第十七の神話
緊迫していた。張り詰めた空気が、辺りに漂う。コウ、クリス、珠雲がそれぞれ横一列に並んで立つが、この圧死してしまいそうな程のプレッシャーに、自然と背中から冷ややかな汗が流れる。
彼等の眼前、執務用の豪奢な机を挟んで座るは、金髪妖艶な女性の魅力が詰め込まれた様な美女にしてコウの上司、ヴァルハラ・ツェ・オーディーン。
そう、ここは神界ユグドラシル内にある彼女の執務室。
コウが任務を終えたはいいが、異世界の人間を、それも2人も連れて来たとあって、即座にヴァルハラの元へと連れて行かれたのだ。
「コウ……」
女性にしては低い……作為的ではあるが……そんな声が漏れる。
もうこれだけで、コウは今にもおしっこちびりそうだった。
……というか、若干ちびっちゃってた。
「あんた……私の言葉忘れてたのかしら……? お土産は幼女じゃなくてバニラアイスって言ったでしょ!?」
「そっちかいっ!!」
思わずツッコむコウ。ヴァルハラは、どこまで行ってもヴァルハラだった。
「そうではないじゃろ、ヴァルハラよ。コウ、この2人の少女の件、どの様な言い訳があろうと、神位剥奪もやむを得ぬぞ?」
ヴァルハラの背後に控えていた荘厳な男性が口を開く。
如何にもな厳かさを持つ、老年の男性。年の頃は60代後半、肩まで伸びたストレートの白髪と白い顎ヒゲが特徴的で、顔にはこれまで生きてきた人生が刻み込まれたかのような皺が目立っているが、その双眸には未だ衰えを知らぬ力強さが宿っている。背も高く、180近い長身で、知的な様相の雰囲気を持っており、黒を基調としたゆったりとしたローブに身を包んでいる。両手には円形の紋章が描かれた白いグローブ。
彼こそが、この神界の若き上位神達のお目付け役にして御意見番、第五神位、天空の神・ゼクス・ド・ゼウスだ。
「あ~爺さん、これは何というか……その……クリスの場合は世界を守る意味合いもあって……」
「たわけ! 如何なる理由があろうと神界に人間はおられぬ! お前だけがワン・オブ・ミリオンとして神界に有益な力になると認められておるに過ぎぬのだぞ!」
流石は天候を操る主神。特に雷を自在に操ると言われる逸話の神の一族なだけに、今日もコウに落ちる雷は絶好調の様だ。
先端に翼を広げた鷲の姿を模した愛用の杖、雷霆・ケラノウスで床を叩きながら説教をするのが、専らこの老年神のお説教スタイルで、コウやタミケミカヅチ(主にトヨフツの方)は、この通称『タルタロスのお説教地獄』を良く受けていた。
「そもそも人間である貴様が神である事に未だ不信感を持った者もおり、それだけに常々から行動には気を付けろとわしは言い続けておるだろうが。良いか、貴様の事は貴様自身が評価するのではなく、貴様を見ている者が貴様を評価するのだ。そう考えるならば常々からの行動も自分自身で戒める事が出来、自然と周りの評価も上がっていくという事が何故20にもなってわからんのか! 良いか、わしが若い頃は神界は高度異世界成長期で、あらゆる異世界を観測し、見届け、それをアカシックレコードへと次々に記していったものじゃ。じゃからこそ一瞬の気の緩みも許される事なく、自らを高め、仕事に邁進したことにより、他者からの評価も上がり、徐々に重要な仕事も任されるようになっていったものじゃ。それなのに今時の軟弱な若い者はやれ『自分にこの仕事は合わない』だの、やれ『もっと労働環境がいいところに行きたい』だの不平不満ばかりを言って、簡単に仕事を放り投げ、全く責任感というものがない! 全てたるんでおる証拠じゃ! 軟弱め! 仕事をする人間として社会に出たならばこのような簡単に考えるものではないのだぞ! それなのに貴様とトヨフツは公私混同も甚だしく……」
「あああああっ!! もう! うるさかよ爺ちゃん!!」
珠雲・怒りの脱出。最初は沈黙の要塞よろしく、大人しく聞いてはいたが、止まる事知らぬお説教に遂にプッツンした珠雲が今度はまくし立てる。
