第三十五の神話
「そんな……私達が……兄妹……」
降りしきる雨が、容赦無く2人の体温を奪う。
浅黒く固まった衣服の紅は、雨が洗い流す事はなく、ただただマリィは立ち尽くすのみだった。
兄妹。その言葉が、彼女の中で何度もこだまする。
愛した男性が、血の繋がった実の兄と知ったショックは大きく、それが何故なのか、彼女の理解を遥かに超えていた。
「君は……マリィは……僕の妹だったんだ……。『ソロル』を受け継いだ君が、姫であってはならない……。そう、判断した父上が産まれたばかりの君を殺そうとしたけど……ある日突然君は姿を消し……そして、騎士としてこの国に帰って来た……。
だから……妹と知ったから……もう、君を1人の女性として愛せない……愛せないんだ……!」
両の拳を握り締め、項垂れながら、大粒の涙を雨と共に流しながら……ヴォレイが嗚咽を交えて吐き出す。
「そんな……もう……私達はあの頃の様に……幸せな(楽園の)時間を過ごせない……のか……?」
瞳孔が開き、心臓が鷲掴みにされたかの様に早鐘を打つ。
もう、あの時の様な愛を育む事も、通じ合う事も出来ない。
その事実が、彼女の中の幸せだった時間を壊していく。
「ごめんよ……マリィ……僕の妹……。だから……『ソロル』が覚醒する前に……せめて……僕の手で……!」
この決断を下すまで、幾度となく悩んだ。苦しんだ。眠れない夜もあった。
だが、自分は王子だ。この国の行く末を見守る義務がある。
だからこそ、愛した女性を……妹を、誰の手でもない、自分自身で決着をつけなければならない。
辛い、悲しい決断と共に、決意の魔法陣が、彼を中心に展開される。
「さようなら……マリィ……希望の箱舟……! フラーテル……!」
魔法陣から、光り輝く箱舟が姿を現す。
悪夢から楽園へと誘う箱舟(ARK)が天へと舞い上がる。
そして、降りしきる雨の虚空に広がる円。トンネルの様なその円の先に広がるは、七色に輝く幾何学的な文字の羅列……亜空間。
フラーテルとは、魔法陣から生み出した光の箱舟で、亜空間へと連れ去る魔法だったのだ。
「いやだ……! ヴォレイ……帰ろう……私達の幸せ(楽園)の時に……!」
箱舟がマリィを誘うより早く、走り出す。
右手に持つナイフを突き出して。最愛の人を……兄に目掛けて。
希望の箱舟が、絶望へと誘う前に……愛する気持ちと共に、殺意を彼の肉体に……刻み込んでいく……!
ずぶり……!
彼女の殺意が、肉に埋め込まれていく音が、雨の中に消えていく……。
「ぁ……かはっ……! マ……リィ……!」
「帰りましょう……ヴォレイ……いや、『お兄様』……私達の……楽園に……」
硬直した筋肉が、やがて生命の息吹を失うと共に、マリィの身体へともたれかかる。
血飛沫が、彼の一部が彼女の身に降り注ぐ。
――そして……ARK(箱舟)は
――――DEATH(死)の一文字によって
――――――――――DARK(闇)へと染められた。
★★★★★
時は少し遡り……。昼も過ぎた時刻。
降りしきる雨を凌ぐべく、運良くエリジウム北の国境を超えたすぐ先に持ち主を失った木造の小屋を見つけたコウ達3人。
以前は農業を営む人が住んでいたのだろう、家具家財もそのままに、庭にも農具が放置されていた。
薪ストーブに木で作られたテーブルと椅子。
部屋は台所もリビングもひっくるめて1つの部屋しかなく、ベッドも簡素な木造のそれに、薄いシーツだけだ。
この世界の庶民の一般的な家の作りとなっており、後は戸棚とタンスが隣同士に並んでいる。
