第三十九の神話
「……それはほんなこつね?」
中山のお城の中庭で、珠雲が聞き返す。
白い石で山から流れる水の模様を生み出した枯山水が描かれたそこは、手入れが行き届いた松の木や盆栽が並べられていた。
じいやの趣味であるその力作達は、優しい秋の風にゆったりとそよいでいた。
そんな場所で珠雲と話しているのは、お殿様の身の回りの警備やお世話を担当している3人の旗本。
皆同じ緑の襦袢の上から、継裃姿だ。
真ん中に立っている旗本はひょろりと細長く、珠雲から見て左にやたらと筋肉質な男。右には小柄で小太りな男がいた。
「そうなんだよ。中山の農村で、デッカいキツネを見たって芸者がいたんだよ」
ひょろ長い旗本が言うのは恐らくキュウビの事だろう。
普通のキツネより数倍大きな姿の神獣態ならば、間違いなく彼女の事だ。
「珠雲ちゃんが探してる化けギツネかもしんないからさ、芸者に話を聞きに行ってみたらどうだい?」
筋肉質な旗本が言葉を続ける。
もし彼等の話が本当ならば、今の丸腰に近い状況からすぐにでも行くべきだろう。
珠雲はそう自己の脳内会議で決議を出すと、彼等に頷く。
「分かった、すぐに行くけん。ありがとう」
「役に立ったなら良かったよ。でも今日はもう夕暮れ時だから、明日にしなよ。ほら、晩御飯のおでんも届いたみたいだしさ」
小太りな旗本の視線の先には、給餌を担当する者が熱々のおでんを届ける姿があった。
というか、マグマか何かの様に煮え滾っていた。
「ちょ、これ煮え過ぎだろ! 俺はこんな熱すぎるの食べないぞ!?」
小太りな男が首を左右に振る。確かにこんな煮え滾ったおでんは口の中を火傷してしまうだろう。
「……分かった、じゃあこれは俺が食うよ」
それに対して、ひょろ長い旗本が自ら手を上げて買って出る。
「いやいや、リーダーが食うなら俺が食うよ」
次いで筋肉質な旗本まで手を上げる。
「ならウチが食べるけん」
何故だか分からないが、珠雲も手を上げなければならない様な気がして、手を上げながら名乗り出る。
こうなってはもう小太りな旗本も手を上げざるを得ない。
「……じゃあ俺が食うよ」
『どうぞどうぞ』
小太りな旗本が手を上げた瞬間、すかさずひょろ長い旗本達に珠雲が小太りな旗本に右手を差し出す。
最早様式美のように流れに小太りな旗本が地団駄を踏む。
「なんでだよ!?」
抗議をする小太りな旗本を筋肉質な旗本が後ろから羽交い締めにして捕まえる。
その間にリーダーと呼ばれたひょろ長い旗本があっつあつの大根を箸でつまんで迫り来る。
「食うって言ったじゃん、ほら」
大根を口元に運ぼうとした瞬間、小太りな旗本が恐怖心が先だって避けたせいで右の頬に湯気が濛々(もうもう)と立つ高温の大根がくっついてしまう。
「あぢぃぃぃぃっ!!」
くっきりまん丸大根の形に、右頬が真っ赤になる小太りな旗本。見ているだけでそれがいかに熱っされたものかよく分かる。
だが、まだ小太りな旗本はおでんを一口も食べていない。ならばと次はこれまたあっつあつの玉子をつまむ。
「リーダー早く早く!」
もがく小太りな旗本を掴んだ筋肉質な旗本が急かす。
「まぁまぁ待て待て、ちゃんと食えよー」
ひょろ長い旗本が玉子を無理矢理ねじ込む。
この時点で口の中は大火事だ。
「あっふ! あっつ! ぷっ!!」
煮え立つ程のあまりの熱さに、小太り旗本の口から玉子の弾丸がひょろ長い旗本の顔面に向かって発射される。
「うわっちゃ! あっちぃっ!!」
玉子の大砲をまともに受けて、小太りな旗本とそれを捕まえる筋肉質な旗本と共に崩れ落ちる。
「なんばしよっとー!?」
おでんひとつで、もろともに自滅していく旗本達。
今宵も中山のお城は、楽しい食事の風景に包まれていた。
★★★★★
中山のお城がおでんで大騒ぎとなった夜が明け……。
いたずらの贖罪を決意した少年キツネは、朝も早くから巨大な親代わりの神獣キツネと共に棲家としていた洞窟を抜けて、農村の中でも一際老朽化が激しい兵十の家の裏へとやって来ていた。
そこでは、あのサビとカビで赤く変色した井戸の前で収穫した麦を研いでいる兵十の姿があった。
「オイラと同じひとりぼっちの兵十か……」
隠れていた物置の陰から、ポツリと呟く。母親の病は、村の噂では肺炎だったらしい。
この世界においてまだまだ医療技術は発達しておらず、肺炎は不治の病のひとつだった。兵十の母も、高額な薬を買う事が叶わずにそのままこの世を去る事になった。
≪そうじゃの……妾もお主もあの男も、みなひとりぼっちぢゃ≫
未だ珠雲と合流が出来ないまま、早3日が経過している。
『異世界では今も自分抜きでコウやクリス達が戦っているのだろうか?