「なんでウチらがここに来ちゃいかんとね!? クリスはコウ兄に助けてもらえて喜んどるとよ!? それにウチだってコウ兄の事が好いとるし力になりたかけんついて来たと! そっば爺ちゃんがダメて言う理由などこにあるとね!?」
「あらあら、あんた、随分懐かれてるわね」
「ハァ……そりゃどーも……」
祖父と孫程の年齢差にも臆する事なくゼクスとやり合う珠雲の脇で、ヴァルハラに茶化されるコウ。
ただでさえ頭を抱えてくなるこの状況に、コウは頭を抱えて、クリスはただ『えと……えと……』と、オロオロするばかりだ。
「ハァハァ……幼女タン……幼女タン……も、も、も、萌えるお……! あっちの元気っ娘も萌えるけど、こっちの金髪ロリ巨乳っ娘もた、た、たまらんお!」
「だあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!? と、トヨフツ!? おま~いつの間に!?」
「ひぃぃぃぃぃぃぃっ!?」
「な、なんねこの変態はっ!?」
全く気配を感じさせぬまま、ヴァルハラ以外は誰も気づいていなかったタケミカヅチのヲタ人格の方の登場に、コウが思わずのけ反りながら驚く。
「HAHAHA、やだなぁコウきゅん、ヲタは神出鬼没がデフォで装備されているんだお? ハァハァ……! こっち向いてだお~!!」
とかなんとか言いながら、しっかり珠雲とクリスを、自慢の超高画質デジカメでパッシャンパッシャン撮影しては『デュフフコポォwwwwwwwwwwwwwフォカヌポゥwwwwwwwwww』と、気持ち悪い笑いを零し、『ハァハァ……ハァハァ』と、悶えまくっているヲタ神。よし、ここに病院を建てよう。
「ハァハァ……うっ! ……ふぅ。コウきゅん、この幼女達を漏れに預けない? 立派な幼女に育てるお!」
「おまわりさん、こいつです」
鼻息の荒い上に、なんか一回達しちゃったようなトヨフツを尻目に、ノアの方舟で青い服の正義の味方を召喚しようとするコウ。
「あぁん、ひどぅい! 漏れ達は紳士だお! 紳士は『イエス! ロリータ! ノー! タッチ!』の精神で愛でているんだお!」
「ヴァルハラ、今すぐコイツに辞表か遺書を書くよう命令してくれ」
「じゃあ漏れの戦乙女と交換なら……っ!」
「するかっ!!」
戦乙女。
神界において、神を職業とする者にとって、一家に一台とまで言われている程の万能女性型ロボットの総称で、多忙な神の身の回りの世話から仕事のサポート、果てには護衛まで務め上げる、まさに汎用人型お手伝い決戦兵器と言える存在だった。無論、ヴァルハラもゼクスも、タケミカヅチも所有しているが、コウだけは所有していない。
理由は簡単、戦乙女はどれも可愛らしいデザインであるが、値段だけは可愛らしくなく、軽くランボルギーニクラスの新車が買えてしまうのと変わらぬ値段なのだ。
悲しいかな、その燃費の悪さから経費で食事しまくって生きてるコウは、そのしわ寄せとして給料の基本給が他の神と2桁は低く設定されているため、未だに新卒の会社員の給料並という悲しい現実があった。
「じゃあコウきゅんと漏れがトレードすれば……っ!」
「なぁゼクス爺さん、コイツ『同義語』って言葉を知らないらしいじぇ」
全く収まる気配のないこの騒ぎ。タケミカヅチがクリスに近づけば、クリスは目いっぱいに涙を浮かべてコウの陰に隠れ、珠雲が必殺の『珠雲ちゃん美少女ローキック』をタケミカヅチにお見舞いする。それを受けて『ご褒美あざーっす!!』なんてまさに引かぬ、媚びぬ、顧みぬなタケミカヅチに、そんなやりとりにまたゼクスの雷が落ち……。
もう収縮する事自体不可能とも思える状況だった。
だが、この騒ぎを止める事が出来る存在が、たった1人だけいた。
「黙りなさいあんた達!」