こちらはディス・モンスターも少なく、討伐後は再出現も見受けられない。
しばらくはここを拠点に活動する事になるだろう。
最初は勝手に小屋を使う事に罪悪感を感じていた聖女達だったが、庭の先に広がる畑に、ディス・モンスターにやられたのだろう、白骨化した遺体を見つけた事により、埋葬して借り受ける事を簡素な墓に眠る家主に報告し、こうして薪ストーブを使ってお湯を沸かしていた。
「ばってん良かったとね……騎士団ば抜け出して……」
沸いた湯を使ってお茶を淹れながら、珠雲が尋ねる。
「えと……やっぱり……マリィさんと戦った方が……」
珠雲に同意しているのは、クリスだ。
「いや、あれ以上深入りはダメだ。俺達はあくまで異世界の人間……。だから、この世界に深く関わり過ぎたら、戻る事が出来なくなる」
コウが言う事も、最もだった。異世界に訪れて、その世界に住む住人と関わりが深くなれば、それだけしがらみも増えてくる。
新たに構築した友人等の人間関係や、職を持てば仕事仲間だって増える。
単純に別れが惜しくなると言うのもあるが、社会において、組み込まれた歯車の1つとなったら色々と後始末が大変となる。
だが、目下コウが言いたいのはそれだけではない。
『神獣』と言うこの世界には存在しない力を持った彼等を求めて、新たな争いの火種や、この力を頼って世界の均衡を破る事にもなりかねない。
あの舞踏会の夜だけでも、コウ達を求めて貴族が暗躍し、多額の金も動いていたのだ。
だからこそ、コウは騎士団を抜ける潮時と判断したのだ。
「それは……分かるばってん…」
「ま、情報は色々と集まった……が、肝心のディストーション本体が分からないままってのがな……」
珠雲が淹れたお茶を啜り、頬杖をつくコウ。
神界からの連絡も待ってはいるが、今現在新たな情報はない。
コンコン。
ドアをノックする音が部屋の中に響く。
途端、身構えるコウ達。
この国境を越えた危険地帯に足を踏み入れる酔狂な人物は、そういない。
しかも、コウ達はこの小屋を拠点にしたのはつい先程。
誰も知らないはずであるが……。
「私だ。ジーグ・マンだ」
何と、ノックの主は意外な人物だった。
コウがクリスに目配せをすると、それに彼女が頷いて、恐る恐るドアへと近づく。
まだ本当にジーグ・マン大臣だと言う確証はない。
ひょっとしたら偽物のディス・モンスターで、ドアを開けたと同時に頭からバクリなんてのも考えられる。
故に、いつでも合身出来る様に媒体の指輪を胸元に添えながらドアを開けると……。
「やはりこの小屋にいたか……。お前達に頼みがあって来た」
降り注ぐ雨も気にする事なく、馬を走らせて来たのだろう。
衣服も髪も、ずぶ濡れのジーグ大臣が、そこにいた。
「……珠雲、なんか拭くものと暖かいお茶を出してくれ」
ノアの方舟は、雨に濡れた中年男性に何の反応も示さない。
彼が本物の証だ。しかも、使いではなく自ら危険を犯してまでコウ達に会いにここまで来たのだ。
無下にするわけにはいかないと判断したコウは、ジーグ大臣を招き入れる。
「痛み入る。……コウ・ザ・ストーンズ……我が頼みを聞いて欲しい」
簡素な木製の椅子に腰掛け、珠雲が差し出した手拭いで頭を乱暴に拭き、改めてコウへと向き直る。
「……魔法かなんかで俺達の居場所を探し当ててまで来たんだろ? 話くらいは聞くじぇ?」
コウの言葉に小さく頷くと、ジーグ大臣は悲痛な表情で訴え始める。
