第四の神話
「いけっ! ウルフ!」
常闇に支配された森の中を、青年の声が響き渡る。
陽が行き届かない苔むした大地を、世にも珍しいクチナシ色の体毛を身に纏った狼が駆けて行く。
この森には様々な動物が生息している。野うさぎ、猪、狐、ネズミ、熊、シカ、その他エトセトラエトセトラ……。
まさに、畜産業よりも狩猟の方が効率的かつ生産的な程だった。
その為、ここは狩猟による生計を立てている村の大切な生きる糧でもあり、経済を生み出す場所でもある。
アオォォオオンッ!
主に知らせる様に、狼の方向が森全体に轟いていく。頼もしい相棒が、また新たな獲物を捉えたらしい。
これで今日の狩りによる獲物は、片手では足りない数を確保した事になる。しかも、今日1番の功労者は、この咆哮の主だ。
「すごい……熊まで喉笛を一撃……」
ヨタヨタと疲労困憊な様子で歩きつつ、捕らえた野うさぎを抱えたクラインが合流する。
まず視界に飛び込んだ、目の前に積まれた獲物の数々に、疲れてしょぼついた目が丸くなる。
普通熊なんて大物、村では余程の腕利きでも単独では難しいものである。それすらも容易く仕留める狼の力は、まだまだ秘めたるものがあるのだろう。
「村の人々にはお世話になっているからね。これくらいはしないと」
……彼が村に訪れてから、時は既に2週間が経過していた。
その間に今日の様な狩りを行っては獲物を全て村への寄贈したり、村の困っている人を助けて回ったりしたりで、短期間の間で今やすっかり村の人気者だ。
この美貌にそれだけの献身的な性格だ。村の若い娘がみな夢中になるのも、時間の問題だった。
現在、恋人がジェイソンさん家のヤギであるクラインとは大違いだ。
それを語る上で、格好のエピソードも生まれた。
この話は、つい先日の事だった。
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「これくらいでいいですか?」
「ああ、助かるよ。見ての通り、我が家はこの年老いたじじいと孫娘しかいなくてねぇ…薪割りなんかも重労働で…」
手斧を下ろし、積み上げられた薪の山を見据えるコウ。
時刻は昼に差し掛かる頃だが、高齢の男性から薪割りの悩みを聞きつけ、早朝から薪割りを申し出ては、この時間までずっとただひたすらに薪を割り続けていた。
おかげで腕は変色し、小刻みに震えてしまっているが、それを後ろ手で組んで、男性からは見えないように隠していた。
『リアンちゃぁん、今日こそ俺と夜明けのいろをはすはすしちゃうやつ飲もうじぇー!!』
そのコウ達から離れたところでは、今や村一番の変態という不名誉な称号を手にしたデボスが、孫娘に迫ったりなんかしちゃっているが。
「いえ、気にしないで下さい、僕にとってもいい訓練になりました」
爽やかな笑顔を向け、流した汗を気にも留めない様子で言うコウ。
それだけでも、本当に絵になる様な好青年だ。
『うるさい!近寄んな!スカートめくろうとすんな!この変態馬小屋野郎!』
「なんとよく出来た御仁か…お主が村に来てくれて本当によかったわい、はっはっはっ!」
高齢の男性も、曲がった腰を左手で叩きながら、杖をついて高らかに笑う。ただでさえしわくちゃな顔が、嬉しそうに更にくしゃくしゃになっていた。
『気持ちワリィんだよ! オラァ!』
バキャッ!!
