第十の神話
雨とは陰鬱なものだ。光を閉ざし、暗い雲に覆われ、人間の感情の様に涙となって降ってくる。
まるで、世界が悲しみに打ちひしがれているかの様に。だから人は、心に悲しみが満ちた時、雨が自分の中で降っているかの様な気持ちになる。
太陽が陽気を示すのであれば、雨は悲哀の象徴だった。
だから人は傘を差す。身体も心も濡れて冷たくならないように。
だから人は傘を差す。身体も心も、涙が流れ落ちないように。
だから人は傘を差す。身体も心も、明日の太陽に出会う為に。
今夜もまた、雨は終わりそうにない。
何故なら、新しい悲しみがまた一つ、生まれてしまったのだから……。
★★★★★
「ここか……」
降りしきる雨に打たれ、中折れハットも機能を失い頭から外し、髪も分け目を失いデニムシャツも雨により色を失い……ここに来るまでに、すっかりずぶ濡れとなったコウが、肩で息をしながら目的の牛小屋を見やる。
舗装はされていないが、人や荷車等が歩いてきたからか、草が生えずに剥き出しになった土の道路の先に構えられた、小さな規模の木造の小屋。大きなドアは、長い間こうした雨風に耐えて来たのだろう、赤茶色に錆び付いてしまい、風が吹く度に甲高い軋む音を奏でている。
この中に、魔女の娘と呼ばれる少女がいる。
瞳を閉じ、全力で走った代償として荒く激しい息を整える為、一気に酸素を取り入れ、丹田……へその下から腹圧を掛けて吐き出していく。
空手の呼吸法、息吹である。
それにより、無理矢理呼吸と精神を落ち着かせ、コウは一歩踏み出す。
コウが踏み出した拍子に水溜りの水が跳ねたのと同時に、牛小屋から幼い少女の叫び声が上がる。
《おい、マスター!》
「分かってる」
トカゲの様なぬいぐるみがノアの方舟から飛び出すのに合わせて、コウが牛小屋へと走り出す。
人が1人分入れる程度に開いていたドアの向こうに飛び込むと、そこは異様な光景だった。
奥にいたのは、上半身の衣服を引き裂かれ、胸を晒され、スカートを捲られ、気を失っているのか、眠った様に飼い葉の山に倒れている少女。
そして、逆に醜い下半身を晒した中年の太った男。
何が行われようとしていたのか、一目瞭然の格好。幸いな事に、少女はスカートの中は下着が穿かれたままだった為、最悪の事態には至っていなかった様だったが、光景は最低最悪そのものだ。
だが、それとは別の最悪の事態が、そこには起こっていた。
少女の背後から生えた、無数の太い緑の蔓……その、至る所に棘を孕んだ蔓が男を捕らえ、宙吊りにしているのだ。
しかも、それは牛にまで広がり、近くの牛はがんじがらめにされて巨体にも関わらず、全く身動きが取れずにいた。
「あらま、お取り込み中だったみたいだねぇ……」
「お、おい! あんた! 助けてくれ! 魔女の娘に襲われたんだ!」
新たに現れたコウの姿を見るや、懇願する男。
哀れにも、晒した下半身をばたつかせながらだ。
「襲われた……ねぇ。襲ってたのはおっさん、お宅じゃないの?」
満腹となった腹から感情と共に吐き捨てる様な口調で睨む。
どう見ても幼い少女は抵抗していたであろうこの状況を推察しながら、コウと竜のぬいぐるみが小屋に足を踏み入れ、蔓の発生源たる少女へと向かって行く。
「か、勝手に俺の牛小屋に入り込んだのは魔女の娘の方だ! だから躾けようとしただけだ!」
自分勝手。あまりにも稚拙で自分勝手な言い訳に、呆れた表情で上空の中年を見やる。
神の中に湧き上がる怒りと苛立ち。だが、それを容易に表に出せる程、コウも子供ではない。
ひとつ溜息をその感情ごと吐き出すと、トカゲの様なぬいぐるみサイズの竜に目で合図する。
途端、ぬいぐるみが輝き、現れたのは体長3メートルはあろう、紅の鱗を持つ火竜。
幻想や御伽噺でしか存在しないそれが現実の世に顕現し、男を捕らえる蔓にその鋭い牙を食い込ませる。
《マスター……青臭ぇ……まじぃ……俺、肉食……》
「好き嫌いはよくないじぇ? こりゃ、どうもレア中のレア、プラントタイプの神獣みたいだしな」
コウの言葉に、神獣に対する新たなピースが生まれ出る。
神獣には、大きく分けて、3つのタイプがある。コウが使役する5体は最も多い、動物型の神獣ビーストタイプ。