「……頼みは他でもない……。マリィを……姫を助けて欲しい……! 遂に王は姫を直接手にかけると御決断なされた……! 頼む……! マリィ様を救ってくれ……!」
「ちょっちょっ! 待ちなっせ! マリィ『姫』ってどぎゃんこつね!? それにおっちゃんはマリィ姉が嫌いじゃなかったとね!?」
まるで事情が飲み込めていない珠雲が、話の中に割って入る。
クリスも分からずに、ポカンとした表情だ。
「……マリィは……姫様は……正真正銘、エリジウムの王家の娘……そして、ヴォレイ殿下の妹君であらせられる……。だが、姫様は……あの最悪の闇魔法『ソロル』を、産まれながらに発現していたのだ……」
ジーグ大臣から語られる、エリジウムの真実。
それは、18年前にまで遡った……。
★★★★★
〜18年前〜
王家の寝所に、赤ん坊の産声が、命の誕生を示す歌がこだまする。
元気だった。この上なく元気な産声だった。
この世に生を受け、初めての呼吸が、初めての言葉が、初めての歌が、初めての世界が、赤ん坊から放たれる。
「陛下! おめでとうございまする! 元気な姫君が御生誕なされましたぞ!」
この春に大臣へと昇進したばかりの若き政務者が、産婆からの報告を持って王の間に飛び込む。
王の間の玉座に座り、ひとつ頷く王の膝の上には、まだ2歳になったばかりの、幼き第一王位継承者の姿もあった。
妹の誕生をまだよく分かっていないのか、手に持った木製の馬の玩具で遊んでいた。
「なれば早速我が娘に会いに行こう。ジーグよ、ついて参れ」
「ははっ」
膝の上で遊ぶ我が子を乳母へと託し、立ち上がる王。
彼は、王として優秀な人物だった。若くして王位を継承し、その後も数々の功績を残してきた。
魔法兵団を確立し、他国への牽制と共にその大きな力を背景に数々の貿易を成功させ、新興王国であるにも関わらず、この世界でも有数の大国へと成長させていった。
今では技術大国イベリアムにも負けない程の発展をみせているのが、彼の功績のすごさを物語っている。
だが、そんな優秀な王たる彼もまた、1人の親だった。
威厳と風格を身に着けたままだが、どことなくいつもとは違う柔和な雰囲気を、若き政務者は感じていた。
「してジーグよ、妻の容態はどうだ?」
「はっ、恐れ多くも、奥方様は出産前にかなりの衰弱がございましたが、今は母子共に健康にございます」
共に長い廊下を渡り、訪れたのは王と王妃の寝所前。この先に、世に生を受けたばかりの第二王位継承者がいる。
ニスが塗られて光沢を見せる木製のドア、その銀のドアノブに手をかけて、初めて我が子との感動的な対面……と、なるはずだった。
「な、なんだこれは……!?」
王の声は、我が子にかけるそれでも、辛い痛みを伴う王妃へのねぎらいのそれでもなかった。
眼前の光景への、ただ驚きと恐怖の入り混じったそれだった。
赤い絨毯が敷き詰められ、大きな天蓋のベッドと豪奢なタンスが並ぶそこには、横たわる産婆と医師、そして女中達の姿。
皆、一様に目を見開いて口をパクパクと動かすだけで、声を発する事はおろか、身動き一つ取る事も出来ないでいた……!
「陛下……! お、奥方様が……!」
ジーグ大臣の震える声に振り向く王。出産により体力を激しく消耗した王妃に至っては、既に事切れているのか、泣き声を上げる赤ん坊を抱きしめたまま、恐怖に顔を歪めて硬直してしまっていた!
そして、泣き喚く赤ん坊の周囲に渦巻く闇色の魔力……。
それがまるで無数の手の様に伸びて、横たわる産婆達や王妃に絡みついて、魔力を、生命力を根刮ぎ奪い取っていた……!
