえられる危険性だってある。
不意に、提灯を持った加助が何を思ったのか、急に後ろを振り返る。
あまりにも急な事で、ごんはその場で身を縮ませて丸くなるしか出来なかったが、幸い加助は明かりの点いた提灯までは背後に向けなかったお陰で、足下の小さなごんに気付く事無く再び前へと向き直って歩き始めていった。
≪やれやれ……無茶な事をするでないわ。肝を冷やしたではないか≫
吉兵衛という百姓の家に到着して男達が中に入っていくのを確認し、未だ縮こまったままのごんの元へとふわりと優雅に、雅に降り立つキュウビ。
【だって……】
≪だってもへちまもないわ、たわけ。もし気付かれたらどうするつもりだったのぢゃ≫
キュウビの言う通り、もしも見つかっていたならばごんは恐らく退治されていたかもしれない。
この数日、農村に出入りしていて人間の話を小耳に挟んできたが、どうやら昔からごんはいたずらが多く、農村に住む百姓達も頭を抱えていたらしい。それ故、ごんの存在は村でも有名で、見つかったら何をされるか分かったものではない。
兵十たちが入った吉兵衛の家から、念仏が聞こえてくる。
【でもオイラ気になるんだよ】
≪気持ちは分かるがの……。とにかく、村の人間に気付かれたらきっとお主は駆除される。ゆめゆめ忘れるでないわ≫
念仏が混じりながらのキュウビの説教が耳に痛い。イマイチ自分の立場が分かっていないごんにとっては、ただの耳にタコが出来る様な小言でしかなかった。
【でもさ、それを言うならお姉ちゃんだってそうじゃないか。村の人達が化けギツネが出たって最近大騒ぎだよ?】
≪あれはわざと見せておるのぢゃ。妾の半身たる珠雲が妾を見つけられるように噂を広めておってぢゃな……≫
九つの尻尾を揺らし、ごんを見据える。今のところ珠雲の『た』の字も見えていないが、彼女にはこれ以外に相棒を見つける方法が思いつかなかった。
【あ、兵十達が出てきた】
そうこう話している内に、念仏が終わったのだろう。いつの間にか坊主の唱えるそれが止んでおり、吉兵衛の家からはまるで蜘蛛の子が散るかのように多くの人が出てきていた。
その中に兵十と先程の一緒に歩いていた男の加助がいたのを見つけると、ごんが走り出す。
≪ま、また勝手に行きおって……まったく、妾はもう知らぬぞぇ≫
多くの人間が各々(おのおの)に提灯を持っているからか、辺りは明るい。
キュウビは流石にこれだけの人間に姿を見せては噂どころか大騒ぎになってしまうと判断したのか、そっと後ろに歩を進めて闇の中へと溶けていく。
そんな彼女の事などすぐに頭の中から消えてしまったごんは、先程の細い道を引き返して歩く兵十と加助から伸びる月明かりが作った影を踏みながら彼等の後ろを歩いていた。
「なぁ兵十。さっきの話。きっとそりゃあ神様の仕業だぞ」
「えっ?」
いきなり出た話題。それも、あの栗やまつたけをくれたのが神様と言う仮説に、兵十の顔に驚きが貼りつく。
「俺はあれからずっと考えていたが、どうもそりゃ人間じゃない、神様だ。神様が、お前がたった独りになったのを哀れに思わっしゃって、色んなものを恵んで下さるんだよ」
「そうかなぁ」
なんとも頓珍漢な推測だろう。ごんの胸中は穏やかではない。
ごんの想いなど露知らず、男達は夜道を歩みながら話を続ける。
「そうだとも。だから、毎日神様にお礼を言うがいいよ」
「うん」
面白くない結論だ。ごんにとっては非常につまらない事になってしまった。
自分が毎日せっせと栗やまつたけを山の中を走り回って見つけているというのに、そのオイラにはお礼がなくって、神様にお礼を言うんじゃァ、引き合わないよ。
もし彼が人間なら、今頃頬を膨らませて目を細め、粘りつくような視線を向けていただろう。
