はじまりの神話
「た、助けて……!」
尻もちをつき、年の頃が10歳にも満たない幼い少女が懇願する。
ひらひらとしたフリルのスカートとエプロンは既に泥や枯葉にまみれ、白いソックスも一部を除いて土色に染まりきっている。背中まである銀色の髪は乱れきっており、本来ならば愛くるしいだろう顔は恐怖に歪んでいた。
眼前に迫り来る驚異の名は、体長3メートル程の黒い体毛を備えたヒグマ。先日村のみんなで開墾したばかりの新しい畑で両親が農業に従事している中、手持無沙汰だった少女はつい両親の目の届かない森の中にまでお気に入りの人形を片手に踏み込んでしまった。
村は亜寒帯の気候であるが、この日は夏らしい暑い1日だった。強い日差しから逃げたくて、つい涼しげな木々の陰を求めての事だった。
そこで出会ったのが、このヒグマだった。花咲く森の道で出会ったからと言って、ヒグマが『お逃げなさい』と言うわけでも、白い貝殻のイヤリングを御丁寧に届けてくれるわけもない。
ただ、飢えたヒグマにとっては、己のテリトリーを無粋にも土足で踏み込んだ少女は、ただのエサ以外の何物でもない。
黒い体毛から覗かせる鋭い爪が木を抉り、剥き出しの牙からはダラリと少女に食指が動かされた証が垂れ続ける。
恐怖。それだけが彼女の思考を支配する。一刻も早くこの場を逃げたい。パパやママのところに帰りたい。その一心で、少女は走り出した。ヒグマから逃げる為に。森を抜ける為に。だが、それがいけなかった。
時に『無知』というのは自らの命を危険に晒す事もある。まさにこの少女の場合がそれだ。
ヒグマは動くものに反応する習性があり、突如走り出した少女を本能のままに追いかけ始める。その巨体に似合わずヒグマとは俊敏な生き物で、最大で時速60キロメートルで走る事が可能だ。
当然そんなスピードは少女はおろか、人間ではまず出す事が出来ない。あっという間に追いつかれ、今に至るわけだ。
「いや…! いや!」
まだ未来ある少女の命。それは、何物にも代えられない人類の宝だ。それが、無残にも森の中で人知れず終えようとしている。
「お願い……! 助けて……! 神様……!!」
目を瞑り、少女は祈った。神に、自らの命を救いたまえと。少女は求めた。神に、奇跡を。少女は願った。神に、加護を。
『ガアアアアアッ!!!』
森全体に地響きが鳴り響くかのような、ヒグマの咆哮。少女の祈りを打ち払うかのように、起きぬ奇跡を否定するかのように。
木漏れ日に反射し鈍く輝く爪が振り上げられ、左右の指を絡めて神に祈り続ける少女に、神の存在を否定する残酷な現実が襲い掛かる。
その瞬間、少女は神に祈りながらも、もたげかかる死神の鎌の如き爪の恐怖に目を閉じる。
――――――――――人の心は儚い。
己が困窮した事態になれば普段存在を鼻で笑う者ですら、それに対して祈りを捧げる。
自分の宗派が何か、信奉している神の事も知らないのにとりあえず出て来る言葉は『助けて下さい神様』
調子も良ければ虫もいい話である。だが、しかし、だからこそ、人は、人であるのかもしれない。
神の存在を否定しながらも、神に縋って生きていく。この、哀れな少女の様に。だが、神は本当にいないのだろうか? 奇跡とは、起こらないものなのだろうか?
「…………え?」
少女の眼前にあったのは、無慈悲な現実ではなかった。
どぉんと大きな音と共に、少女の目の前に倒れるヒグマ。巨体はピクリともせず、まるで剥製の様に動かない。
……ヒグマは、既に事切れていた。喉元から紅の命を垂れ流しながら、横たわっていたのだ。
「いたぞ! 女の子がいたぞ!!」
森の中に大人の男性の声が響く。いなくなった少女を探して、村の大人達がこの森にやって来たのだ。
それから、無事に保護された少女は大人達から聞いた。
ヒグマは何か大きな獣によって、喉笛を食い千切られていた事。その獣は、この村の周辺では存在しない程に巨大な狼か何かである事。しかも、ヒグマをたった一撃で仕留めていた事。村の大人達は口々に『神が起こした奇跡だ』と言った。
きっとそうなのだろう。少女の願いは届けられたのだ。今日もまた、少女は祈りを捧げる。
奇跡を、加護を与えた神に、感謝を。そして、信じる心を。
★★★★★
「うん、よくやったね」
村の外で、1人の青年が獣の頭を撫でる。
――――――――――人々よ、括目せよ。
「探し物はこの世界にある」
――――――――――人々よ、耳を澄ませよ。
「さあ行こう、神の眷属、神獣よ」
――――――――――神が紡ぐ物語は、今始まったばかりだ。
初めまして、しあわせや!です。
昔別のサイトで書いた作品を、現在にアレンジしてまた書いてみる事にしました。ゆっくり更新と、まだまだ勉強中ですので、色々未熟な部分がありますが、お付き合い頂けたら幸いです。