それとは別に、昆虫の姿を持つビートルタイプ。そして、最も数が少ないのが少女を依り代として寄生している、このプラントタイプの神獣だ。
それぞれにタイプ毎の特性があり、どの神獣を使役するかで、得られる特殊能力が違う。
その中でも、特にレアリティが高いのが、魔女の娘の中に眠っていたこのプラントタイプだ。
小屋の屋根ギリギリの大きさの竜が、文句を垂れながらも男を掴む蔓を喰い千切ると、落下の勢いに逆らえぬ男はそのまま地面に叩きつけられる。
千切られた蔓はそのまま消滅し、晴れて自由になった途端、自らを助けた存在であるドラゴンの姿に、後ずさりする。
「ば、ばば化け物め!! 俺も、俺の牛も喰うつもりか!?」
「助けてもらってそれか……無理はないけどさ」
竜が次々茨を含んだ蔓を喰い千切る最中、コウは少女に牛の清拭用だろう大きな布で、露わになった胸元を包んで抱きかかえる。
対して男は、ピッチフォークと呼ばれる四又に分かれたフォークの様な農具を手にして、神獣・ドラゴンに向けている。
果たして、この男に助ける価値があったのかと問いたいコウの心情だが、命そのものは平等だ。
助けないわけにはいかない。
「ん……。ぁ……」
少女の意識がゆっくりと覚醒する。呆然とした表情から数回瞬きをし、徐々に意識が混濁のまどろみから現実へと呼び覚まされていく。
その瞬間、彼女の背から伸びていた、無数にあったはずの茨の蔓が全て消え去ってしまう。
……どうやら、彼女の意識とは別の意識……恐らく契約を果たしていない神獣が、この現象を呼び起こしている様だと、コウは推察した。
となれば、この様な事態も恐らくこれまでに数度あったのだろう。
「お目覚めかい? お姫様」
いつもの、おちゃらけて軽いコウの口調。抱きかかえたまま、口元を釣り上げて彼女に安堵を与えようと、勤めて微笑を浮かべていた。
未だ意識が覚醒しきっていない少女を抱え上げ、醜態を晒し続ける中年男性に向かって吐き捨てるコウ。
「とりあえず、お宅の辞書に幾つか言葉を教えてやるじぇ。
1つは自業自得、この事態は間違いなくお宅が原因だ。2つ目は未成年と合体行為まではしないのを猥褻な行為。合体行為までしちゃったら、淫らな行為と言うんだじぇ。んで、最後は触らぬ神に祟りなし、この事を口外したら、コイツがおま〜を頭から喰う」
《んなマズそうなおっさん、喰いたかねーよ》
口を開いて牙を剥き出しに、嘔吐の真似事をする火竜。
「そりゃそうだ。いくじぇ、ドラゴン」
主の号令に、竜が下半身を晒したまま腰を抜かした男を鼻で笑うと、少女を抱えながら歩き出すコウと共に小屋から出ようとズシン、ズシンと音を立てて歩む。御丁寧に、鋭い眼光で男を睨みつけて威嚇しながらだ。
伝説上の生き物に睨まれたのが良く効いたのか、何度も頷く中年男性。男性は、抜かした腰から恐怖のあまり暴飲していた酒だったそれを垂れ流していた。
《あだぁっ!!》
……入口がドラゴンの体長に比べて小さかったせいか、振り返った瞬間、盛大に顔面を強打していたが。
「えと……あ、あの……」
ようやく意識をはっきりとさせ、何かを言いたげな少女に小さく笑みを浮かべて見せると、元のぬいぐるみ……おでこに大きなたんこぶをつくったドラゴンを連れて、あの女将と御主人が待つ宿へと雨に打たれながら歩み続けるコウ。
この小さな身体で、未成熟な精神で、地獄の様な生活を耐え抜いた彼女に、心からの安らぎをもたらさんと、たった一言。それだけを彼女に向ける。
「もう大丈夫だじぇ」
少女にその言葉と、抱き上げたまま、自身の温もりを伝える。
雨に打たれて体温が奪われながらも、しっかりと腕で彼女を包み込む。
冷たい雨の中でも、コウの体温が心地良く、久しく得ていなかった人の温もりが彼女の中に張り詰めていた糸を緩めていく。
「えと……ひく……っ、ひっく……!」
コウがもたらすその温もりに、堰を切ったように涙を流し、泣き出す少女。
父も母も、全てを失い、蔑まされ、暴力を振るわれ、人間の闇の中に晒され続けた少女にとって、それがどれ程に暖かく嬉しかったのだろうか?
