第三十七の神話
亜空間。そこは、世界であって世界ではない場所。あらゆる世界、あらゆる空間が存在する事を知る世界は多くはなく、世界と世界をつなぐその隙間のような存在を知る者もほとんどいない。
稀に異世界から召喚されたり、ひょんな事から違う世界に降り立つ者もいるが、大概はその時にこの亜空間を通ってやって来る。
コウ達神と聖女も、異世界に行く際には必ずこの亜空間内に入り、目的の世界へと旅立っている。
そこには、自然という概念が存在しない。だが、何故か呼吸は可能という不思議な場所だった。
その亜空間に、箱舟の世界での事件の後、頻繁に入り浸る様な事態となっていた。
「えと……これで……もう……26件目……!」
亜空間のトンネルを走りながら、クリスが息も切れ切れに呟く。
これまで、ディストーションは頻繁に発生する事も稀にあったが、基本的にはそうホイホイと発生する現象ではなかった。
それこそしょっちゅう歪みまくっていたら、人体だって骨盤や骨が歪めば体の機能が低下するように、異世界だって機能不全を起こし、崩壊が止まらなくなる。
そもそも、何故ディストーションと呼ばれる歪みが生まれているのかも未だ神界の技術力と科学力を以てしても解析できていない事から、その『頻繁には発生しない現象』であるというのも正解ではないが。
それでも、ここ1週間もしないうちに26件ものディストーションの発生は、明らかに異常だった。
『もっしもーし! コウちゃんよー、これ、あっきらかにおっかしーからよー、なーんかちょこっとでも変なもんとかあったらよー、すっぐ連絡してくれよー』
「分かってる! ディストーション自体には何の異常もなかったんだよな!?」
ノアの方舟の通話先である幼い少女の声に、携帯を耳に傾けたまま走るコウ。
神界が誇る天才科学者も現在開発中の聖女用機動兵器の制作を中断し、ディストーション対策課に詰めている状態だった。
だが、彼女の調査の結果では、ディストーション自体には何の異変もないとの事だった。
ならば、ディストーションそのものではなく、発生に起因する何かがあるのだろうと踏んでいた。
実際、それを一刻も早く見つける必要が、今のコウ達にはあった。
この1週間、24時間ランダムでこのディストーションが発生しており、食事も睡眠もまともに取れていないのだ。
ようやく解決して眠りについても、真夜中に発生してはまた出撃し、朝方に帰って2時間も寝たらまた発生。
だからなのか、コウも聖女も目の下には浅黒いクマが象られ、走る姿もふらついていた。
コウはともかく、まだ子供である彼女達には相当の疲労が蓄積されており、このまま原因も特定出来ないでいたら、世界よりも先にクリスと珠雲の精神力がすり減って、神獣の召喚すらままならなくなってしまう。
≪全く……! 落ち着いてはんばぁがぁくらいは食べさせてほしいもんぢゃ≫
珠雲の肩に乗った狐のぬいぐるみが、ハンバーガーを食べつつ不満気に言う。
聖女達の前を走るコウもまた、イリアとの通話を切って、珠雲特製の大きなおにぎりでカロリーを手早く摂取していた。
こんな走りながらの食事も、今やすっかり慣れてしまっていた。
≪文句を言う暇はありませんよ、キュウビ。私達以外に、この事態を収拾出来る者はいないのです≫
コウの肩に乗った神獣・タイガーが振り向きざまに不満タラタラなキュウビを諌める。
≪わ、わかっておるのぢゃ! ぢゃがこんな慌ただしい食事は、もう妾は飽き飽きなのぢゃ!≫
雅で高貴な神獣故に、こんな出勤前のサラリーマンの立ち食いそばのような状況は、どうにも馴染めないし我慢がならないのだろう。
しかも、それをタイガーに言われてしまったとあっては、恥ずかしさと反発心から、つい食べかけのハンバーガーを投げつけてしまう。
≪うぷっ! た、食べ物を粗末に扱うなんて、貴女は何を考えているんですか!?≫
ハンバーガーをぶつけられ、自慢の白い体毛がケチャップソースの赤に染められてしまい、声を荒げてしまう。
この度重なる戦闘とロクに休めない状況に、コウ達はおろか、神獣達にもピリピリとした空気が伝染していた。