もしや自分達が抜けた分、戦力が低下してディストーションに敗れたのではなかろうか?』そんな不安が彼女の中を過ぎる。
珠雲に会えない寂しさ、タイガーへ謝罪が出来ないでいる焦燥感が募るばかりだ。
だが、今の彼女に出来るのは、姿を見せて噂が流れるのを待つばかりだ。
【……この声……】
ごんが、何かに気付く。彼の言葉にキュウビもまた、耳を澄ませる。
聞こえてくるのは、兵十が研ぐ麦の音。近所の子供の声。そして、遠くから微かに聞こえてくるいわしと連呼する男の声。
【いわし売りだ】
そう言うと、何かを思いついたのだろう。表情が明るくなって急に先日キュウビを案内した百姓の弥助の家……いわし売りの声が聞こえた方角へと走り出す。
≪こ、これ、妾を置いて行くでない!≫
走り出すごんの後を追うように、麦研ぎに夢中になっている兵十の背後を巨大なキツネが走って続く。
「……ん? 今ぁなんか通ったような……」
大きな気配に振り向く兵十。だが、そこは既にキュウビが走り去った後。
彼が振り向いた時にはオンボロの我が家の壁しか見えなかった。
「……気のせいか」
母が死んでから、寂しさのあまりに誰かがいると勘違いしたのだろうと兵十の中で完結すると、再び麦を研ぐ作業を始める。
そんな彼を尻目に、村のはずれから迂回をするように鍛冶屋の新兵衛の家の裏から小高い丘をひとっ跳びで降り立つと、ごんの目に飛び込むのは弥助の家に向かって歩くいわし売りの姿だった。
向こう鉢巻にしぼりの浴衣を片肌脱いで、紺色に染め上げられた縞模様の腹掛けに裸足姿の若い男が、天秤の様に長い棒の両端にざるをぶら下げた姿。
いわゆる江戸の時代で最も有名な商業形態、棒手振りである。
ざるの中には今朝揚がったばかりなのだろう。新鮮で腹が日の光に反射して輝くいわしが幾つも並べられていた。
「いわしの安売りだぁい! 活きのいい、いわしだぁい!」
若いいわし売りは、大きな声を張り上げて客を呼び込みながら村の中を歩き続ける。
夏場に比べて随分と涼しくなったとはいえ、まだまだ日中は日の光がある。いわしは足がはやい為、早く売り切ってしまわないとこの若いいわし売りにとっても大きな損害だ。
だから、こうしてあらん限りの力を込めて、声を張り上げながら売っていた。
「いわしをおくれ」
そんな彼を救ったのは、先日葬式の準備で歯を黒く染め上げていた弥助の家内だ。
勿論普段から歯が黒いわけがなく、いわし売りと話す彼女の歯は今日は白い。
いわし売りはいわしの入った天秤棒を道端に置いて、注文の通り数匹のいわしを両手に掴んで弥助の家内と一緒に台所がある家の裏口へと姿を消していった。
【よぉし……】
これを見ていたごんは、その隙にと誰にも気づかれる事なく天秤棒まで近づいてざるの中を覗き込む。そこには物言わぬいわしが並んでおり、すかさず前足で掴むと5、6匹程を口に咥え、いわし売りが戻ってくる前にと素早くその場から走り去る。
≪全く……どこへ行ったのぢゃ……≫
鍛冶屋の新兵衛の家の裏手まではなんとか追いついたが、すっかりごんの姿を見失っていたキュウビの四肢の間を、彼女の探し人ならぬ探しキツネのごんがすり抜けていく。
≪ごん! おぬし妾を二度も置いていくでないわ!≫
【おばちゃ……お姉ちゃんごめんよ! オイラ良い事してる最中だからー!】
そう言って、キュウビには目もくれずに再び兵十の家へと走る。ごんの言葉と行動の意味がイマイチ理解出来ずにいるキュウビからしたら、忙しない事この上ない。
いわし売りの声を聞いてから、この状態だ。キュウビからしたら、嬉々として走るごんに嫌な予感しかしないが。