雨は、彼女の涙も、寂しさも、洗い流すように降り続けた。
★★★★★
「ひいぃぃっ!! ま、魔女の娘!!」
宿に戻っての歓迎の言葉は、御主人の怯えた叫びから始まった。
「なぁに驚いてんだい! 全く……可哀想に、あの親父に乱暴されたんだって?」
無事に宿の食堂へと戻ったコウとクリス。トカゲのナマモノは、流石に事情を話さないまま宿の夫婦の前に現れるわけにもいかないので、ノアの方舟へと戻っている。
雨に濡れ、汚れきったボロ布に包まれた少女を優しく抱きしめる女将に、借りたタオルで頭を拭きながらコウが続ける。
「女将さん、この娘……あー、名前なんだっけ?」
「えと……く、クリス……ティーナ……えと……ローズマリー……ドラグマン……えと……です」
たどたどしく答える少女、クリスティーナ。
助けてくれたコウには幾分心を開いているのだろう。吃音交じりではあるが、最初の頃に比べると、しっかり受け答えもしてくれている。
「クリスティーナか、じゃあ長いからクリスな。俺はコウ・ザ・ストーンズ、気軽にイケメンのお兄さんと呼んでくれ。で、女将さん。ものは相談だけど、クリスの風呂と、後は着替えとかないかな? 残念ながら俺、16歳未満は対象外だから一緒に風呂とかはちょっとね」
理由がなんともアホみたいではあるが、コウの相談に豊かな胸元をドンと叩いてみせる女将。何とも心強い印象を受ける。
「任せな! 下着も必要だね、ちょっとあんた! 雑貨屋でこのサイズの服と下着買ってきな!」
クリスを一目見てサイズを測った女将が、メモを書いた紙を御主人に押しつける。
「お、俺がかい?」
「あったりまえだろ! あたしゃ今からこの子とお風呂に入るんだからさ! お客さんも部屋の風呂でお湯を浴びて着替えてきな」
旦那に指示を出した女将が、そのままコウの方へと振り向いてくる。
「え……? あ、あの……えと……い、いいん……えと……ですか……? 私……えと……魔女の……えと……娘……って……」
クリスティーナ洗浄部隊総司令官が、隊員達にテキパキと指示を与えていく中、当のクリスは急過ぎる展開に、困惑しきりだ。
何せ、こんな厚意を魔女の娘と呼ばれるようになってからは、一度も受けた事がないからだ。
「そんなん俺は気にしないじぇ」
「あたしも、ずっと不憫に感じていたからね。さ! 温かいスープも準備しなきゃねぇ」
魔女の娘と呼ばれる様になって、初めての人が暮らす屋根の下。暖かいお風呂。料理と呼べる食べ物。そして、人の優しさ。それらが幼い心にどれだけ響いたか。
再び溢れて止まらぬ涙を何度も腕で拭うも、それが止まる事は無い。
「えぐっ……ひく……っ、えと……ぐすっ……おばさん……えと……ひっく……おじさん……ぐすっ……えと……コウさん……えと……ひく……っ、ありがとう……えと……ございます……ぐすっ」
「子供は甘えるのも仕事さ! さあ、クリスちゃんはおばちゃんとこっちにおいで」
泣きじゃくるクリスの手を引いて宿の受付カウンター奥、自分達の生活スペースへと連れて行く。
これから長い間に溜まった汚れと悲しみと溢れる涙が、綺麗さっぱりと洗い流されるのだろう。
カウンター奥の扉が閉まり、彼女達の姿が見えなくなる。
『こりゃ詳しい話は後だな』そう感じたコウは、先程の総司令官の言葉に従い、ずぶ濡れの身体を暖める為に、食堂を後にした。
★★★★★
「……神獣……えと……ですか……?」
コウの眼前に向かい合う様に座って、温かなコーンスープを完食したクリスが呟く。
スープを一口飲む度にまた涙が流れていたのだろう、頬にはうっすら跡が残っている。
彼女は、女将の手によって、見違える程に可愛らしいく変身していた。