それは、普段は温厚が毛皮を着て歩いているようなタイガーも、例外ではない。
≪うるさいうるさい! お、乙女の気持ちも知らぬ鈍感ネコめ! 妾はとにかく、もう嫌なのぢゃ!≫
キュウビもこの長らく続く状況で抱え込んだものがあったのだろう。
脳内に荒げる声を響かせながら、9つの尻尾を大きく振っては、珠雲の肩から飛び跳ね、タイガーに飛びついてしまう。
「どわぁっ!! た、珠雲! どうにかしてくれ!!」
具現化している事によって物質的な重量を獲得している神獣が、急に肩に飛び移られて2体に増えた事により、大きくバランスを崩してこけてしまいそうになるコウ。
それでなくても、痴話ゲンカを脳内でギャーギャー騒がれてイライラが更に募っているのだ。
コウの声も、いつもの余裕と軽い雰囲気のあるそれではなかった。
「あぁ、ご、ごめんコウ兄! ほら、キュウビいい加減にせんね!」
コウの肩にへばりつくキュウビを両手で掴んで引き離そうとする珠雲。
だが、キュウビは爪を立ててコウのジャケットにしがみついたまま、一向に離れようとする気配はない。
≪大体お主は妾の気持ちなんぞなんにも分かっておらんのぢゃ! このたわけ! たわけ!≫
≪い、いたた! ひっかくのはやめてください! 私達は世界を守る為に戦っているんです! 遊びでやっているんじゃないんですよ!?≫
珠雲が引っぺがそうとする最中にも行われる2体の喧嘩に、クリスとローズは顔を見合わせて大きく溜息と光合成が出る。
「も~……! は・な・れ・な・っ・せ~~~~~~~~っ!! あっ……!!」
渾身の力を込めて、珠雲が九尾のぬいぐるみを無理矢理コウの肩から引き剥がそうとする……が!
≪コン? コォォォォォォォォォォォォン!!?≫
勢い余って引き剥がしたと同時に珠雲の手から零れ落ちたキュウビが、亜空間の彼方へと飛んで行ってしまったのだ!
この世界と世界の狭間たるそこでこのような事態となれば、一体どこのどんな世界に飛ばされるのか、もう完全に分からなくなってしまう。
最悪、このままキュウビとは永遠の別れとなってしまう可能性だってある!
「キュ、キュウビ!! キュウビィィィィィィィィィィィッ!!」
「何やってんだよ!? た、珠雲! すぐにキュウビを追え!」
亜空間の彼方へと飛んで行く相棒を、今にも泣きそうな目で追いかける珠雲に、コウは制止することなくすぐに後を追うように指示する。
「えと……こっちは……私達で……なんとかするから……!」
クリスもまた、同様の事を言う。
もしここで珠雲が神獣の力を失えば、それだけでもう神界にいる事も出来なくなる。
それだけは、絶対に避けなければならない。
「祝福の虹の位置情報サービスは常に展開しておけ! 俺達もディストーションを回収したらすぐに行くじぇ! いいか! 危険な世界とかだったら一度撤退する事も考えろよ!?」
「う、うん!」
「急げ! キュウビを見失ったらお終いだじぇ!!」
コウに急かされ、珠雲が走り出すが、既に亜空間の中の粒の様に小さくなっていくキュウビの姿。
もしも戦争中の世界や危険の能力が飛び交う世界なら、今の珠雲では対処のしようがない。
だが、どの異世界かさえ分かっていれば、今生の別れにはならずに済む。
こうして、新たなトラブルの幕開けが、慌ただしく始まるのだった……。
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失われていた意識が戻り、まず最初に感じたのは匂いだった。
生い茂る草の香り、そしてせせらぐ小川の匂い。耳にはちょろちょろと水が自然の営みに順じて流れる音。
ぽかぽかと心地の良い太陽の光は毛皮を暖めて、自分の体毛なのにまるで最高級の羽毛布団をかけているかのような錯覚すら覚える。
秋の訪れを知らせる鈴虫が、黒い自分の鼻の上でリーンリーンと独唱に勤しんでいるところで、意識がはっきりとして起き上がる。
鼻の頭にいた鈴虫は、その拍子にどこかへ飛んだようだ。
≪ここは……どこぢゃ……?≫
どうやらどこかの異世界に紛れ込んだらしいのはすぐに理解出来た。だが、それがどんな異世界なのかはまだ分からない。