ヴァルハラの叱責の声に、ピタリと止まる面々。腐っても第一神位を預かる身、その声には女性とは思えない威厳と力強さがあった。
……手はネイルを塗りなおしてたりしていたが。
「この娘達は正式にコウの従者として認めるわ」
いつもの気だるそうな声で、重要な要綱をあっさりと決定するヴァルハラ。本来ならば、上位神と中位神、下位の神のそれぞれ代表の者と、毎回一般人からくじで選ばれた一般陪審員数名を含めた『神界評議会』を開き、議題として挙げなければならない程の内容だったのだが……。
「ヴァルハラよ! お前1人で簡単に決めてよい事でないのだぞ!?」
「いいのよ、最近ディストーションの歪みの量も大きくなっているし、どうせそろそろコウにもサポート役も必要だと思っていたところだし……」
ゼクスの言葉を制し、話を続けるヴァルハラ。
「そうね、神の使者……『聖女』なんて役職を創設したらいいじゃない。反論は許さないからね、おじいちゃん?」
新たに創設されたクリスと珠雲の為の役職。翼の神を補佐し、翼の神と共に歩む称号。それが、聖女と言うわけだ。
「聖女……聖女……性女……むっ! 冬の祭典に向けて今ならコピー本で聖女凌辱モノが……しかし間に合うか? いや、間に合わせてみせる……!」
「頼むトヨフツ、おま~今は黙っててくれ……」
大事な話の真っ最中でもブレない友人に、溜息を漏らすコウ。
「じゃがしかし……っ!」
「おじいちゃん? 最近またキャバ嬢との間に子供が出来たんですってね? 認知は? 奥さんのヘーラーさんはそれ、知っているのかしら?」
「ぬぐぅっ!? そ、それは……っ!」
ヴァルハラの言葉に、どっかの逆転しちゃう裁判の様にあからさまに表情が変わるゼクス。
今なおその渋いマスクで世の女性にモテるゼクスは、若い頃から次々に女性に手を出しては、妻のヘーラーにバレてはなるまいと、あらゆる手段を尽くしてきた。おかげで、一体何人認知した子供がいるのか、分からない程に、多くの女性と関係を持ってきた、神界の石○純一と言われる程の人物だった。
その為、未だ誰も知らないはずの情報を引き合いに出されては、最早反論する術はない。
これが、ヴァルハラの恐ろしい一面の一端でしかないのだから、底が知れない。
「わ、わかった……聖女の創設、及びこの娘達の神界への入界を認めよう……」
「じゃあ決まりね、役職は聖女、給与や社会保険関係、雇用条件なんかは書類を作成次第に契約とするわ。それまでに実印なんか作って用意しときなさい。おじいちゃん、すぐに取り掛かって」
「うむ……致し方あるまい……」
若き第一神位の決定に従い、すぐに人事課へと足を運ぶゼクス。
やはりこの女、敵に回すと恐ろしい事この上ない。
「あぁ、コウよ、しばらく異世界を周り続けておったからの。今日より一週間、労働時間の調整上休みとしておく。それまでに彼女達の住居と転居申請、神界での戸籍等作成しておくのじゃぞ」
ドアに手を掛けたまま、振り返って言うゼクス。
言い終わると同時に、聖女の雇用契約の調整に、ヴァルハラの執務室を後にした。
「休み……まるまる一週間……よっしゃー!」
降って湧いた様な休暇に、思わずガッツポーズなんかしちゃうコウ。
思えばラミアー事件からこっち、1ヶ月半はほぼ異世界に行っていたのだ。勤務のシフトなんか、合ってないようなものだった。
「ならウチらはどぎゃんすればよかと?」
「そうね、当面はコウの家に泊まって、色々準備なさい。あぁ、それと、これあげるわ。いい? この変態に何かされそうになったら、迷わずこの防犯ブザーを鳴らすといいわ」
とか言いながら、学校とかでよく配られる防犯ブザーを聖女達に手渡すヴァルハラ。
「するかっ!! 俺は16歳未満にゃ手を出さないっての!!」
「そうだお! イエス! ロリータ! ノー! タッチ! だお! 手を出したらロリコン紳士の協定に反するお!」
「トヨフツおま〜は今すぐ出ていけ!!」