汚れていた金色の髪は石鹸の香りが効いて、甘い香りを漂わせる美しい輝きを取り戻し、顔の土や泥もすっかり落ち、張りのある頬にはほんのり桃色の血色を見せていた。
衣服も青を基調として真っ白の真新しいエプロンを掛けたエプロンドレスで、まるで不思議の国に迷い込んだ少女の様相だ。
彼女は、想像以上に美少女だった。
そのクリスに、いつもの就寝スタイルである後ろに『スペースゴリラワンダーランド』とかわけのわからない事が書かれたジャージ姿に着替えたコウも、夜食にと頂いたパンを口に放り込みながら説明を続ける。
「もっきゅ、もっきゅ、そう、それがクリスの力の正体だじぇ。俺も神獣士でね、その神獣を回収か、神獣界へと誘導しに来たのさ」
神獣界。普段の神獣達は、その神獣界で暮らしている。神が創り出した眷属達は、精神のみで構成された概念とも言える箱庭の世界から異世界の危機を感じ取り、自らが主人と認めた精神力の高い存在に、己の力を差し出す。
だが、稀にクリスに取り付いた神獣の様に、異世界を危機に晒す邪悪な存在や力に敗れ、崩壊してしまったり異世界を支配されたりした場合、主を失い衰弱した神獣が、命を繋ぐ為に全く別の精神力が高い者に取り憑いたりする場合もある。
ただ、それはやむを得ない緊急事態。本当に、極稀なケースにはなるが。
「ふーん、成る程ねぇ……それが、このちっこい子達かい」
クリスの弱った胃を労って作ったリゾットを差し出しながら、女将が隣のテーブルで今日の食堂のあまりものである豚肉のカケラやパン等に群がる、5体の子犬や子猫の様に小さく可愛らしい神獣を見やる。
《てめっ! 虎野郎! そりゃ俺の肉だ!》
《知りませんよ……。貴方が勝手に言ってるだけじゃないですか……》
《あら、中々イケますわね、このパン》
《ほっほっほっ、婆さんはどこに行ったのかのう?》
《じーちゃん、神獣は結婚とか概念ないじゃん、あ、ドラゴンの肉もーらい!》
《だあぁぁぁぁぁぁっ!! ウル坊テメェェェェェッ!!》
事情を説明する際に発現したぬいぐるみ状態の神獣達。
彼等もまた、女将がくれた食事に群がって騒ぎ立てながら食事に勤しんでいた。
「おま〜らなぁ……。食っても意味ないくせに」
元来、精神的な存在である神獣にとっての活動の源は、主の精神力のみである。
故に、食事には栄養的な意味合いはない。味と言う嗜好を楽しむだけでしかない。
「えと……それじゃ……えと……私にも……」
「クリスの中にも、プラントタイプ……つまり、植物の姿をした神獣がいるはずだじぇ」
そう言って、コウが最後のパンを口に放り込み、咀嚼する。
まるで浮世離れした話であるが、クリスが横目でコウの神獣達を見やる。
そこにいる動くぬいぐるみ達を見る限り、コウは騙したりとかしようとしているわけではない。この話が真実なのだと、彼女の意識にはっきりと答えている。
「お客さんがその神獣ってのをなんとかすりゃ、クリスちゃんは普通の女の子に戻れるのかい?」
仕事がひと段落し、クリスの隣に女将が座る。
テーブルには、女将が飲むために用意したお茶も添えられていた。
「クリス自体は、神獣が取り憑くほどの精神力を持っている以外、何の能力もない普通の女の子だからね」
それならば、神獣の問題さえ解決できれば、もう忌み嫌われる理由はなくなるという事だ。
コウの言葉に、女将は何かを決意した様な表情で、クリスへと向き直る。
それは、真摯な目で、真剣な表情だった。
「それならさ、クリスちゃん。おばちゃんの家の子にならないかい?」
予期すらしていなかった女将の申し出に、思わず目を丸くするクリス。
つまり、女将は彼女を養子として迎え入れたい。そう言っていた。