周囲を見渡すと、そこは現代的な人工物は存在しない、文明的にもかなり遅れた世界である事が分かった。
道は出来ているが、それは人々が何度も足を運ぶ事によって出来た土の道であり、キュウビがいるその草原は、どうやら川のすぐそばにある河川敷に位置する場所だった。
そして、ここがどのような世界なのか、それは木で作られた川を結ぶ橋の上を通る人々の姿が、何よりの答えを示していた。
長い布を体に巻き付ける様に着て、太い布で腰から縛る服装。
靴下の様な靴や、藁で作られた履物。そして、なにより男は頭頂部を剃って、まるで巻き寿司の様に丸めた髪を、その剃った頭頂部に乗せ、女はその巻き寿司の髪だけでなく、左右にも大きく広がった独特過ぎる髪型。
そう、ここは現代的な世界から200年程の昔の日本という世界。通称、『江戸時代末期』と呼ばれる世界だったのだ。
≪……とりあえずは、危険な世界ではないようぢゃ……。それに、妾がこうして具現化、それも神獣形態でおるとなれば……珠雲もこの世界に妾を追って来とるのぢゃな……≫
改めて、草むらに隠れた自分の姿を確認するキュウビ。
先程のまでのぬいぐるみの様な小型の状態から、何故か神獣の姿を取って、その場に存在している。
となれば、早いところ珠雲を見つけて合流をしたいところだ。
何せ、この時代は妖等の伝承を本気で信じている人間が多数存在している。
今の普通の狐よりも体躯が大きく、何より9つも尻尾がある自身を見たら、どんな大騒ぎになるか分かったものではない。
そう思考を完結すると、草むらにかくれたまま、そろりそろりと街道の向こうの林の中へ、とりあえずは姿を隠そうと移動を開始する。
くんくん、くんくん。
緑のカーテンに遮られた視界の先に、川の水に入れられた何かを嗅ぐ、自分と同じ存在……一匹の狐に気付いたキュウビ。
まだ身体は成体のそれと比べて小柄で、幼い顔つきである事から子狐なのだろうと想像出来る。
人間から見たらどれも同じ顔に見えるのだろうが、彼女にはとてもいたずらが好きそうな、やんちゃ坊主の顔つきに見て取れた。
この子はもしや今から何かをしでかすのではないかと感じていた矢先、捕えた魚を入れるそれ、この時代では『びく』と呼ばれる竹を編んで作られた籠に前足を入れては、川の向こうで魚を追い込んで捕える網、『はりきり網』で漁をしている男がせっかく捕えたキスやウナギを川の向こうに逃がし始めたのだった。
≪なんといういたずら小僧ぢゃ……漁をしとる男も災難ぢゃの≫
そんな光景を尻目に、息を殺して前足、後ろ足をそろそろと動かして目的の林へと前進するキュウビだったが……。
「うわあっ!! ぬすっと狐め!!」
漁をしていた男がいたずら子狐に気付いて声を荒げ始める。
大きなウナギを逃がそうとしていたが、前足では捕まえられなかったのだろう。びくの中に頭を突っ込んでいた子狐がびくから頭を出した時、頭から身体にかけて随分と太いウナギが絡みついていた。
とっさに逃げようとする子狐だが、絡みついたウナギもまた必死の抵抗で子狐の首元をドンドン締め付けており、呼吸もままならずに子狐はその場に倒れ込んでしまう。
このままでは、いたずら子狐は男に捕えられて最悪の場合殺されてしまうかもしれない。
それは自業自得だ。いたずらをしたのは子狐の方なのだから。
≪…………えぇい、見ておれんわ!≫
ざぶざぶと音を立てて川からやって来る男と、ウナギと必死に格闘する子狐の距離が、徐々に縮まっていく。
神獣とはいえ、自身もまた狐の化身だ。ならば、同族と言ってもいい。
これは自分の気紛れだと言い聞かせながら、隠していた巨大な姿を草むらから現す。
「ひぃっ!! ば、化け狐だぁっ!!」
突然現れた、大きな狐の姿に思わず腰を抜かして川に尻もちをつく漁の男。
そんな男を尻目に、ウナギが絡まったままの子狐を口でくわえて、一気に川とは正反対の林の向こうへと駆けて消えるキュウビ。
橋の上の人間も、川沿いを歩く人間も、皆一様にキュウビの姿に驚きの声を挙げたり、お経を挙げたり、お侍に至っては刀を抜いている者までいたが、下賤な者には興味がない、やんごとなき狐の神獣は、全く意に返さず、ひたすらに林の中を走り抜いて、人里から離れていくのだった。