だが、兵十達は後ろのいたずら子ギツネの存在など露とも知らず、それぞれの家に帰り着くのであった……。
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≪ふむ、このくらいでよかろう≫
そのあくる日も、ごんはキュウビと共に栗やまつたけを集めていた。
山の中でも麓に近い、せせらぐ小さな川が流れるそこで待ち合わせた1匹と1体は、互いの戦利品をひとつにまとめていた。
まだ毬に包まれた栗が12。まつたけが4本。今日はキュウビがヤマメまで捕まえていた。
この数日の山中生活で、随分と彼女は強靭になった。
初めの頃は生きたネズミを食べる事も毛嫌いしていたような温室育ちの彼女だったが、人間だけでなく神獣にも環境適応能力があるのだろう。
今では自ら川に飛び込んで、生魚を捕まえられるほどになった。無論、だからと言って野生溢れる性格に豹変したわけではない。従来の雅な振る舞いだって忘れてはない。
【うん、こんだけあれば兵十も喜ぶよ。……どうせ神様のおかげってなるだろうけど】
昨夜のやり取りが頭の中に残っていたらしく、ふてくされた様子で呟く。
だが、ごんの行いは間違いではない。キュウビはふわりと尻尾を揺らして前足で彼の頭を肉球で撫でる。
≪そう言うでない。お主の行いは、それはそれは立派なものぢゃ。いたずら等と言う子供じみた事から、世の為人の為に栗を集めておる。お主は立派な大人になろうとしておるのぢゃぞ?≫
共に暮らした事で、キュウビの中で彼に対する情が生まれていた。彼女も女性の人格を持つ神獣故、母性を持ち合わせていた様だった。
このまだ小さなキツネの子供の成長が、愛おしく感じていたのだ。だからこそ、ふてくされた表情の彼を優しく諌めた。
しかし、異世界の者との交流が深くなれば戻れなくなる。いつかコウが言った言葉が脳裏に浮かぶ。
彼女もまた、ごんに深く交わりすぎていた。いつか訪れる、ごんとの別れの時。それは辛いものになるだろう……いや、今からそれを考えただけで、キュウビは胸が苦しくなっていた。
いや、その時はきっとまだ先だろう。彼女はそれ以上苦しくなる考えを止めると、再びごんへと視線を向ける。
≪さて、そろそろ行くとするかの≫
【うん、今日はいつもよりいっぱいあるから、兵十のやつびっくりするだろうなぁ】
共に栗とまつたけを加えて山を駆け、野を走るキュウビとごん。
ずっとこのまま、彼が立派な大人になるのを見守るのも悪くない。そんな想いが生まれた九つの尾を持った神の眷属は、小さな我が子同然の彼の姿に栗を咥えた口元が綻ぶのだった……。
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神獣と子ギツネが走り去った山の、一際大きな杉の木の頂点に、男はいた。
そもそも杉の木の先端に、革靴で爪先のみで立ち姿を維持出来るかと考えたら、常人ではまず難しいだろう。
だが、男は平然と、そこが地面であるのと変わらない程に平然と、そこに立っていた。
白衣のポケットに手を入れたまま、雪の様に真っ白なスーツに血の様に紅いネクタイの男は、ニタリとその美貌が崩れる程の笑みを浮かべる。
「excellent……これはとても、とてもexcellent」
彼が見据えるのは、野を走る大きな九つの尾を持ったキツネ。
知っていた。彼はそのキツネを良く知っていた。
「ひぇっへっへっへ……あの動物の鎧の男が連れていた少女のキツネがこの世界にいたとは、なんという僥倖……! なんというexcellent……!」
男はステッキを振る。まるで劇場の舞台に立つ俳優のように。