こうして、ひょんな事から休みを手に入れたコウ。
珠雲、クリスの神界での新生活の為、彼女達と共に過ごす、神界の日常が幕を開けたのであった。
★★★★★
「えと…………」
「ふ、ふつー……ふつーの部屋……」
コウの部屋に訪れた、クリスと珠雲の第一声がそれだった。
それぞれ文字通りに住んでいた世界が違うとは言え、神の住まいともなれば、とんでもない大豪邸で召使いが何人もいたり、凄い歴史ある宮殿だったり、カリン塔から延々伸びた如意棒の先に浮かんでいたりと、とにかく想像もつかない様な住まいを連想していたが…。やってきてみたら、1人暮らしの大学生か社会人みたいな普通過ぎるワンルームときたものだから、ある意味では想像もつかない住まいだった。
「ん? どったのおま〜ら? 寒いから早く入りなよ」
季節はもうすぐ年末の11月下旬。神々にとって最も忙しい時期となる。ゼクスは年末調整等もあり、特に忙しいらしい。
そんな寒空の昔ながらの鉄製ドアの玄関先に突っ立ったままの2人を、コタツに霊気ストーブを点けて手招きをするコウ。
「と、とりあえず……お、おじゃましま~す……」
「え、えと……お邪魔します……」
促されるがまま部屋に入るも、やはり神の住まいとしてどうしても認識がし辛いものだ。
お気に入りの黒の座椅子に座っているコウの左右に分かれる様に、それぞれコウの右手の玄関側に珠雲、左手のベランダの窓側にクリスがコタツに入って座が、未だに揃って2人とも部屋の中をキョロキョロと見回していた。
「なんだよおま~ら……そんなに変なコーディネートにはしてないつもりなんだがなぁ」
「えと……そ、そうじゃなくて……」
「なんか……神様の家って言うけん、もっとこう……」
ようやく2人の言いたい事が理解出来たのだろう。『なるほど』と1つ呟くと、立ち上がっておもむろに閉めてあった黒のカーテンを開いて、2人に手招きしてみせる。
「おー、丘の上だけんよか景色ね」
窓を開け、洗濯機と物干し竿が設置されたベランダに出てから見た景色は、神界の街並みを一望出来る絶景だった。
中央には、天をも貫く巨大すぎる建物、先程までいたユグドラシルも見える。
「ユグドラシルは分かるな?」
「えと……うん……」
コウがユグドラシルを指さし、それにクリスが頷く。
「で、その右に大きなデザイナーズマンション。あれ150階建てなんだが、白いやつ、分かる?」
「あー、あの大きかやつ? マンションの上にヘリもあるたいね」
「そうそう、それ。あのマンションの最上階のフロア全部がヴァルハラの家だじぇ」
『え!?』
遠目から見ても、その大きさが分かる巨大マンションの1階分、まるまる自宅としているヴァルハラ。
1フロア1戸4LDKの10戸に分かれて分譲されており、1階には入居者のみに解放された高級スポーツジム&フェットネス。更には最高級のエステサロンまでもがあり、いわゆる億ションと呼ばれる程に立地条件も土地資産も全てにおいて最高級な超高層マンションの最上階、しかも10戸分の領域を1部屋に改造して購入しているというのだから、コウとの資産力が太陽と腸炎ビブリオくらい違うのがよく分かる。しかも、屋上のヘリポートもヘリもヴァルハラの私物らしいというから、金も権力も全てを手にしていると言っても過言ではない。
「す、すごか……」
「まぁ現代の神様の暮らしとしては、ヴァルハラ以外もみんなそこそこいい暮らししてるみたいだけどな」
クリスと珠雲を部屋に入るよう促し、11月末の冷たく乾燥した空気が部屋にこれ以上侵入しないようにとそそくさと窓を閉めるコウ。
「さて、与太話もこれくらいにして……これから色々と手続きが大変だからな。その前に……」
ぐうぅぅぅぅぅぅぅっ! ぐ~~~~~~~~~! ぐぎゅるるるるるるるるるっ! 山○く~ん、円○さんの座布団全部持ってっちゃって~!
