上がわからない
裏日本に行ってはならない
ましてや、あの半島だけは絶対に
大切なモノを失ってしまうから
大変なモノを持ってきてしまうから
呪い塗れの半島にまつわる怪奇譚
1 海辺
私、佐伯サエコは夫のコウスケと娘のミオの三人で、裏日本の半島にある小さな集落へ来ていた。私は気乗りしなかったが、夫に押し切られた。
観光地というには何もなかった。薄曇りの空。濃紺の海。鈍色のテトラポッド。砂利混じりの浜に、打ち上げられた外国のペットボトル。昼なのに、人影がない。生臭い磯風が肌をべたつかせた。
夫だけが妙にはしゃいでいた。娘にいいところを見せたいらしく、浜に落ちていた大きな栄螺の殻を拾い上げる。
「ミオ!
貝殻を耳に当てると
海の音がするんだぞ」
私はすぐに顔をしかめた。
「汚いから、やめて」
夫は聞かない。殻を自分の耳に当てた。
「ほら。波の音がする」
ミオは今年、小学校に上がったばかり。何にでも興味を示す。父は笑って、娘の右耳にも殻を当てた。
娘は黙った。
少し長く聞いている。
夫が言う。
「聞こえるだろ」
ミオはにっこり笑って「海が聞こえる」と言った。
「これ持って帰りたい」
私は苛立った。
「持って帰らないよ。捨てて」
私は強く止めた。
「サエコは潔癖だなぁ。いいじゃないか、このくらい」と夫は言ったが、私は折れなかった。
結局、娘は泣きそうな顔で、貝殻を浜へ戻した。
2 帰路
車で半島を離れた。
後部座席のミオが耳を押さえた。
「まだ海が聞こえる」
私は、さっきの貝殻のことだと思った。
夫は軽く笑う。
「海鳴りは内陸まで届くんだよ。
天気が荒れる前とか、
低い音がずっと響いてな」
その豆知識にうんざりした。
ミオはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「海、まだ近い」
車窓の外に、もう海は見えなかった。
3 帰宅後
帰宅してから、ミオの具合が悪くなった。
耳鳴りだけではない。立ち上がるとふらつく。気持ち悪いと言う。床が上になると言う。
私は夫を責めた。
「だから、汚いものを触らせるなって言ったのに」
夫は疲れているのか、気怠げにしていた。ただ、夫自身も、ときどき耳を押さえていた。
「明日、出勤だから」と言ってすぐ寝てしまった。
翌朝になっても、ミオは具合が悪いままだった。夫も顔色が悪かった。それでも夫は出勤する。
玄関で夫は言った。
「ミオ、ちゃんと病院に連れてけよ」
その言い方が引っかかった。
——お前のせいだろうが。
口には出さなかった。
4 耳鼻科
私はミオを近所の耳鼻科へ連れていった。
待合室には高齢者と子どもが数人いた。テレビでは、感動ドキュメンタリーに見せかけた健康食品の宣伝が、小さな音で流れていた。余計にいらいらした。
ミオは私の膝に寄りかかっている。
「佐伯さーん。佐伯ミオさーん、二番診察室にお入りください」
診察室で、初老の医者は問診票を見ながら二、三の確認をした。
「旅行先で貝殻を耳に当ててから症状が出た。耳鳴り、めまい、ふらつきがある、と」
医者はまず耳鏡で耳の中を診た。
「異物はありません。炎症もない。感染症らしくもないですね」
私はむっとした。絶対にあの貝殻が原因に決まっている。
医者は聴力検査をしましょうと言った。
だがミオが、目を閉じたまま頭を振った。
「耳の中がうるさい。
見えるものが、ぐるぐる回る」
医者は聴診器を取り出した。両耳にそれをつけ、丸い部分を娘の左耳の後ろへ当てた。
しばらく聞いてから、右へ移す。
そこで眉をひそめた。
「他覚的耳鳴り……?」
つぶやきながら、何度も左右を聞き比べている。
医者は聴診器を当てたまま、私に尋ねた。
「貝殻を当てたのは、右耳ですか」
「たぶん。そうです」
私は医者の表情だけを見ていた。
医者は、何かを聞いている。
娘の耳から、聞こえるはずのないものを。
「海鳴り……?」