「ま、まさか……これは……!」
ジーグ大臣の脳裏に、ある言葉が浮かぶ。
「……最悪の闇魔法……『ソロル』……これを……我が娘がやったと言うのか……!」
この世界で伝説として語り継がれる闇の魔法、『ソロル』
相手の魔力と生命力を奪い、五感を奪うと言われる最強にして最悪の魔法。
人間は外部の情報を視覚と聴覚、触覚にて得る。
そして嗅覚によって刺激を受け、味覚によって味を得る。
その全てが失われる事によって訪れるのは、真なる闇と孤独。
他者と触れている事も、そこに誰がいるかも分からない。それがどれほどの恐怖を生み出すのか、想像に難くない。
その闇魔法を産まれながらに得ているのが、姫となるべき赤ん坊だったのだ……!
「我が妻よ……」
伴侶の亡骸にそっと目を伏せ、王は決断する。
「ジーグよ、この子を殺せ」
「へ、陛下!?」
王の新たな命令に、ジーグが驚愕の声を上げる。
「我が王家に最悪の闇魔法が誕生したとなれば、民が恐怖し反乱が起きかねん。この子は産まれてはならんかったのだ。
よいな、子供は死産、妻は出産により衰弱死とせよ」
そう言い残して踵を返し、寝所を後にする王。
残されたジーグは、母の乳を求めてもがき泣く赤ん坊を見つめる。
産まれてはならない命など、あるはずがない。
今だって生きようともがいているではないか。生きる権利は、この娘にもある。
ならば、殺した事にして何処か遠い場所で育てよう。
ジーグの中で、新たな命の未来を護る決心が生まれる。
「……闇魔法……。どこまで封じる事が出来るか分からぬが……姫……貴女は私が生涯お護り致します……! 封印魔法……究極……!」
対象の魔力を封じ、魔法を使用出来なくする封印魔法を発現するジーグ。
エリジウムの中でも希代の魔法使いでもある彼の、陰日向の戦いが今この瞬間から始まったのだった……。
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「……そして、私の遠縁に当たるアーラン子爵の養子として、姫は迎えられた……。だが、私にも誤算だった……。姫が騎士としての高い才能をお持ちで、騎士団に入るとは……」
自虐的な笑みを浮かべるジーグ大臣。
頬や目元に刻まれた皺が、彼の長く密かな戦いの歴史を物語っていた。
「……だからマリィに騎士団を辞めさせて、戦いから遠ざけたかったのか……」
コウの言葉に小さく「うむ」と頷く。
彼の話に、色々な点が線となっていく。
失脚によって彼女に生きて欲しいと願う大臣。
勲章を与えて更なる死地へと追いやり、密かに暗殺を目論む王。
彼等の裏の真意を知り、暫しの沈黙が辺りを包む。
「……えと……それじゃ……王子様と……」
「そうだ……。殿下もマリィの元へ恐らく向かっている……。頼む……! 兄妹で殺し合いなぞさせないで……ぬぐぅっ!」
突如苦しみ出して、椅子から転げ落ちるジーグ大臣。
口をぱくぱくと何度も開き、右腕を天に向けるが、まるで何も見えない、感じていないのか、テーブルの脚に強くぶつけても、全く分かっていないようだった。
「こりゃ……まさか……!」
「えと……さっきの話にあった……!」
「『ソロル』……! は、発動したとじゃなか!?」
やがて瞳から光が失われて、力なく右腕が落ちる大臣の症状。先程の話にかなり酷似していると気付いた珠雲に、コウが頷く。
「とにかく急ぐじぇ! ……あぁもう! なんだよこんな時に!」
魔力を持たない故に『ソロル』の脅威に晒される事がない3人だが、この状況は予断を許さない。
だが、タイミング悪く、ノアの方舟がバイブで持ち主を呼び出していた。
「はいよ! ……ヴァルハラか、今急いでるからお土産話は後に……」
『馬鹿言ってんじゃないわよ。……ディストーションの中心点、分かったわよ』
通話口の向こうから聞こえるヴァルハラの言葉に、コウがピタリと止まる。
「……ったく、デートと世界の危機は、出来ればダブルブッキングしたくないってのに……。どこだ!?」