「うん、腹の音も鳴ってるからまずは腹ごしらえだじぇ」
「ちょっと待ちなっせ!? 今完全に歌○師匠が腹ん中におらんかった!?」
確かに今はちょうどお昼時ではあるが、一体どんな腹の虫を飼っているのやら……。腹から生み出された欲望に任せたまま、押し入れのふすまを開けるコウ。そこにあったのは、上下2段全てにぎっしりと敷き詰められたカップラーメンの山、山、山! もひとつおまけに山! そんなどこのラーメン大好きな小池さんですか? と言いたくなる麺の山から、人数分3つ取り出しては、お湯を沸かそうと台所兼廊下兼玄関先に足を運ぼうと、のそのそ歩き始める。
「ちょっちょっ、待ちなっせ、コウ兄! もしかして、いつもこぎゃん食生活ね!?」
「え? あぁまぁ……料理とか面倒くさくてなぁ」
苦笑を浮かべながら、カップ麺を両手に持ったまま肩を竦めるコウ。そんな男性の1人暮らしによくあるダメ人間っぷりに、珠雲が溜息を1つ吐いてコウの前を素通りしては、いきなり冷蔵庫の中身を物色し始める。
「うっわ……予想通り、ビールとかマヨとかちょっとの調味料しか入ってなか……。コウ兄、近くにスーパーはなかとね?」
「あー……歩いて10分くらいのとこに『スーパー人妻の友』があるけど……」
妙にテキパキとした動きに、コウが目を丸くしたまま答えると、珠雲は満足したのか頷いて、ぽんやり事の顛末を見ていたクリスの手を握ると、出かける用意をするように促す。
「仕方んなか……ウチがお昼ご飯ば作ってやるけん」
「は? おま~……料理出来んのか?」
珠雲の男勝りな普段の様子から、料理が出来るなんて女子力の高い事がどうにも想像が出来ず、訝しげな表情のコウ。だが、対してその普段女子力なんて見えない珠雲はよほど自信があるのか、胸を張ってまさにドヤ顔な様子だ。
「お母さんに、保育園時代から包丁ば持たされて仕込まれとるとだけん、食べて驚きなっせよ?」
「えと……珠雲ちゃん……すごい……」
珠雲の大量の荷物の中から、ピンクのマフラーと、何かのキャラクターだろう、子ネコが可愛くデフォルメされた手袋を借りたクリスと、ジャケットに身を包む珠雲。しかも、これも実家から持ってきたのであろう、白い記事にパンダが描かれたエコバッグまで持ってだ。
「よし、じゃあクリス、買い物ば手伝ってね」
「えと……うん、じゃあ、行ってきます……」
まだ来たばかりで土地勘が分からないため、コウの部屋にあった近隣の地図を片手に、玄関先まで2人で進むと小さく手を振るクリス。
そのままガチャンと重いドアの閉まる音と、いきなり1人にされて、すっかり珠雲の勢いに飲まれてしまったコウは、ただ茫然と手を振り返して2人の少女を見送るしか出来なかった。
★★★★★
この日、神はその侘しい食生活が一変した。普段はカップラーメンを20個くらいな食事に使われていたコタツのテーブルには、炊きたてつやつやの白いご飯に始まり、大根と豆腐の味噌汁、ふんわり仕上がった卵焼き、脂のよく乗った鯖の塩焼きに野菜がふんだんに使われたサラダ、小鉢にはほうれん草のおひたし、更にはデザートにと可愛くうさぎさんに切られたリンゴまで並ぶ、まさに日本で『おふくろの味』と呼ばれる様な品々が並んでいた。
「う、う、うーーーーーーまーーーーーーいーーーーーーじぇーーーーーー!!」