「ならば良い実験を思いついた……! あのキツネを……フフフ……ひぇっへっへっへっ!」
キュウビは何も気付かない。自身の身に起こる事も。これから起こる惨劇を。
男が虚空に手をかざし、空間が捻じ曲げられ、世界を無理矢理歪める。
彼の手に掴まれるは、七色の輝きを持つ球体。
今、新たな悲劇が幕を開けた……。
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兵十は、家の小さな囲炉裏の前で縄を編んでいた。
網目状に結ばれていたそれが切れ、縄を修繕していたのだ。
それは、病に伏せた母に精をつけさせようと川で使っていたはりきり網だった。
独り、ただ独りきりで黙々と網を修繕していると、亡き母の事を。そして母に食べさせるはずだったウナギを盗んだあのいたずらキツネと、突如現れた巨大な化けギツネを思い出す。
あのキツネ達のせいで、母は死んだ。いや、直接キツネ達が母に手をかけたわけでもないが、それでもキツネ達のせいにしないとやるせない気持ちになってしまう。
ボーッとした表情で、考えたくはないけどそんな事を考えてしまう。
兵十の心は、母を失った悲しみから未だ癒えていなかった。
「ん……?」
物置の方から、小さくカタンと音がしたのに気付く。
その音で兵十が顔を上げると、開けた裏口から巨大な体躯の化けギツネの姿が見えてしまった。
あり得ない大きさにあり得ない9つの尾。
そして、傍らには小さな子ギツネまでいた。
忘れもしない。あの時のいたずらごんと、化けギツネではないか。
兵十は物音を立てないように慎重に立ち上がり、納屋の火縄銃を手に取って火薬を詰め始めた。
またあのごんぎつねがいたずらをしにやってきた。しかも、あの化けギツネも一緒にだ。
兵十の中に湧き上がるは、ドス黒い母の仇の念。
足音を、気配を消してそっと裏口に近づく。
見えたのは、今まさに物置の戸口から出てくるキツネ達の姿だ。
兵十が火縄銃を向け、引金に指をかけたその時だった。
七色の輝きを持つ球体が突然彼等の間に飛んできて、2つに分裂。
1つはごんに。もう1つは兵十に。
それぞれの身体の中に入り込み、キツネと男が同時に悶え苦しむ。
【あぎっ……!】
「がっ……! あぁっ!」
《な、何事ぢゃ!? 今のはまさか……でぃすとぉしょんかぇ!?》
これまで、キュウビが珠雲と共に見てきたあの異世界の輝き……それが突如として彼等の中で蠢き、蝕んでいく。
だが、キュウビだけではどうする事も出来ない。今も尚、苦しみから逃れようともがく彼等を救う手立てがないのだ。
【おね……ちゃん…………】
やがて、ごんの意識が失われる。
≪ごん! ごんや! 返事をしてたもれ!≫
懸命のキュウビの叫びも、もうごんには届かない。瞳を閉じ、眠る様に倒れた子ギツネは、彼女の声にピクリとも反応しなくなっていた。
そして、彼の身体が宙へと浮かぶ。もがき続ける兵十に向かい、その身体が独りでに彼の下へと浮遊し、一瞬の輝きの中へと消えていく。
≪な、なんぢゃこれは……っ!?≫
キュウビの視界を奪い去る程の強烈な光。それは、まるで目の前に太陽があるかのような、白い輝き。
やがてそれが兵十の家から消え去っていくと、そこにはキュウビの想像をはるかに超えた存在が佇んでいた。
両の肩に備わる小さな綿状の鎧。小鰭と呼ばれる肩の可動域を阻害しない為のそれに、腰回りには裾板という腰から大腿部を守る鎧。
両手には籠手が、両足には脛当てが取り付けられており、胸元の鎧にはキツネの頭部があしらわれた胴鎧。
それは、かつて戦国の世において鉄砲を携えて戦い抜いた足軽。鉄砲隊の姿そのものだった。