【まだ兵十は麦を研いでるな……】
井戸に頭を向けたまま作業をする兵十の背後をするりと通って、今にも崩れそうな彼の家の裏口に、咥えたいわしを放り込んでいく。
いわしは上がり框にぼとりと音を立てながら着地。
それを確認すると、急ぎ足で兵十の家を後にする。
《まったく……すばしっこくてかなわんの……》
後を追いかけるキュウビの前に戻ってきたごんだが、その表情は満足気だ。
【オイラ早速良い事したよ!】
人間ならば胸を張っているかの様な態度のごんだが、キュウビの心中は穏やかではない。
《ならば聞くが……もしや売り物のいわしを盗んだのではなかろうな?》
子供を諌める様な口調。実際、彼女の予想通りにごんはいわし売りから失敬して兵十の家にそれを投げ入れた。
【うん、兵十喜ぶだろうね】
それがどういう事か、まるで分かっていないのだろう。
自信を持って、ごんは答えた。
《……おぬしは……。よいか、それは盗みぢゃ。おぬしがあのいわしを売る者から、売り物を盗んで兵十にやったとなれば、盗みの罪を着せられるのは兵十なのぢゃぞ? 今頃いわしを売る者が犯人捜しを……》
キュウビがごんに諭す最中、兵十の家の方角から争う声が聞こえる。
彼女の予想は的中した。しかも、殴る音と壁に何かがぶつかる音まで聞こえる。
《えぇい、言わん事ではないわ……。ほれ、自分がした事を見に行くぞぇ》
そう言って、ごんを無理矢理咥えて再び兵十の家へと向かう。最初に隠れていた物置に裏から入り込んで井戸の方へ視線を向けると、赤い井戸に背を預けてぐったりとする兵十と、ごんが投げ入れたいわしを手に取って彼を見下ろす若いいわし売りの姿があった。
彼等の周囲では、兵十がせっせと研いでいた麦が、まるで爆発が起きたかのように辺り一面に散らばっていた。
「この盗人め! いわしをこんなにくすねやがって! 今度また盗んだら承知しねぇぞ!」
兵十を殴ったのだろう。赤くなった右拳を解いて兵十を指差し、怒り心頭にがなり立てるいわし売りが吐き捨てる。まだ怒りが収まっていないのか、ごんが盗んだいわしを乱暴に再びざるに入れると、その背中からも怒気を発しながら足早に走り去っていった。
これに対して不思議でならないのは兵十だった。自分はずっと井戸の前で麦を研いでおり、先程のいわし売りの事など露とも知らなかった。
ましてや盗みなど生まれてこの方一度もした事がない。だが、いわしが自分の家の裏口に置いてあった。
「いてて……一体誰がいわしなんか俺の家に放り込んだんだろう……いて……おかげで盗人と勘違いされて酷い目に遭った……」
そう呟くと、散らばった麦を拾い集める。砂や砂利にまみれた麦を再び洗い流して研ぎ直さなければ、とても食べれたものではない。
せっかくの作業が全てやり直しになってしまい、未だうっすらと血が流れる頬をボロ衣のような着物の袖で拭って一粒一粒集め続ける。
≪……これがおぬしのした事の結果ぢゃ≫
オンボロ家の物置の陰にごんを降ろす。自身がやった事の結末を知った子ギツネは、先程までの威勢はどこへやら。うなだれて兵十を見ようともしなかった。
≪目を逸らすでない。良い事とはこういう人様に迷惑をかける事ではないのぢゃ≫
現実を見る事をしようとしない子ギツネに、凛とした口調で言う。ごんは逃げようとしたそれに、勇気を振り絞って物置の向こうへと目を向ける。
自分達に背を向けて麦を集める兵十。ごんは、またしても彼に大きな迷惑をかけた。
しかも、今度は彼に良い事をしようとして逆の結果、情けが仇となってしまった。
それだけに、罪悪感は更に大きく膨れ上がってしまう。
