第五章 「幸せ病襲来」
第五章 幸せ病襲来
伊崎家――。
その日、武は家に着くなり死んだように眠った。
「どこ行ってたんだろお兄ちゃん」
「さぁね・・・ずっと寝てなかったんでしょ・・・?」
遥がそう言うと、祖母は体を心配する。
そして武の携帯が鳴る。
その時、武は浅い睡眠状態にいた。
――お兄ちゃん、お兄ちゃんっ――
遥が武を呼ぶ。
《夢か・・・》
――お兄ちゃんってば!――
《うるせぇな・・・寝かせろよ・・・》
まるで夢ではなく、遥と話しているかのような感覚が続く。
―――電話だよっ!?――
《電話?・・・あっ・・・すみれ先生?》
「すみっ・・・」
武が飛び起きると、
「何寝ぼけてんの?ほら早く、鳴ってるよ?」
と、冷静に遥が携帯を渡す。
「あぁ・・・」
電話はすみれではなく、茂だった。
「なんすか?寝てないんですよ・・・」
武が電話口でそう言うと、茂はいつもより低い声で話す。
「今日は動くなよ?家族の側にいろ・・・」
「えぇ?」
武が寝ぼけ眼でまったく理解出来ずにいると、茂はひきつった声で言った。
「見てねぇのか・・・テレビつけてみろ・・・」
そして武がテレビをつけると、どのチャンネルも緊急ニュースをやっていた。
―――原因不明の死者が続出!日本全国・・・いやっ世界中で人々が次々に・・・―――
「なっ・・・なんで・・・」
それは突然、世界中に悲しみと絶望を連れて来た。
武は言葉にならず、電話を持ったまま凍りつく。
聞き取れた最後の茂の言葉・・・。
「・・・これが悲劇だ」
―――死者以外にも、原因不明の発作、嘔吐で倒れるものが病院に搬送されています!ただ・・・医者、看護師の中にも倒れるものがいる為、街中パニックに・・・―――
始まった・・・。
武はそう思い、震え上がる。
さっき吹き飛んだばかりなのに・・・。
嫌な予感はすぐに現実になった。
武達だけではない。
目の前で起こる不可解な現実に、世界中が震撼した。
世界中で緊急会見が開かれ、その原因解明を急ぐ。
次の日の朝刊、ニュース・・・。
地球は大パニックに陥っていた。
テロ、新しいウイルス性の病気、宇宙からの攻撃・・・意見は飛び交った。
この時、まだ誰も知る由もないが、向こう一年間で突然死を含め、倒れてからもがき苦しみ亡くなった者全て・・・全世界で死者およそ五億六千万人にも及ぶ事になる――。
突然の出来事から一ヶ月・・・。
調査の結果、ある事実がわかってきた。
遺族などの証言を集め、共通点が生まれる。
亡くなった人々は全て、直前に幸せを手に入れていたという事―――。
ただの偶然なのか・・・。
そして、アメリカは宛先不明の謎の電子メールを受信。
それが全世界へと流れてしまう・・・。
『人間様だと自らであおるな、所詮はただの駒に過ぎず』
こんなものは何者かのイタズラだと言う国側に対し、神の御仕置だと唱える宗教者もいる。
それはメディア等から人々の頭に叩き込まれ、刻まれてしまう・・・。
そして人々は科学での証明を求めながらも、知らないうちに自らで解決してしまう・・・。
混乱する人類がわかった事、気付いた事。
それは・・・。
『幸せになると死んでしまう』
武がニュースを見た日から二ヶ月が経つ頃、人々のやる気は完全に失せていた。
仕事で出世などしようものなら死んでしまうかもしれない。
子供を産もうものなら、病気にかかってしまうかもしれない。
人間は途方にくれながら、どこか醜い心を以前よりも持ち始めていた。
そしてその日、武は警察署のロビーで、茂と話をしていた。
「武・・・おまえが暴行してどーすんだよ」
「暴行って言うなよ、正当防衛だよ」
茂の言葉に、武が返す。
「あれから事件が増えた・・・定年が延びるなこれじゃ」
「本望だろ。もう帰っていいのか?」