≪やれやれ、難儀な事をしてしもうたのぅ……≫
そんな事を、独り呟く。その口元には、ウナギによって気を失ったままの子狐が、ぐったりとしていたのだった……。
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【うぅん……】
≪……ようやく気が付いたかぇ?≫
生い茂る林と岩肌の洞窟の中。秋の気候からか、冷たい風が吹いて肌寒い気温であるが、自前の毛皮があるからか、1匹と1体はそんなに寒さは感じない。
そこに腹這いになって、子狐が目覚めるまで看ていたのだ。
ぴちょん、ぴちょん、と鍾乳石からは雫が滴り、硬く隆起した岩の床に寝そべる子狐が意識を取り戻して起き上がる。
傍らには、キュウビが頭を噛み砕いたウナギが、ぐったりと横たわっていた。
《腹を空かせておったのぢゃろう? ほれ、ウナギはそこぢゃ》
神獣は、同じ動物との会話も可能である。
この子狐とも、キュウビは脳に直接声を響かせながら、鼻頭でそのウナギを指す。
【な、何モンだよでっかいおばさん】
《誰がおばさんぢゃ! 妾はまだまだうら若き乙女ぢゃ!》
警戒する様にウナギを咥えると、腹から骨ごと噛み砕きながら食べ始める子狐。
本来の大人の狐よりも2周りも3周りも大きなキュウビに、恐怖心が働いているのだろう。
《……まあよい、妾はキュウビ、雅な神の眷属、神獣ぢゃ》
【しんじぅ? なんだよそれ……まあいいや、おばさんがオイラを兵十から助けてくれたのかい?】
ウナギの腹を食べ終わり、残った尻尾を咀嚼しながら口の中に放り込んでいく。
《あのまま放っておくのは偲びないのでの。感謝するがよいぞぇ》
【ふーん、オイラはごん。人間はみんなオイラを『いたずらごんぎつね』って呼んでんだ】
ウナギを平らげ、舌で毛づくろいをする子狐……ごん。
《ふむ、ならば先程の魚を逃がしよったのもいたずらかぇ……》
【そうさ、2、3日雨ばっかりだったからさ、やっと晴れて外に出たら、兵十のやつが魚なんか捕ってからね。ちょっといたずらしたくなったのさ】
全く悪びれる様子もない子狐に、キュウビは少しムッとした様に目を細める。
《……妾も人の事は言えんがの……いつか痛いしっぺ返しがくるぞぇ? この事を知れば、親狐も嘆くのではないか?》
【いーんだよ、オイラ、母ちゃんも父ちゃんも人間に狩られっちまったから、ひとりぼっちなんだ。おばさんもひとりぼっちなんだろ?】
『ひとりぼっち』と言う言葉が、酷く胸に突き刺さる。
この世界のどこかに珠雲がいるのだろうが、今現在は確かに自分以外に仲間は誰もいない。
その事を嫌と言う程、再認識させられてしまった。
《むぅ……確かに今は、妾もひとりぼっちぢゃの……》
急に心細くなったのか、弱々しい口調となってしまう。……早く相棒に会いたい……。そんな気持ちが芽生えてしまっていた。
【えいっ!】
俯くキュウビの尻尾に砕かれたウナギの骨のかけらを放り投げる。
ふさふさで自慢の尻尾から臭う生臭いそれに、寂しがる暇を失って、慌てて取ろうと身をよじる。
《な、何をするんぢゃ!?》
身をよじればよじる程、尻尾が離れてしまう。それを追いかけて更に身をよじっては……気がついたら、自分の尻尾を追いかけて、大きな身体でその場を何回も回っていた。
【ふふん、おばさん面白いなー】
ようやくの思いで尻尾から骨を咥えて抜き取るキュウビに、いたずら小僧は笑っていた。
珠雲を探す前に、このいたずら子狐をどうにかせねばなるまいと、キュウビの中でふつふつと沸き立つ。
《決めた……その性根、妾が叩き直してやるわ! そこになおるがいいのぢゃ!》
【おばさんが怒ったぞー!】
彼女の怒りもまるで鬼ごっこのように感じているのか、キュウビから逃げる様に洞窟から逃げ出してしまうごん。
かくして、奇妙な凸凹キツネのコンビが、この江戸の世界に誕生したのであった……。
はい、と言う訳で新章開幕です。
もうお気付きの方も多いと思いますが、今回は『ごんぎつね』の世界にございます。
果たしてごんとキュウビの運命やいかに!
引用:新美南吉『ごんぎつね』