【ごめん……お姉ちゃん……】
≪……妾に謝るでない。お主が本当に謝らなければならんのは、あの男にぢゃ≫
キュウビの心に、自分の発言がチクリと刺さる。自分自身も、一体いつタイガーに謝る事が出来るのだろう。
ごんはキュウビの言葉に頷くと、じっと麦を拾い集める兵十の背中を見据える。
その姿を、夕暮れのカラスが鳴きながら巣へと戻るまで、ずっと見ているのだった……。
★★★★★
キツネ達がいわしの騒動を起こす間、珠雲は珠雲で、中山の農村とは打って変わって賑やかな城下町の歓楽街にやって来ていた。
この時代、物騒な世の中ではあったが珠雲のような年頃の子供が1人で出歩くのも珍しくはない。
江戸の世界では兄弟が多い者は農家や商家の次男、次女等の子供達は早い内から各商家に丁稚奉公と呼ばれる修行に出される。
丁稚とは住み込みで商家で店の雑用や使い走りを行う傍ら、番頭や手代と呼ばれる各上の諸先輩から礼儀作法や商売のいろはを叩きこまれる、商売人の中でも見習い修行中の者の事だ。
彼等は使い走りの丁稚は大体珠雲くらいの年頃から奉公や養子に出されている為、彼女の様に1人で歩く子供は大方丁稚くらいのものだ。
故に、珠雲が歩いていても、誰も気にも留めないという事だった。
「ここたいね……」
長い長い悠久の時を過ごしてきたかのように年季の入った木造の造りに歴史を感じる古ぼけた瓦。だが、そんな中にも下賤な者を受け付けない高貴で凛とした佇まい。
そう、ここは芸に生き芸に殉ずる乙女の園、花街。
酒と舞踊と音楽で殿方をもてなし、芸で楽しませるが身体は売らぬ高貴なる存在、芸者達の置屋にやってきた珠雲。
芸者とはそもそも京都以外での舞妓と同義の存在であるが、京都の様に客をもてなすお座敷がない。芸者は普段置屋に詰めており、お客が手配したお店や茶屋にやって来て芸を披露するのだ。
彼女がやってきたこの置屋に、化けギツネを見た芸者がいる。既に旗本やじいやが手筈を整えてくれたのだろう。置屋の主人が珠雲を出迎えてくれ、意外にもすんなりと部屋に通してくれた。
やや軋む古い廊下を歩いていくと、主人があるふすまを指す。そこに、彼女が求める芸者がいるらしい。
だが、どうにもなにやら一癖も二癖もある者達だと言うのだ。
一体どんな人物かと思案する珠雲の耳に、やがてふすまの向こうから声が聞こえてきた。
「暇よねぇ~……」
「暇で暇でどうする事も出来ゃしないわよねぇ〜」
やや年老いた女2人の声。どうやら、長い間芸に生きた者達のようだ。
「昔はお客がわんさかいて、それはそれは忙しかったのにねぇ〜」
「姐さんの言う通りよねぇ〜」
随分と暇そうな様子だ。それならば、話もゆっくり聞けるだろうと、珠雲はふすまをそっと開ける。
「すみませーん、ちょっとよかですかー?」
「あらやだ! 何よ新しい娘が入ったの? 姐さん聞いてた?」
珠雲を見るなり、振り返ったどうにも顔が長く馬面な芸者が、もう1人の芸者に尋ねる。
「いやだ姐さん、あたしだって聞いてないわよぉ。まあいいわ、あんたこっちにいらっしゃい」
もう1人の煙草を手にした垂れ目の芸者が、扇子で珠雲を手招きする。
……何故かこの芸者も、あの白塗りのお殿様に顔がそっくりだった。
2人は揃って黒い着物で芸者ならではの島田髷姿だ。
「は、はぁ……」
2人に新しい芸者と間違えられ、言われるがままに煙草を手にした垂れ目の芸者の脇に正座する。
「なぁに、そこそこ可愛いじゃないの。あんた、芸者としてお客に踊りを披露出来るの?」
「え? あー……今は出来んばってん……」