「え……!? え、えと…っ!」
「あたしはね、ずっとクリスちゃんを何とかしたかったんだよ。でも、村八分になって商売も出来なくなるのを怖がって、今まで何も出来なかったんだ。……だからさ、罪滅ぼしと言っちゃなんだけど、普通の女の子に戻ったら、おばちゃんの娘になって欲しいんだ」
真剣な眼差し。彼女はまだ大人の保護が必要な年齢だ。親にすら見捨てられた彼女にとって、これ程の支えはない。
「お前……本気なのか?」
渋い表情の御主人。だが、女将は構わずに言葉を紡ぎ続ける。
「当たり前さ。うちらは子供に恵まれなかったんだ。こんなに可愛らしい娘が出来たら、きっと幸せさ!」
主人の言葉をばっさりと切り捨て、歯茎が見える程の笑顔を生み出す。
彼女なりの贖罪。それが、この養子の話なのだろう。
「えと……あ、あの……あり……がとう……えと……ございます……」
長い長い暗闇のトンネルから、やっと抜け出した様な気さえするクリス。
これまで数年間、蔑まれ、疎まれ、彷徨い続けた彼女の日常が、生まれ変わろうとしていた。 何度も殺されそうになったりもした。命を投げ出そうとしたのも、一度や二度ではない。だが、それでも生きる事を止めなかったその報いが、今という瞬間だった。
何よりも、彼女はまだ親に甘えたい年頃だ。甘えてもいいと女将が言ってくれたのが、彼女は嬉しかった。
「よかったな、クリス」
コウも、彼女を祝福するかの様に、洗ったばかりの髪をくしゃくしゃに撫でる。
「えと……あの……は、はい……」
困惑し、俯きながらも答えるクリス。きっと、震えているのは嬉しさのあまりにもう何度目となったか分からない涙を流しているせいだろう。
その姿に、女将が慌てて宥めていく。
この幸せに満ち足りた光景を、一生忘れまい。コウはそう思った。
こうして、今ここに、新しい家族が1組、誕生した。
★★★★★
「その話、本当か」
「はっ! 村の酪農家である男の証言は確かです、遂に魔女めが本性を現したとの事であります!」
黒を基調とした薄暗い執務室。
ノルウェスの国を象徴する赤に青の十字、その中央に剣が描かれたそれ……この国の国旗が掲げられ、幾つもの剣や槍、西洋鎧が飾られたそこで、兵士の報告を受ける黒い2つの影。
ここはノルウェス王宮騎士団、団長執務室。報告を受ける影の1つは、この部屋の主、騎士団団長だ。
「分かった、下がれ」
「はっ! 失礼致します! ラドフ団長!」
団長……ラドフと呼ばれた者の命に、右手を胸に構える敬礼後、ガシャガシャと全身鎧を鳴らしながら退室する。
2人きりの執務室の静寂を破ったのは、もう一方の影だった。
「やっと神獣も覚醒の兆しを見せたわね。待ちシビレたわ……」
艶のある声。影の1人は、妙齢の女性の様だ。
影が象るその身体のラインは、非常に悩ましげなそれだった。
「だが気になるのは、もう1体の方だ。この世界は、1体のみと聞いていたが……これは燃える事になりそうだ」
団長……ラドフの低い声が答える。
「いいじゃない、2体も手に入るなんて、シビレるじゃないの」
「ふん、ならば逃げられる前に、燃える手を打つか……全軍に通達しろ、燃える様な平和の為に、魔女狩りを行うとな」
訪れたクリスの平穏。だがそれは、同時に新たな争いの火種をも、生み出していた。
★★★★★
あれから、一週間が過ぎた。
衰弱したクリスの体力、精神力では神獣も覚醒し切れておらず、彼女の中で眠り続けていた為、中々コウとの契約が行えずにいた。
その為、まずはクリスが体力を回復するべく、5日程は食べて、コウと遊んで、また食べて、昼寝して、また食べてを繰り返していた。