『安心しなさい、ダブルブッキングにはならないから。あんた達が向かおうとしている場所……そちらの世界で闇を生み出す魔法使いが中心点よ。正確には、魔法使いが中心点をも取り込んだ……が、正しいけど』
つまり、マリィを止めればディストーションも回収出来る。
都合は確かにいいが、それは同時にマリィが世界を包む程の強大なディストーションの力を得たと言う事だ。
「……そりゃ御都合主義に感謝だな、涙が出そうだじぇ」
『急ぎなさい。既にその国の住民全員が、魔力を根こそぎ奪われ始めているわ。保って2時間、その前に倒さないと、世界が滅ぶから』
「分かった。すぐに行く」
そう言って、ノアの方舟の通話を切るコウ。
「急ぐじぇ、おま〜ら。タイムリミットは2時間。それまでにマリィを止めなきゃ、この世界はおしまいだじぇ」
ジーグ大臣をようやくベッドに運んだ少女達が頷き、小屋を飛び出してコウと共に走り出す。
『神獣合身っ!!』
世界滅亡までのカウントダウンが始まる中、神と聖女が獣の力をその身に纏う。
最期の戦いへ、悲しき宿命の少女を止める為、彼等は闇に包まれた世界を駆けて行った。
★★★★★
降りしきる雨の中、1人佇むマリィを発見したのは、それからしばらくだった。
傍に転がるのは兄だった亡骸。
「マリィ姉……!」
狐の巫女が立ち止まる。
マリィは、紅に染まっていた。衣服だけではない、珠雲が立ち止まった最大の理由。
それは、彼女の口周りにまで染まった紅と、亡骸の周りに飛び散った肉片。そして、明らかに何者かに喰らわれた痕……。そして、発現した闇の魔法によって包まれた、禍々しい漆黒の魔力……。
「……お前達か……邪魔をしないでくれ……今、お兄様と幸せな時間を過ごしているんだ……。お兄様とひとつになれて……幸せなんだ……」
紅に塗れた口元が、まるで彼女の精神のように歪んだ笑みを浮かべる。
「……喰ったのか……おま〜……」
歪んだ愛。歪んだ関係。全てが彼女を壊していった。
炎を司る竜の騎士へと合身したコウに向かい、ゆらりと歩み始めるマリィ。
「お兄様と楽園へ行くんだ……私は……だから……止めるなら……お前達でも殺す……!」
魔力が狂った様に暴れ出す。異世界の歪みすら取り込んだ強大なそれが宿主たる少女を漆黒の闇の中へと誘い、人々や馬車が幾度となく往来して禿げ上がって出来た道を、周囲の草花や木々を、何もかもを闇色に染め上げていく。
「えと……なに……これ……!?」
「こぎゃん禍々しかと……ウチ、初めてたい……!」
背筋に悪寒が走る。自分の中にある何かが鷲掴みにされたような感覚すら覚える。
彼女達は知っていた。それが、『恐怖』であると。これまで、何度も感じた感覚。
だが、眼前の闇から這い出た存在は、これまでに感じたどの恐怖よりも恐ろしく、絶望と言う底なし沼へと引きずり込んでいくようなものだった。
「……こりゃ……ちょいと本気出さないとマズいじぇ……」
百戦錬磨の神であるコウですら、頬に冷汗が滴り落ちる。
それほどに、ディストーションと闇の魔法によって変化したマリィは、おぞましい存在だった。
女性の彫像のような、巨大な身体。胸の部分に、本体たるマリィが上半身のみ露出して存在しており、マリィに瓜二つの彫像体の顔。その瞳からは、彼女の哀しみを表すかのように、絶えず黒い涙が流れ続けていた。
背には楽園目指して飛び立つも、兄妹の禁忌を犯し、背徳に苛まれた兄をその身に喰らった罪によって漆黒に落ちた5対10枚の爬虫類の如き皮膚によってつくられた翼。
下半身は黒い霧に包まれており、肉眼では確認が出来ない。恐らく実体化がされておらず、下半身が存在していないのだろう。
そして、周囲に無数に浮かぶ小さな黒い球体は、まるでそれぞれが独立した生命体の様に忙しなく降り注ぐ雨の虚空を舞っていた。
これこそが、騎士団という箱庭を騙る死の檻の中で生き、禁断の愛が哀へと歪み、驕れる無能な世界を破壊する終焉への破壊神『マリィ・ソロル』だ。
アアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァッ!!