キュウビと合身をすれば舞も自在であるが、今はそのキュウビを捜している最中だ。自身だけでは踊れず、つい口ごもる。
「ばってん……? まぁ〜ばってんだかハッテン場だか知らないけど、みっちり鍛えなきゃいけないわね姐さん」
馬面の芸者が呆れた様子で言う。完全に新人芸者と思い込んでいるようだ。
「そうねぇ、それとあんたそれなぁに?」
垂れ目の芸者が目ざとく珠雲の着物の袖に入れていたスマートフォン、祝福の虹を見つける。
「あ……えっと……これはスマートフォンって言って、色んなアプリとかが入っとって……えーっと……」
江戸の世界にはまず存在しないそれを、一体どうやって説明したらよいものか。困った表情を浮かべながら、説明もしどろもどろだ。
「す、すまぁ? まぁ〜やだやだ! 芸者は日本の伝統を守るのが仕事よ!? それをすまぁなんとかだとかあぷりだかあっちょんぷりけだかわけのわからない西洋にかぶれて……。あたしゃねぇ、あんたが憎くて言ってんじゃないの。芸に生きるあんたの為に言ってんの」
扇子で珠雲の頬を叩きながら言う垂れ目の芸者。
間違いなく、この置屋で若い芸者から疎まれるタイプだ。
「全く、若い芸者がこんなんじゃ」
『世も末よねぇ〜』
声を揃える老芸者達。
「あ、あの、ウチ芸者じゃなくて……」
いつも元気に漲り、引っ張っていくタイプの珠雲が圧倒されている珍しい光景の中、本題であるキュウビの件を聞こうと口を開くが……。
「あ、そうだお姐さん。あたしこの間城下町に行ったの。そしたら新しい問屋さんが出来てて、色々タダで配っていたからもらっちゃったの!」
垂れ目の芸者が新しい話題を切り出してしまって聞くに聞けない状態だ。
「あらやだ! 羨ましいわねお姐さん!」
「それでね、お姐さんにもお裾分けしようと思って!」
「まぁ〜! いいのかしら! もらっちゃって!」
馬面の芸者が手を叩いて喜ぶ。完全に2人は自分達の話題に夢中だ。
「じゃあはい、こちら」
「…………何よこれ?」
渡された物を見て固まる馬面の芸者。
「何って、爪楊枝じゃない」
「……これ、おそばのかすがついてんじゃない」
どう見ても誰かが使った後の爪楊枝を凝視する馬面の芸者に対し、垂れ目の芸者はしれっとした表情だ。
「そりゃそうよぉ、あたしが使った後だから。洗えばまだまだ使えるでしょ?」
「使えるわけないじゃない! ほんっとお姐さんケチなんだから! そう言えばケチで思い出したけどさ、お姐さん一昨日貸した3銭、あれ返して」
使用済みの爪楊枝をゴミ箱に放り込み、右手を垂れ目の芸者に差し出す。
「え? あ、あんだって?」
「ほら、一昨日一緒に湯屋に行ったじゃない? その帰りに屋台のラーメンを食べたでしょ? その時に貸した3銭、あれ返してくれない?」
ほんの小さな小銭であるが、この暇な芸者たちにとっては死活問題らしい。
「え? 何の事?」
「始まったわ! 始まりましたよ! おとぼけ大作戦!! 毎年恒例行事のおとぼけ大作戦が始まりましたよー!!」
このやりとりもいつもの事らしく、馬面の芸者がふすまの向こうに向かって大声を張り上げたりなんかしちゃている。
珠雲に至っては、完全に蚊帳の外に放り出されてあっちの彼方だ。
「何時になったらキュウビの事ば聞けるとだろか……」
「だから3銭返して」
「聴覚障害の作曲家」
「あれびっくりしたわねぇ~……ゴーストライターだなんて、幽霊が火ぃつけてたのかしら?」
「違うわよお姐さん、ゴーストライターって煙草に火をつけるライターじゃないの!」
こんなやり取りがかれこれ3時間程続き、更にキュウビの話を聞く事が出来たのは、それからまた更に2時間後の事だった……。