「あぁ。もうみっともない真似すんじゃねぇぞ」
その後、武は署を出ると、弘樹との待ち合わせ場所に向かう。
その途中、信号待ちの車を見た。
車内には運転席に青年、助手席に老人の女性が座っており、車の前後には初心者マークのステッカーが貼ってある。
老人の孫だと思われる青年は、両手でハンドルをしっかりと握り、少し緊張していた。
それでも車内はとても明るい雰囲気で、青年は老人の顔を見ながら、そして老人は顔をしわでくしゃくしゃにしながら、共に笑顔で会話をしている。
信号が青に変わった。
青年は顔が真剣になる。
と、発進の際、緊張からかエンストしてしまう。
すると五秒も経たないうちに、後ろの車、その後ろの車が何度も何度もクラクションを鳴らし続ける。
老人はびっくりしながらとても心配そうな顔を見せ、ようやく発進できた青年はとても悲しそうな顔で、申し訳なさそうにゆっくりと走っていった。
その光景を見て、武は胸が痛くなった・・・。
歩行者信号を渡り、片道一斜線の道を歩く。
前を見ると反対車線の道が、ある車を先頭に渋滞している。
後続車を進めなくさせているのは渋滞の先頭にいる右折車だった。
そして武はふと、その右折車を見た。
運転しているのは気弱そうな老人男性。
直進車は譲ることもなく、走っていく。
『譲ってやれよ・・・』
武は心の中でそう思った。
それから五分ほど歩き、コンビニの前を通りかかった。
駐車場に250CCのバイクが停まっている。
その隣では空を見つめてタバコをふかす若い女性が座っている。
しばらくすると、コンビニの中から二十代後半くらいの男性が出てきた。
バイクの持ち主だろう。
男性が買い物袋をハンドル横にぶら下げ、バイクにまたがると、女が話しかける。
「遅いよ、あんた」
そう言い、女は男の後ろにまたがった。
武はそれを見て何故か虚しい気持ちに襲われる。
そこから坂を下り、弘樹の待つ喫茶店に着いた。
「遅せぇよおまえ」
「どいつもこいつも・・・」
弘樹が武を見るなり、「遅い」と愚痴を言うと、武は少し呆れ顔になる。
「今日は悪いな呼び出しちまって」
今日は珍しく、弘樹が武を呼び出していた。
弘樹からの誘いなど今までさほど無かっただけに、武は少し不思議に感じる。
すると、弘樹が話をし始めた。
「嫁と子供、実家に移す事にしたよ」
「え?別居?・・・どうしてまた・・・」
「うちの世界じゃ・・・幸せ病がうってつけの商売にだってなるんだよ・・・」
そして世間では、『無難に生きる』という言葉がニュースで取り上げられる。
今の世の中に対して発した首相の発言が問題になっていた。
しかし、いつからか誰もがそんな人生を望むようになり、武もその一人だった。
「こんな世の中になっちまうと、俺なんか逆に幸せだよな・・・」
武がそう言うと、弘樹は何故だと尋ねる。
「両親もいなけりゃ金も無い。幸せ病で死ぬなんて絶対無いぜ」
すると、弘樹はそれを否定した。
「それはわかんねぇぞ?」
その言葉で、うつむきながら話していた武が弘樹の顔を見ると、弘樹は目を合わせる事無く、コーヒーを揺らしながら続ける。
「人の幸せってのは形じゃ無い。まぁもっとも、そういう金があるとかの要素は必要かもしれないけどな。無難がどうのって世間じゃ言ってるけど、幸せってのはそこらじゅうに転がってる。無難に生きてたって拾っちまえばそれで終わりだ。極端に言えば、遥や香樹が今生きてる事を幸せだって感じれば、おまえだって死んじまうかもしれねぇんだよ」
武は弘樹にそう言われると、心の身動きが取れなくなる。
「現に、俺の知り合いは、結婚したけど死んでねぇ。そいつにとっちゃ幸せはそんなとこじゃねぇんだろ」
続けて弘樹がそう言うと、武は頭が混乱してきた。