「僕は僕に出来ることでお役に立ちたいだけですよ、ジェイソンさん」
ヤギを飼育し、乳を搾って生計を成り立ている高齢の男性に向けて、小首を傾げるように笑みを絶やさぬコウ。
『げふぅぅぅっ!!…バタッ』
「本当に近年稀に見る好青年じゃわい、のうリアン」
「えぇ、本当素敵…私、コウさんみたいなカッコ良くて優しい方とお付き合いしたいなぁ…♡」
変態を駆逐した孫娘も、目がハートになっていると表現すべき恍惚の表情を向け、すっかりコウの虜となっていたのだった……。
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とまぁ、こんな感じの事が毎日だ。しかも老若男女分け隔てなく接しているから、敵も出来ないまさに村のヒーローだ。
だからこそ、クラインもコウの人柄と人間性に魅かれて、こうして一緒に狩りをしているのだが。
「ふぅ、そろそろ夜も近いな。クライン、今日はここまでにしよう」
「そうだね、これ以上狩っても今度は保存の問題もあるし…」
薄暗い森では時の流れが分かりにくいが、既に夕刻をとうに過ぎている。
いくらコウとウルフでも、夜行性の熊や猪と遭遇するのは危険だろう。
強い者でも、不意を突かれると脆いものである。コウやウルフも、視界を完全に失う常闇の森の夜を歩いて、突然の攻撃を完全に予測し、回避できる保証はない。
だからこそ、無理をせずに必要な分だけの獲物を手に、帰路につくのが正しい判断と言えよう。
今やすっかり友人となっていた2人は協議の末、そう結論づけると、村人が快く貸し出してくれた荷車に本日の獲物を乗せ込み、クラインの家路へと向かうのであった。
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皿、皿、皿、もひとつおまけに皿。
まるで皿で作られた守護の塔とでも表現するべき、大量の皿の山が積まれていた。
最近のアルベルト家の風景となっているその山の陰から、満足そうな声が上がる。
「いやー、アンナさんの作るご飯はいつも絶品だじぇ」
「……アンタ本当は旅人じゃなくて、大食い芸の大道芸人だったんじゃないか……?」
呆れる程の食欲。一体その小柄な身体のどこに収まっているのか…10人前はあろう食事が、瞬く間にデボスの胃の中に消えてしまっていた。
毎度毎度、これが3食だけでなく、朝と3時と夜のおやつまで追加されるから、たまったものではない。
食費も摂取カロリーも、まさにうなぎよりも昇りに昇っている。
「いいじゃないの。母さん、たくさん食べてくれるから嬉しいのよ?」
そうアンナは言うが、記憶喪失のこの男が来てから、家計は火の車だ。
加えて、村の若い娘から熟女、果ては人妻にまで歯牙にかけようとしちゃったりなんかするものだから、コウとは対極的にすっかり村の厄介者にまで成り下がっている。
そんな流れ者の存在があるからか、対面で食後の紅茶を優雅に嗜むコウの完璧超人ぶりが、益々映えてくる。
『その自由な振る舞いがデボスさんの魅力なんじゃないかな?』とはコウの弁だ。
「全く、母さんはデボスさんに甘いんだから」
誰のせいで狩猟の負担が増えているのか……。そう言いたいクラインだが、母の手前、中々非難も出来ないでいた。
「まあまあいいじゃないか、こうしてみんなで食卓を囲むって言うのは、平和な証拠なんだ」
かちゃりとソーサーとカップの音を鳴らしながら、眉尻を下げた笑みを浮かべたコウが言う。
確かにコウの言う通りではある。今はまだ、災厄とやらが発生した様子はなく、ゆったりと穏やかな日常が流れている。
何も起こらないに越した事はないが、いつかは何かが起こる。
……何かが分からないから余計に恐怖心を掻き立てる。だがそもそも、本当に何かが起こるのだろうか?
それを示しているのは、コウの妄言とも取れる様な証言ただひとつ。
結局の所、この件に関してはなんの確証もなく、結局コウ以外の人物にとっては分からず仕舞いだ。
クラインは一息吐き出し、この思考を止める事にした。
ガシャン!!
そうクラインが思考を帰結させ、明日の仮に使う矢の手入れを。コウはジャーキーを足下に寝そべる狼に与え、デボスはアンナの下着をタンスから物色する等、皆が思い思いにくつろぐダイニングの奥に備わる台所。
その台所から、空気を切り裂く様な陶器の断末魔が轟く。
何事かとクラインが顔を振り向くと、既にコウがそこに向けて走り出していた。
「アンナさん! 怪我はありませんか!?」
「え、えぇ……ごめんなさい……驚かせちゃって……ついボーッとしちゃって……」
遅れてクラインとデボスが駆けつけると、既にコウとアンナが話しながら割れた皿の破片を集めていた。
普段しっかり者の母にしては珍しい失敗。
困った様な表情で、破片を拾い上げるその手を、コウが掴んで制する。
「アンナさん…ひょっとして、体調が悪いのではありませんか?」
「……そ、そうなの……最近なんだか調子が悪くって」
弱々しい声でアンナが肯定する。
アンナはクラインが幼少の頃から知る限り、弱音を吐く様な女性ではなかった。
狩猟中の事故で死んだ父の分まで、獲れた獣の皮で製品を裁縫する仕事で生計を守ってきた。