わずか11歳の女の子が作ったとは思えない程に完成され、加えて美味なそれに、感動のあまり思わず目から口から耳から鼻からと、とにかく穴と言う穴から光が飛び出しちゃったりしているコウ。
実は彼女、柳珠雲は料理を始め、家事全般が得意中の得意だった。
「だけん言うたでしょ? ウチ料理ば仕込まれとるて」
コウが面倒くさがってたたんでおらず山となった洗濯物を、これまた慣れた手つきでテキパキとしわはアイロンで伸ばしては、次々たたんで収納していく珠雲。実にお嫁さんにしたくなる、意外な一面だった。
「えと……珠雲ちゃん……すごい……」
クリスもまた、慣れない箸に悪戦苦闘しながらも、鯖の塩焼きを口に運ぶ。
《ガツガツガツガツ……! うめぇ! うめぇ!》
《わしゃあシャケが好きぢゃが、鯖もいいのぅ》
《珠雲ママの味そっくり! まっきゅまっきゅ》
ナマモノ達にも好評な様で、コウを始めとして次々『おかわり!』の声と共に珠雲に茶碗が突き出される。
「はいはい、いっぱいあるけんが、たくさん食べなっせよ!」
自分が作った料理を美味しい美味しいと食べてくれる。これが料理をする者にとってどれほどに嬉しいものか。それは、彼女のひまわりの様な花開く笑顔を見れば、よく分かるものだ。
炊飯器だけは業務用の2升は炊ける巨大なものがあったコウの家。だが、それも珠雲に元に次々やってくるおかわりの嵐に、あっという間に空っぽになっていく。
美味いおかずがあればご飯もすすむ。気が付けば、珠雲の料理と一緒に、お米もきれいさっぱり無くなっていた。
「いや~美味かったじぇ」
「えと……ちょっと……食べすぎちゃったくらい……」
元々ノルウェス時代はまともな食事も摂れていなかった為、胃腸の発達が遅れて小食なクリスも、ごはんをおかわりする程だ。
コウに至っては、食後の緑茶をすすりながら、漫画の様に膨れ上がったお腹をさすっていた。
ナマモノ達にいたっては、ぬいぐるみ状態のお腹が風船のように膨らんであちこちに転がっていた。
「お粗末様でした。お皿はさすがに多かけんが、コウ兄も手伝ってよ?」
「へいへい……ん?」
貧乳には〜淡い夢が〜♪巨乳には〜大きな夢が〜♪おっぱいは男の〜エル・ドラード〜♪(台詞:あんた……もうお酒はやめなはれ)追い求めて〜♪でも振り向いてくれない~♪(台詞:そんな事より博多のおばちゃんから明太子が届いたよたけし)誰でも~いいから~おっぱいを~さわら~せtピッ
「はいよ、こちらエスカレーターに尻を挟まれた被害者友の会……って、なんだよ、ヴァルハラ……今日から休みってさっき目の前で話したろ?」
どうやら、電話の相手はあの最終鬼畜女神様、ヴァルハラのようだ。
『だから電話したんじゃないの。あんた、暇でしょ? 暇と言いなさい。言わないなら来月から5年は給料カットするから』
艶っぽくも高慢で傲慢なその台詞。ここまで自己中心を通り過ぎて逆に清々しいまでに言い切れるのは、彼女くらいしかいないだろう。
「分かってて電話って……まさかディストーションが出たじゃないだろうな?」
ディストーションの出現に対しては、正直なところ神界のハイ・テクノロジーを以てしても予測がつかない。なにせありとあらゆる異世界の狭間から突如として生み出されるのだ。それを索敵するともなれば、世界中のどこかに落ちたコンタクトレンズを探してくださいと言うのと同義だ。