彼女が高らかに謳う。破壊の讃美歌を。楽園へと想いを馳せて。
途端、彼女の周囲を浮かぶ黒い球体からギョロリと無数の眼が開かれ、一斉にレーザーの様な超圧縮光熱線が放たれる!
≪マジかよ!? いきなり大技ブッ放しやがった!!≫
コウの胸元の火竜が騒ぎ立てる。
「えと……! 珠雲ちゃん……!」
「今やりよる!! 夢心地!!」
珠雲が舞い、鉄扇を振り下ろすと同時に生み出されるクリスの分身体。
『えと……! お願い……! ローゼス・ホーゲン……!!』
4人に増えたクリスによる、重厚な茨の壁が形成されるが、熱や炎に弱い薔薇のそれでは、焼け石に水も同然だった。
熱により発火し、燃やされ、壁を失った聖女達が無数の熱線に貫かれる!
「ああぁぁぁっ!」
「うわあぁぁぁぁぁっ!!」
獣の力によって強化された防御力も、まるで紙同然に焼き貫かれ、無残にも崩れる。
コウもまた、炎や熱に耐性があるドラゴンメイルで護られていたが、あちこちが溶解し、手酷いダメージを受けていた。
「ぐっ! クリス! 珠雲!」
《んにゃろう……! マスター! 反撃だ!》
彼女達が心配ではあるが、あまりにも強いマリィ・ソロルの前では余裕がない。
すぐさまハルバードを翻し、自らが炎を纏った突撃を仕掛ける!
「だりゃあああぁぁぁぁぁぁぁっ!! フレア! ドラゴンッ!!」
吶喊するコウを包む炎が翼をはためかせる竜を象り、闇を司る破壊神へと飛来する。
だが、マリィ・ソロルは身動き一つする事なく、自らを下半身の闇色の霧で覆っていく。
《な……っ!? て、手応えがねぇ!?》
霧の中を突き抜けた竜の騎士から響く、驚愕の声。
どうやらあの霧によって物体としての質量を失い、攻撃を無効化するようだった。
霧が下半身に再び集約し、現れた彫像の身体。
既に左腕は振り上げられており、背面を剥き出しのままのコウへと振り下ろしの一撃をお見舞いする!
「ぐぁっ!!」
叫びすら許さぬ強力なそれに、地面に叩きつけられるコウ。
衝撃で地面が抉れ、クレーター状となったそこに、翼をへし折られた竜の騎士が横たわる。
《ドラゴン! 代わりなさい!》
ノアの方舟から聞こえるは、青き核を持つ白虎。
《くそったれぇ……! 頼むぜ……!》
ハルバードを杖代わりにしてなんとか立ち上がるコウもまた、それに頷いて呼応する。
「神獣……合身……!」
ワン・オブ・ミリオンだからこそ可能な神獣の交代によって、竜の騎士から虎のサムライへと姿を変えるコウ。
しかし、神獣の鎧がそれによってダメージを0にリセットしたところで、コウ自身のダメージはそのままだ。
ふらつく足下を踏みしめて気合いを入れ直したところで、ダメージが消える事は無い。
コウの足下には、合身が解けて翼にノイズが走るドラゴンが、ぬいぐるみの姿で痛々しく転がっていた。
「乱れ桜……! いけっ!」
背面に広がる刃の翼が虚空に射出、展開する。
闇色の空を煌めく刀達が舞い、氷雪を纏って巨大な氷柱へと変化する!