だが、単純に兵十が鉄砲隊の鎧を装着したわけではない。胸部に存在するごんの頭部の様なその鎧。
≪でぃすとぉしょんによって『兵十と合身』したのかぇ……!?≫
そう、ごんは神獣ではない。普通の子ギツネだ。だが、現れたディストーションによって、彼等は無理矢理神獣士と同じ存在へと変化したのだ。
兵十が手に持つ火縄銃もまた、金属質なそれとは大幅に変貌し、生態的な構造となっていた。
兵十の右腕に3本程の管が突き刺さり、銃身には無数の眼が埋め込まれており、それらがギョロリとキュウビへと向けられる。
「ア……アァ……」
兵十の口から、小さく声が漏れる。彼自身もまた、急激にその身に起きた変化によって意識が混濁している様に見える。
いや、ディストーションによって支配され、彼の人格そのものが崩壊している可能性が高い。
眼光が9つの尾を持つそれに狙いを定めると、まるで心臓の様に脈動する銃口から火花が放たれる。
≪コォンッ!?≫
向けられた銃口に、咄嗟に物置から駆け出し、赤い井戸の屋根から鮮やかな黄色の葉が連なる大きな銀杏の木へと飛び移る。
だが、銃弾はまるで意志を持っているかのように、彼女の駆け抜けた軌跡を辿って追いかける。
新たな災いが、キュウビと、ごんと、兵十を狂気の円舞の中へと誘って行った……。
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ここがどこだか、彼等は分からなかった。
黒だと思えば周囲が黒くなり、白だと思えば周囲が真っ白に変化した。まったくもって不思議で、おかしくて、でも心休まる場所。
一体どういう事なのか、彼等の理解の範疇を大きく超えていた。だが、分かる事が1つだけある。
兵十とごんは、その空間に1人と1匹だけしかいなかった事だ。
【ごめんよ……兵十】
兵十は目を丸くする。幼い少年の声が、彼の耳に飛び込んできたからだ。発せられたのは、ごんからだった。
俺は夢でも見ているのか。兵十の胸中に湧き上がるのも、無理はないこのわけのわからない状況。
だが、ごんは間違いなく人間と同じ言葉を……いや、彼の言葉を自分が理解出来るようになっていた。
【オイラがうなぎを逃がしちまったせいで……ごめんよ……】
ごんは、この不思議な空間の中で、ただひたすら兵十に謝っていた。
ずっと兵十に謝りたかった。栗やまつたけを届けるだけではない。きちんと面と向かって、謝罪の言葉を届けたかった。
だが、所詮は人間とキツネ。それは叶う事のない願いだった。だが、この空間のせいなのか……兵十の耳に、心に、ごんの贖罪の念は届いた。
「ごん……お前……」
兵十が俯いた子ギツネに視線を落とす。それまで孕んでいた憎しみの心が、あるで氷室から取り出された氷のように徐々に解けていく。
【……分かるのかい? オイラの言葉……】
「ああ、分かるとも……。お前、後悔してたんだな……」
ゆっくりとうなだれた首を持ち上げて兵十を見つめる。
【うん……オイラ、ちょっとしたいたずらのつもりだったんだ。なのに、兵十と兵十のおっ母ぁには申し訳ない事しちまった……】
兵十の中に渦巻いた黒い念が、ゆっくりと消え去り、ある疑問が彼の中に生まれる。
「まさか……ごん、お前だったのか……栗をくれたのは」
首を縦に、こくりと頷くごん。
彼の心に触れ、言葉を交わした兵十の瞳が溢れんばかりの感情で潤み、やがて頬を流れる川となる。
「そうか……はは……そうだったのか……ごん……お前も苦しかったんだな……」
跪き、そっと小さなごんを抱きしめる。
兵十の温もりを感じて、ごんもまた、瞳に熱いものがこみ上がる。
コォンと、ごんが小さく鳴く。
やっと繋がった互いの想い。やっと繋がった2人の絆。