また、一口にディストーションと言っても、エネルギーの質も量も、そもそも同じディストーションとしてカテゴライズするべきなのかと言いたくなるほどに変異したものだってある。反応が起きてからでないと、何がどんなものかは分からないのが現状だ。
『違うわよ。いい? 珠雲とクリスを連れて、今すぐ5分以内に四越デパートに来なさい。この私が5分もの猶予を与えているのよ? 時間内に来なかったら殺す』
「ファッ!? ちょっ!? 四越って言ったら超高級デパートだろ!? 家からだとどう頑張っても車で30分の距離だじぇ!?」
無茶苦茶だった。まさに傲慢の権化たる女神の無茶振り。しかも、ヴァルハラの場合これが冗談とも悪ふざけとも言い難く、実際遅れたら本当に殺されかねないのだから洒落にならない。
その証拠に、受話器越しだと言うのに女神にあるまじき禍々しいオーラが滲み出ており、コウの背中をこの時期なのに冷汗が滴っている。
「とにかくさっさと来なさい。いいわね」
ガチャン! ツー……ツー……ツー……。
問答無用だった。拒否権の類は当然与えられず、言いたい事だけを言ってさっさと切れてしまった通話。ノアの方舟のディスプレイに刻まれた時計を慌てて見る。
通話が切れて既に30秒が経過しているではないか!
「あ、あわわわわわわわわっ!! ドラゴン! ホーク! おま~ら急いでベランダで神獣形態になれ!! クリスと珠雲はすぐに出かけるじぇ!!」
「ふえ……?」
「な、なんね……まだ洗い物が……」
この重大さとヴァルハラの恐ろしさをまだ知らぬ、無垢なる新米聖女達。キョトンとした表情でいた彼女達を半ば無理矢理両脇に抱え上げると、ベランダで光輝いて巨大な竜とへと変化した神獣・ドラゴンの背中に飛び乗る。
「ひゃああっ! え、えと……えと……ドラちゃんの背中……?」
「ちょっ! コウ兄そぎゃん無理矢理……ウチはよかばってん、こぎゃんとはもっと夜になってから、ムードをだして……うひゃぁぁぁぁぁぁっ!」
いきなり抱え上げられて驚くクリスと珠雲。……若干1名は、赤くなった顔を両手で押さえながらくねくね身体を動かしてたりと、なんか勘違いしているが。
「ドラゴン! チビ達頼む! ホークは俺を抱えろ! 死にたくなかったら急ぐじぇっ!!」
≪わぁってるよ! 俺だってヴァルハラ様の恐ろしさよぉく分かってんだ!!≫
≪あのお方の怒りだけは買ってはなりませんわ!≫
神獣達も恐怖で慄いているのか、脳内から響く声がガッタガタに震えまくっていた。
「えと……み、みんなどうしたの……?」
「5分以内に死にたくなかったら、ドラゴンにしっかり掴まってろ!」
神獣・ホークに肩を掴まれて空へと浮かぶコウ。だが、表情はこれまでの戦闘でも見せた事のない切迫したそれ。彼女、ヴァルハラはそれほどまでに恐ろしい存在なのだ。
「そんじゃ運転手さん、全速力で頼むじぇ!」
≪了解! 嬢ちゃん達、しっかり掴まってろよ! うるぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!≫
こうして、神界の秋空を羽ばたいていく竜と鷹の神獣。この時点でヴァルハラが与えた猶予は残り時間3分56秒。果たして、時間に間に合ってコウはその命を繋ぐ事が出来るのだろうか?
その答えは、神のみぞ知る……というか、その神が今一番知りたがっていたりなんかしちゃっていた。