「氷華乱刃っ!!」
氷柱の刃が虚空から次々とマリィ・ソロルへと襲いかかる。
12本、全ての乱れ桜がマリィ・ソロルの全身を貫かんとするが、黒い眼球による熱線に阻まれ、霧によって実体を霧散されて全く攻撃が通用しない……!
《そんな……! これでは、攻撃が全く通用しないでは……ぬあぁぁぁぁぁぁっ!!》
背後の死角から貫かれる熱線を左肩に受け、その場に崩れるコウとタイガー。
拍子に合身が解け、ぬいぐるみ形態となったタイガーの左前足に、ノイズが走る。
「ぐ……っ! まだだ……! ホーク……!」
《マスター……! 分かりましたわ!》
ノアの方舟から次に飛び出すは、大空の女王、ホーク。
熱線が倒れたコウに襲いかかる直前に背中を掴んで空へと退避する……!
「神獣合身……! 疾風怒濤……! 刹那……!」
上空から重力による加速を得ての超高速斬撃。
すかさず放ったそれに、黒い眼球を幾つも斬って捨てるが、所詮はオプションパーツの一部にダメージを与えたのみだ。
マリィ・ソロルの霧状の下半身から新たに産まれた眼球がすぐさま補充され、集まったそれが縦横無尽に、一斉に空を駆けるコウへと降り注ぐ!
《こ、こんなのかわしきれませんわ……! ああぁぁぁぁっ!!》
無数の一撃に次々と晒され、地に落ちる空の女王。
ドゴォォォォォンッ!! と大きな音と土煙を上げ、一瞬コウの姿が砂と土と埃の中へと消えていく。
「……大地……熊爪斬っ!!」
土煙の中から爪の形をした衝撃波が生み出され、闇夜の魔女へと疾しる。
姿を消した一瞬の隙に、身に纏う神獣が鷹から大地を司る熊へと変わり、反撃の手を緩めない。
マリィ・ソロルから生まれた漆黒のカーテンは、徐々に世界を飲み込もうとしていた。
タイムリミットも迫っている。だから、絶対に負けるわけにも、諦めるわけにも、マリィにこれ以上罪を重ねさせるわけにもいかない。
あちこちにノイズが走る羽が散らばって倒れた鷹のぬいぐるみがいるその場から、肩のブースターを全開に跳躍する。
闇色の霧にかき消された衝撃波とは別に、左右5指の先に隠された暗器たる小さな爪が射出される!
「ワイヤークロー!!」
細い鋼の線に繋がれた小さな爪が、漆黒のフィールドで暗躍する。
胸元のマリィ本人をこの異形から引き離す事が出来ればあるいはと言う、コウの目論見だ。
しかし、それを簡単に許すような相手ならば、最初からコウがここまで苦労する事もない。
恐らく全ての黒い球体の眼球は、人々から奪い、彼女のものとなった視界そのものなのだろう。
まるで見透かされていたかのように、ワイヤークローとマリィ本体の間に黒い眼球が縦に3体、横に3体の合計9体の眼球が盾の様に並び、反撃の熱線を浴びせる!
≪ぐううううううっ! す、すまぬマスター……わしはこれまでのようぢゃ……!≫
再び大地に叩き落されるコウの身体から、胸元に深刻なダメージを受けてノイズが走る熊のぬいぐるみが剥がれる。
≪もう僕しかいないんだ……! こんのーっ!≫
「頼むじぇ……! 神獣……合身……!」
残された最後の神獣、ウルフとその身を1つとする。既に周囲には本来の姿も維持出来ずに、デフォルメされたまま4体の神獣が転がっている。
ここでウルフとの合身状態でも負ければ、もう後はない。
専用武器である2丁拳銃『雷電』を手当たり次第に発砲しまくる。
浮遊する眼球を破壊し、マリィ・ソロルまでの道を作る。
遠距離攻撃特化のウルフ・メイルであれば、弾丸の道さえ出来れば十分だ!