当時まだ赤ん坊とも幼児とも形容出来る歳のクラインを女手一つで育てる事に、村の年寄衆は何度もまだ若いアンナに再婚を勧めた。
実際息子から見ても、アンナは聡明で美しい女性だ。
村の若い男連中……いや、隣町や果てには遠くの都市に住む豪商の一族等からも、彼女に再婚を申し出ていたのも事実だ。
しかし、彼女はそれらを全て断った。
『死んだ夫の生きた証は自分と息子です。私が再婚してしまったら、数少ない夫の証がなくなってしまいます。この子の父親は、夫ただ1人ですから』
そう言って、彼女は今日まで生きてきた。ならば、これまでの過労が祟っても無理はないと言えるだろう。
初めて聞いたアンナの体調不良の訴えに、心配そうな表情を、クラインが浮かべる。
コウの差し出した手を掴んでアンナが立ち上がるが、彼女の言葉の通り体調が思わしくないのだろう、足下がおぼつかない様子だ。
一歩歩くにしても、身体がふらついて今にもまた倒れてしまいそうだ。
「母さん……ほら、疲れてるんだよ……後片付けは俺達でやるから、もう休んでてよ」
コウから彼女を託されたクラインが、母の肩を組んで、納屋の近くにある離れの自室へと連れて行く。
「ありがとう、あんたも父さんに似て、優しい子に育ったね……母さん、今日は甘えちゃおうかしら」
何時もより元気がない母の笑顔。クラインは手のひらを彼女のおでこにあてがう。
うん、熱はないな。そう確認して、『悪いけど、先に片付けを頼む』と、友人と穀潰しに告げて、ダイニングを後にする。
「さって、さっさとやろうじぇ。アンナさんの看病がてら添い寝もしなきゃだし」
「添い寝は…いらないんじゃないかなぁ?」
こんな時でもブレないデボスの発言に苦笑を漏らしながら、コウは友人から託された片付けを、まずは手早く皿洗いから始めたのであった。
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翌日。
「アンナさん、まだ調子が良くないのかい?」
「そうなんだ、まだ寝込んでて……ねっ!」
常闇の森にて、何時もの様に狩りに勤しむ2人。
クラインが野うさぎに矢を穿つが、気付かれたのかすり抜ける様に飛びよけられてしまう。
……あれから、結局アンナが回復する事はなかった。
長年の疲労が溜まっていたのだろう、今は息子のクラインも部屋には入って欲しくないと言われている。
「それは心配だね。重度化しなければいいけど……」
クチナシ色の獣を従えながら森を進むコウ。
ウルフは先頭で地面に向かって鼻を鳴らしながら、周囲に獲物がいないかを探していた。
不意に、ピクリと耳が動く。
どうやらイヌ科の獣らしく、その嗅覚のセンサーが何かを捉えたらしい。
アオン、と小さく鳴いて突如2人の前に躍り出ては立ち止まり、横腹を見せたまま振り向く。
……どうやら、ついて来いとでも言いたいらしい。
クラインもそう感じたのか、どうすべきかコウに視線を向けていると、当然彼は『行こう』と告げて僕と共に薄暗い木々の間を駆け抜けて行く。
奥へ。奥へ。奥へ。
道中のどこまでも広がる木と、岩と、苔とで作り上げられた自然の迷路を抜けると、辿り着いたそこは小さな窪みの様な場所だった。
滑り降りる事も出来るそこは、上部が生え渡る葉によって光がほぼ遮断されており、まさに常闇の深淵と呼ぶに相応しかった。
周囲にはじっとりとした空気が漂い、湿度の高さが伺える。苔も至る所に自生しており、足を滑らせてしまいそうだ。
ウルフも立ち止まっている事から、どうやらここが目的地の様だ。
一体ここに何があるのか……そう考えるまでもない。
クラインの鼻腔を強烈に刺激する酢酸と生ゴミを混ぜっ返したかの様な、吐き気をもよおす強烈な臭い。
胃からの逆流を必死に押し留めようと両手で口を押さえる。
うじゅる。
口を押えていた手の甲に感じる何かが這う感触。ようやく慣れて来た視界が見つけたその正体は、小さく白い、蝿の幼虫……蛆。
「うわあぁぁぁあっ!!」
必死な形相で、張りついたそれを振り払おうと手を払い、身体を仰け反らせてしまった拍子に、足許にあった窪みまで滑り落ちてしまう。
「痛たたた……ひっ!?」
クラインは絶句した。
自身が滑り落ちたそこにあったのは……大量の動物の死骸。それも、いずれも何者かに無残に食い散らかされているそれは、湿度のせいで腐敗が早まり何時のものかも分からない程に腐敗ガスで膨張し、大量の蛆が死体を蚕食してしまっていた。
ただ、クラインでもこれだけは分かった。
その動物が…人間の子供である事が。
「うっ……! げえぇっ!! うぇっ!! うぇぇっ! うぇっ!」
それと理解した瞬間、その場で吐瀉する。
心理的な外的要因と、嗅覚が麻痺するほどの悪臭。そして、視界が捕える腐りきって肉片が崩れ落ち、そこからまた新たな蛆が大量に湧き、周囲を大量の蠅が次々飛び交い、また新たな蛆の卵を植え付ける。
普通の人間ならば耐えられないような状況に、クラインは泣きながら履き続ける。
だが、コウは違った。
「これは……動き出してしまっていたか……ディストーション……!」
この腐敗と異臭の地獄絵図の中、助ける事が出来なかった命達への悔やみなのだろうか、唇を噛み締めるコウ。
その瞳は、窪みの中の子供達の亡骸と、嘔吐を続けるクラインを見据えたまま……決して離す事は無かった。