幸せ病が世間に広まって以来、自分本来の気持ち、考えがほとんど逆転していたからだ。
弘樹の言葉にもっともだと感じながらも、形としての幸せというものにとらわれ過ぎていた。
それは気付かぬうちに、死ぬ事に対して恐れている証拠だった・・・。
「まぁ何にしても・・・おまえ、死ぬなよ?」
そして武は弘樹にそう言い残し店を出る。
父親が捕まった日と同じ光景の帰り道・・・親父ならこんな時どう過ごすのだろうと考えていた。
守る事、死ぬ事。
そして生きる事。
父親の大きな影を空に映し、頼るように、すがるように家へと帰った。
ちょうどその頃遥は、この間助けた子犬を自分の家で飼いたいと竜司に申し出ていた。
「別にいいけどさ・・・なんでまた急に?」
「ん~・・・弟が欲しいって言うから」
竜司の質問に、遥は困りながら照れ隠しで答える。
「・・・わかった。しっかり面倒見てあげられる?」
「うんっ!」
嬉しそうに頷いた遥に、子犬を受け渡したその時、遥のその嬉しそうな顔を見て、竜司は気が付く。
本当は、弟ではなく、遥自身が飼いたがってるという事に・・・。
子犬を抱きかかえながら、子供のように遥が竜司に話し掛ける。
「名前二人で決めようよっ。二人で助けたんだし」
「でも弟が本人で決めたいんじゃないか?」
「あ・・・いやでも・・・そうだね・・・」
竜司が病院内の片付けをしながら冷静にそう言うと、遥は少し残念そうな顔をした。
竜司はその顔を見て、
「俺、あだ名とか付けるの下手だからさ・・・その・・・いい名前思いつかないかもよ?それでもいい?」
気遣うように優しく話し掛けた。
しかしそれに対して遥は、変わらず残念そうな顔をして答える。
「ん~・・・じゃあ弟に決めさせるね・・・」
本当は、竜司も遥と二人で決めようとしていた。
逆に遥は、「迷惑なんだ・・・」と勘違いをする。
気を取り直し、遥は明るく問いかけた。
「もう怪我痛まない?大丈夫?」
「あぁ。誰かさんの看病のおかげかもね」
「私?」
竜司が笑顔で頷くと、自然と遥にも笑顔がこぼれる。
・・・嬉しかった。
自分の看病で怪我が治ったからではなく、竜司の素直な言葉がただ嬉しく感じられた。
「何笑ってんの?」
「別に?」
竜司が笑っている遥を見てそう聞くと、遥はまた笑顔でごまかす。
「さぁ、今日はもう閉めて帰ろうかな」
「うんっ、お疲れ様」
午後四時過ぎ、竜司と遥は揃って病院を出る。
各駅停車の電車を待つ駅のホーム。
台風が近づいている為、強い風が遥の髪をなびかせている。
「あのさぁ」
「ん?」
竜司が話し掛けると、遥は聞き返しながら右手で顔にかかる髪を押さえ、その後ペットボトルのお茶を飲んだ。
「今度デートしようか」
「えっ?」
ふいに竜司がそう言うと、風の強さでうまく聞こえないのと突然の事で、遥は竜司に聞き返す。
すると顔を近づけ、竜司は耳元でもう一度同じ質問をした。
そして遥はドキッとしながら、とっさではなく自分の中でとても長い時間・・・現実はほんの二、三秒での返事だったが、頭の中で二、三十分も考えていたような感覚だった・・・。
「ボボボボ・・・」と、不規則に風の音を耳に感じながら、おそらく・・・遥のその声は、竜司には聞こえなかっただろう。
「うん・・・」と頷き、竜司を見上げたその顔は、風で涙目になりながらとても穏やかだった。
優の紹介を、あれだけ断り続けていた遥の十七歳の決心。
それは恋だった――。
家への帰り道。
母親の死を目の当たりにし、泣きじゃくった夕焼け空の橋の下・・・。
あの涙は、空にかえった母親だけが見ていてくれた。
あの時の涙を救い上げるような嬉しさと切なさを、遥は一人かみ締めて歩き出す。
そして遥のいなくなった橋の下の川岸には、母親の優しい笑顔がいつまでも翳っていた――。