その直後、医者はグラグラと揺れるように椅子から転げ落ちた。
私はとっさにミオを抱き寄せた。
医者は呻きながら「今のは、何だ?」と呟いた。
看護師が呼ばれ、私たちは待合室へ戻された。
何が起きているのか知りたいのは、こっちの方だ。
5 電話
待合室で待っているあいだに、携帯が鳴った。
夫の勤める会社からだった。
嫌な予感がした。マナー違反だと思いながら、そのまま出る。
相手は混乱していた。
救急車を呼んだと言う。
夫が急に倒れたと言う。
「一体どういう状況なんですか!」
尋ねると、相手は言い淀みながら答えた。
「陸で溺れたみたいになって……」
意味が分からない。聞き返す。
「水なんかないのに、
口からゴボゴボって音がして。
床でのたうち回って、
『上がわからない』って」
その言葉を聞いた直後、ミオが待合室で頭を抱えた。
「お母さん。上がわからない」
私は携帯を落としそうになった。
6 医者からの伝言
やがて、診察室から呼ばれた。
「先生からお話があるそうです」
と看護師が言った。
医者は戻っていた。だが、明らかにおかしかった。
顔色は青黒く、脂汗をかいている。こめかみには太い血管が網のように浮いていた。目の焦点が合わず、椅子に座っているのに身体が揺れている。
「大学病院への紹介状を書きました」
医者は言った。
「普通の耳鳴りやめまいではない。メニエール病の発作に似ているが、説明がつきません」
震える手で、紹介状を差し出す。
「音なら、打ち消せるはずです。
逆位相の波を当てれば。
貝殻の形が分かれば、たぶん……」
意味が分からなかった。
「殻なら、もう捨てました」
そう言うと、医者が顔を上げた。
「捨てたァ?」
次の瞬間、医者はのけ反り椅子ごと倒れた。
医者は床の上で転がり、のたうち回った。水はない。それなのに喉の奥から、ゴボゴボという音がした。
医者は叫ぼうとした。
「上が……」
そこで、医者の耳の奥からくぐもった音がした。
ボッ。
医者の耳から、血が流れ出した。
「ミオ、見ちゃだめ!」
私は娘を脇に抱え、急いで診察室を出た。
抱きしめてあげたかった。
けれど、娘の耳に近づくのが怖かった。
7 移動
私は大学病院へ行くことだけを考えた。受付や看護師が何か言っていたが、聞かなかった。
ミオを後部座席に座らせ、シートベルトを締める。
手が震えていることに気づいた。
夫のせいだと思った。
いや、自分のせいかもしれないとも思った。
あのとき、もっと強く止めればよかった。怒鳴ってでも止めるべきだった。夫から貝殻をもぎ取って、海へ投げ捨てればよかった。娘が泣いても、耳に当てさせなければよかった。
でも実際に私がしたのは、持ち帰らせなかったことだけだった。
医者の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
貝殻の形が分かれば。
持ち帰っていれば、助かったのだろうか。
分からない。
分からないまま、車を出した。
8 車内
娘は後部座席で、小さくうめいていた。
「海が大きい」
私は前だけを見る。
「もうすぐ病院だから」
「お母さん。上がわからない」
返事をしようとしても、声にならなかった。
後ろで、娘の息が乱れる。水の中で息をしようとするような音がする。
ゴボ、ゴボ。
私はハンドルを握る手に力を入れた。
振り返ってはいけない。前を見ていなければいけない。
そのとき、後部座席で鈍く湿った音がした。
ボッ。
私は反射的に振り返った。
娘の頭が、窓にもたれていた。
その瞬間、対向車のクラクションが鳴り響いた。
9 そして
ガシャン、という衝突音は、あまりにも安っぽかった。
砕けたフロントガラス。
鳴り続けるクラクション。
路面に散ったガラス片。
救急車のサイレン。
救急隊員の声。
スマホを構え、録画する野次馬。
その中の誰かが言った。
「……波の音がする」
(了)