そして、6日目……昨日より、クリスとコウは村の外れの若葉萌える拓けた草原で、神獣を呼び覚まそうと、何度もクリスが神獣に問いかけているのだが、未だ反応が無い状態だった。
今日も朝から暑いくらいの日差しの中、草原に2人はいた。
「えと……コウさん……えと、ダメ……えと……みたい」
相変わらずたどたどしい話し方ではあるが、クリスは随分とふっくらしていた。
元から骨と皮だけの様な状態であったからか、ふっくらと言ってもやっと同世代の子供と変わらぬか、やや痩せ型な程だ。
ただ、あの状態でも膨らみは生まれていたからか、今の様に肉付きがうまれた身体に備わる胸元は同世代の女の子よりも大きい様で、コウ曰く『現時点でBからC近くはある。こりゃ将来楽しみだじぇ』との事であるが。
血色もすっかりよくなり、美少女ぶりが輪をかけて可愛らしくなっていた。
因みに、年齢は聞いたところ12歳だったらしく、これまでの栄養状態が如何に劣悪だったかを物語っていた。
「焦る必要はないよ、体力も随分良くなったから、じきに神獣も目覚めるさ」
申し訳なさそうなクリスに、肩を竦めるコウ。
実際、あの劣悪な環境に身を置いていた時期に比べたら、今のクリスならばいつ具現化を行えてもいい程だった。
「さ、女将さんが昼メシ作ってくれてる頃だから帰ろうじぇ」
「えと……うん」
2人並んで村へと歩き出す。
今でもクリスに対して、村の風当たりは強い。恐らく彼女1人では、村の中を歩かせるのは、ウサギを見世物小屋のライオンの檻に入れるのと同義だろう。
だからこそ、用心棒兼神獣の先生兼兄代わりとして必ずコウが一緒に歩く。
村の中に入ると、クリスに視線を向けてはヒソヒソと耳打ちをする者、睨むだけの者、恐怖に駆られ近寄ろうともしない者といるが、以前の様な暴力は飛んでこない。
皆、いきなり現れたコウと言う不気味な存在に警戒しているのだ。
「えと……あの……コウ……さん」
「周りは気にするな、周りはみんなおっぱいと考えれば、むしろ興奮するじぇ」
「え、えと……それは……」
訂正。たまにクリスも、コウを不気味に感じていた。
そんな会話をしながら、道の真ん中をクリスはコウと共に堂々歩く。
しばらく歩くと、村の中心部からやや南、日当たりの良い、大きな木造の2階建てのそれ。クリスの新しい家族が待つ家、宿屋に辿り着く。
「ただいまだじぇ」
「えと……あの、た、ただいま……おばさん……」
クリスはこの『ただいま』が、大好きだった。独りでは、絶対に出来ないのが『ただいま』だ。
だから、ずっと彼女は言えなかった。でも、今は言えるし……。
「おや、おかえり! クリス、おなか空いてるだろ!? すぐにご飯にしてやるからね!」
『おかえり』が返ってくる。だから、『ただいま』が大好きだった。
宿の受付カウンターから出てきた女将が、満面の笑みでクリスとコウを出迎える。
「さあさ! クリス、手を洗っておいで! ママはご飯の準備してくるからさ!」
「えと……は、はい……」
女将に促され、クリスがパタパタと手洗い所へと走っていく。
コウは先に食堂へと足を踏み入れると、そこは暇そうに新聞を読む御主人が1人、ポツンと客用のテーブル席に座っていた。
「……今日も閑古鳥が住み着いているじぇ……」
クリスを家族に迎えてから、味と女将の人柄でごった返す程人気だった食堂は、昼時でもこんな調子のままだった。
だが、女将はあっけらかんと笑う。
「こんくらい、あの子を娘にするって決めてから、覚悟はしていたさ!」
彼女は本当に強い女性だ。風評被害にも負けず、こうして日々を明るく過ごしている。
「それに、コウさんが毎回10人前以上食べてくれるからね!」
豪快に笑ってみせる女将。そんな彼女でなければ、クリスを育てる事は出来ないだろう。だが……。