やがて遥が家につく頃、祖母が一人で夕食を作っていた。
遅くなった事を謝り、遥も手伝いだす。
いつものように武は香樹とおもちゃで遊んでいた。
そして四人はいつものようにテーブルを囲み、夕食を食べ始める。
変わらない事、変わった事。
変えたい事、変えたくない事。
思うようにいかない事実は、時として優しさを失くしてしまう。
膝を立てた香樹を、行儀が悪いと武は叱った。
遥は香樹と武を宥める。
香樹が優しい遥に寄り添うと、武は「頂きました」と、少しご飯を残して部屋に戻った。
そんな姿を見て、祖母が何かあったんだろうかと心配すると、遥はいつもと変わらない笑顔を見せた。
それは、祖母を心配させたくないという気持ちと、兄を優しく見守るような笑顔だった。
十分後。
食後の片付けをし、遥は武の部屋のドアをノックした。
部屋の中から武が返事をする。
「ちょっといい?」
遥がドアの向こうでそう言うと、武はドアを開け、中に入れた。
「何?」
少し冷たく武が聞く。
「どうしたの?お兄ちゃん」
「別に・・・なんか感じ違うなおまえ」
そこまで心配しているとは思えない感じの遥の問いに、武は遥を何か大人びて感じた。
それは自分が何かに戸惑っているからだろうか。
心のどこかで遥に助けを求めているかのような感覚だった。
「元気ないじゃん。らしくないよ?」
言葉遣い、年恰好は違うが、母親のような温かさが武を包み、イラついた気持ちが自然と楽になる。
「すみれ先生とはどうなの?」
「なんだよ、別にまだなんとも・・・」
楽しそうな顔で遥はそう言い、部屋の中をキョロキョロと何かを探し始める。
武が不思議に思い、何を探しているのかと聞くと、遥は笑顔で答えた。
「アルバム」
「アルバムって・・・」
「香樹が生まれた時の家族写真が見たいの」
急になんだと思いながらも、武は当時のアルバムを、しまっていた棚から取り出し遥に手渡す。
するとそのアルバムを、何も語る事無く一ページ一ページ、懐かしそうに遥はめくり始めた。
「どうしたんだよ」
優しい目をして眺めている遥に、武が少し困ったように問う。
すると遥は、写真をめくりながら打ち明けた。
「私、好きな人できた」
急なその言葉に驚きながら、武は冷静に話を伺う。
「誰?」
「お兄ちゃん知らない人」
武は何を聞いていいのかわからない。
言葉に詰まり黙っていると、今度は逆に遥が尋ねてくる。
「いいよね?」
「いいよねって・・・」
「駄目かな・・・恋しちゃ・・・」
それに対し、武は無理に気持ちを落ち着かせて答えた。
「いいも駄目もないけど・・・おまえがいいって思うなら・・・」
遥は武の言葉を聞き、微笑む。
当時の写真が見せる笑顔とはどこか違った笑顔だった。
歳を重ねたからか。
ただそれだけではない。
遥は気付いていた。
――『気持ち』は悩み、悲しみ、喜び、恋をしたりしながら成長していってる・・・――
祖母の言葉が頭に浮かぶ。
当時と笑顔がどこか違うのは、『心』が成長した笑顔だからだろう。
その顔には不安な面持ちもあり、それ以上に人を好きになるという大きな『優しさ』がある。
武はその不安と優しさを静かに受け止めた。
先を見据えたり、過去を引きずったり・・・。
今を生きるという事は、そんな全てを受け止めなければならない。
過去も未来も、意味を持たせるものは全て・・・
『今』だから。
そしてそれを受け止められた時、そこには覚悟が生まれる。
武も遥も、悲しみを拾い、そしてそれを希望にした。
昨日辛かった事、そして明日が恐い事・・・。
昨日を生きた事、そして明日死ぬかもしれないという事・・・。
それでも、人は今日を生きている。
時間に逆らわず、武も遥も今日という日を終わらせた。