右手の雷電で眼球を撃ち落し、その間に左手の雷電が電気エネルギーをチャージ……!
空中の眼球を撃ち貫き、瞬間に生まれた射線を見逃す事無く、左手のチャージした雷電を構える!
「いけっ! ズバンッ! ズバンッ!! ズバッがあああああああああああっ!!」
電気エネルギーがMAXにまで溜め込まれた瞬間を狙っての、熱線による狙撃。
撃ち貫かれた雷電は、そのエネルギーを暴発させられ、コウを巻き込んで爆発。
盛大な爆発音と共に、主の肉体から人肉の焦げる独特の悪臭が周囲に漂う。
≪うぅ……マスター……ごめん……≫
そう言って、主の肉体から剥がれ落ちる狼のぬいぐるみ。
これで、聖女だけでなく、コウの全ての神獣も敗北。まさに死屍累々と形容すべき、倒された彼等の姿だけが残されていた。
「えと……まだ……負けちゃ……あうっ!!」
超回復能力によって、復活しようとするクリスに警戒していたのか、立ち上がろうとした彼女の背に、再び熱線による一撃が加わり、地べたに釘付けにされる。
「コウ兄……!」
珠雲もまた、立ち上がる事が出来ない程のダメージを受けているのか、ずりずりと地面を這い、倒れたコウの元へ向かおうとしている。
闇へ屈し、倒され、完全なる敗北が、彼女達の心を支配し始める。
兄代わりとして、そして戦いの精神的支柱として自分達を支えてきたコウが全く歯が立たないという現実は、今の彼女達にはあまりにも酷な現実だった。縋る様にコウの元へ這う珠雲。
「……心配……するな……珠雲……まだ……生きてるじぇ……」
満身創痍になりながらも、なんとか意識と生命は保っていたコウが、全身の力を込めて立ち上がる。
既に貫かれた左肩は力なく垂れ下がり、身体中からは熱線による火傷から、焦げた臭いと煙が未だに噴き出していた。
立っている事よりも、生きているのが不思議な程の重症であるにも関わらず、コウは立ち上がってみせた。諦めない姿勢を貫いてみせた。
コウの瞳には、まだ絶望に染まっていない。むしろ、更なる闘志に燃えていた。
「そういや……クリスと珠雲には初めて見せるな……おま~ら……! お昼寝の時間は過ぎてるじぇ……! アレをやるじぇ……!」
≪切札……ですわね……!≫
≪おっせーんだよ……最初から……やりゃよかったじゃねーか……!≫
鷹と竜の、空を駆けるコンビが最初に立ち上がる。
≪ほっほっほ……アレをやるのは久々ぢゃのう……≫
≪ええ……これほどの強敵も……久しぶりですからね……≫
大地と氷を司る獣達も起き上がり、竜達と共に主の下へと身体を引きずっていく。
≪マスター……ぼくもやっちゃうよ……!≫
最後に主の足下に倒れていた子犬の様な雷鳴の狼が起き上がり、主の前に立ってみせる。
「よく見ておけ……クリス……珠雲……! 俺が何故『翼の神』と呼ばれているのか……。その理由を、今、教えてやるじぇ……!」
この世界には、もう箱舟の使い手はいない。闇の魔法使いを葬る光はいない。
だが、異世界からやってきた方舟の使い手がいる。世界を渡り歩く方舟を手に、スワイプによって竜、虎、狼、鷹、熊の各紋章が方舟から現れ、闇夜を照らさんと、祝福の光によって輝き、神獣達が祝福の光に導かれていく……!
「いくじぇ……! マリィ……! 光の使い手は……ここにもいるんだじぇ……! 覚醒!! 神獣合身っ!!」
遂に現れるコウの切札。5体の神獣と共に最悪の闇となったマリィを救う為。世界の希望を絶やさぬ為、神となった青年が、世界を照らす光へと進化していくのだった……。