だが、空間を支配する闇が津波となって……抱きしめる1人と1匹を……飲み込んでしまった……。
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《くっ! やめるんぢゃお主達!》
間一髪、危うく自慢の尻尾を撃ち抜かれる直前で身を翻してかわす。
強制的に紛い物の神獣士の様な存在となった兵十とごんの肉体は、まるで生ける屍の如く無秩序にキュウビに向かって無数の眼光を持つ生命体の火縄銃を乱発する。
元来火縄銃は単発の弾込め式であるにも関わらず、連射が可能となっているのは恐らく兵十の右腕に突き刺さったあの銃の管のせいだろう。
心臓から血液を送られる血管の様に脈動する度、新たな銃撃が生まれていた。
せめて珠雲がこの場にいれば……。
無いものねだりの『たられば』だが、実際キュウビ単体の戦闘力はその辺の野生に住むキツネと変わらない。
彼女がいなければ、自慢の幻も使えないのだ。
《珠雲や! 早く妾を見つけてたもれ!》
新兵衛の鍛冶屋の屋根に飛び乗り、裏口へと降りる。
裏では洗濯板で足袋を洗っていた新兵衛の家内が、いきなり現れたキュウビの姿に『ぎゃあっ!』と少々はしたない叫びを上げていたが、今のキュウビにはそれを気にする余裕はない。
そのまま小高い丘を降りて弥助の家の裏を抜け、村の外れ……。
兵十の母が眠る墓地に続く彼岸花が咲き誇るそこへと逃げる。
《こ、ここまで来れば……》
キュウビはかなりの速度で村を駆け抜けた。
まず人間では追いつけない程に。だが、紛い物の神獣士となった兵十には通用しなかった。
後方から響く炸裂音と共に、左の後ろ足に強烈な痛みと麻痺が生み出される。
撃たれたのだ。立つ事もままならず、その場で崩れるキュウビ。
後ろからは兵十がゆっくりと……銃を構えてやって来る。
《最早ここまでか……む、無念ぢゃ……》
キュウビの意識が様々な場面を呼び覚ます。
400年前の出来事。先代の主に封印された事。再び封印を解かれた事。珠雲と出会った事。タイガーに護られた事。神界で面白おかしく、時に異世界でみんなと戦った事。
『あぁ、これが走馬灯とやらかの……』そう彼女は、様々な出来事の映像を観客のいない映画館で観ているかの様に、客観的に思考していた。
忍び寄る足音が近付く。せめて、せめてもう一度珠雲に会いたい。もう一度……タイガーに会いたい。
だが、現実は非情だった。眼前に、ギョロリと火縄銃だったそれの眼光と脈打つ銃口が額のコアクリスタルに向けられる。
そして……凶弾が、彼女の額へと喰らいついた。
《…………っ!》
……はずだった。
キュウビは生きていた。恐怖や覚悟、様々な感情が入り混じって思わず閉じた瞳をゆっくり開くと、周囲にあるのは天使が舞い、仏が見守る楽園の様な極楽浄土でも、鬼が睨み苦痛に塗れた地獄でもない。
涼やかな秋風に揺れる彼岸花達の姿。
しかし、キュウビは1つの違和感を覚える。
なんだか心地よくも懐かしい温もりのようなそれを、全身に感じていた。
「……よくもウチのキュウビに酷かこつばしてくれたね……! 絶対に許さんけん!!」
《た、珠雲っ!!》
そう、キュウビが凶弾に倒される直前、ようやく彼女を見つけた珠雲が咄嗟に合身。
銃弾が発射されるより早くにキュウビを自らの元に引き寄せて、互いの身体を1つへと変化させていたのだ。
まさに間一髪。少しでも珠雲が遅ければ、キュウビはこの世に存在していなかっただろう。
「待たせたねキュウビ! さぁ、こっからはウチらのステージたいっ!」
紛いものの神獣士の前に立ちはだかる巫女姿の神獣士。
この世界に現れた存在達の最初で最後の戦いが、今始まった……。