「……俺は、まだ娘と認めちゃいないんだがな」
御主人の小さな、ほんの小さな呟き。消え入りそうなそれには、決して消えない嫌悪の念が、込められていた。
「えと……おばさん……手……えと……洗ったよ……」
おどおどとした様子で、クリスが食堂へと入ってくる。1週間経っても、未だ借りてきた猫の様だ。
「偉いねぇ……なぁクリス、そろそろあたしの事、『ママ』って呼んでくれないかい?」
「えと……えと、その……」
気恥ずかしいのだろう、顔を桃色に染め上げ、俯いてしまう。
「少しずつ慣れていくしかないじぇ、な、クリス」
愛するお昼ご飯を求めて、誰もいない壁際のテーブル席に腰掛けるコウ。
中々『ママ』と言えずに照れている微笑ましい少女も、ちょこちょこと歩いて、コウの向かいに座る。
挑戦しようとしてるのだろう、何度も『えと……えと……』を繰り返しながらだ。
幸せだ。気恥ずかしくも幸せな母娘が、そこにいた。
もうすぐクリスは普通の少女に戻れる。後は、魔女の娘なんて幻想は、時が解決していくだろう。
そうなれば、コウの仕事も終わりになる。
そんな事を考えている中、不意に宿のドアがコンコンと叩かれる。
「おや、久しぶりのお客さんかね?」
厨房に入ろうとした女将が、宿の玄関へと走っていく。
それと同時に、コウのノアの方舟からクチナシ色の狼が、ぬいぐるみではなく神獣形態で飛び出す。
《マスター! おばちゃんに行かせないで! たくさんの鉄と血の臭いがする!》
ガタッ!
テーブルと椅子が盛大に叫びを上げ、コウとクリスが、狼を引き連れて食堂から飛び出す。
「はいはい、ようこそお客さ………」
幸せは、確かにそこにあった。長い暗闇が、やっと晴れた日々だった。
優しい、豪快で、母性に溢れて、周りに自慢したいくらいの……お母さんだった。
クリスに、家族を与えてくれた。
彼女の大好きな母は……あの日々の様に、冷たい、暗い、鋼の槍に……貫かれていた。
「あ……あぁ……!!」
「魔女の娘に魅入られた魔女の僕を倒したぞ! 村の者達よ! 安心しろ! 魔女と悪魔の使いは我々王宮騎士団が必ず血祭りに上げてやろう! 正義は我々にあり!」
大好きな母が、外に引きずり出される。
外は、大量の西洋鎧に身を包んだ騎士や全身鎧に身を包んだ兵士がいた。
兵士達が槍を振り上げる。
「見るな! クリス!」
コウが身体を使って、クリスの視界を消す。だが、彼女の聴覚は、捉えてしまった。何が起きているのかを。
肉に刃物が突き刺さる音。それが、何度も、何度も聞こえる。
こびりついて離れなくなる程に、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
「いや……いやぁ……!!」
少女が手に入れた幸せ。それは、奪われなければならなかったのか?
「宿に火を放て! 魔女の娘と悪魔の使いを焼き殺すのだ!」
「大将! クリス!勝手口からにげるぞ!」
クリスには一体何が起きているのか、コウが何故自分を抱えておじさんと走っているのか、最早理解出来る能力を遥かに越えて分からなくなっていた。
いや、分かりたくなかった。
彼女の思考が、まるで制限がかけられたかのように停止していた。
女将は、突然クリスの前からいなくなった。何故? 何故いなくなった? まだ、恩返しもしていないのに。まだ、一緒に宿で働いていないのに。まだ、一緒にピクニックにも行っていないのに。まだ……『ママ』と呼べていなかったのに。
宿が燃え盛る。たった1週間でも、クリスと女将の思い出が詰まった家……確かに、女将とクリスが親子だった証が……正義の名の下に、彼女から全てを、奪っていった。




