表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
PR

上がわからない

作者: まいきー
掲載日:2026/08/27

裏日本に行ってはならない

ましてや、あの半島だけは絶対に

大切なモノを失ってしまうから

大変なモノを持ってきてしまうから


呪い塗れの半島にまつわる怪奇譚

1 海辺


私、佐伯サエコは夫のコウスケと娘のミオの三人で、裏日本の半島にある小さな集落へ来ていた。私は気乗りしなかったが、夫に押し切られた。


観光地というには何もなかった。薄曇りの空。濃紺の海。鈍色のテトラポッド。砂利混じりの浜に、打ち上げられた外国のペットボトル。昼なのに、人影がない。生臭い磯風が肌をべたつかせた。


夫だけが妙にはしゃいでいた。娘にいいところを見せたいらしく、浜に落ちていた大きな栄螺の殻を拾い上げる。


「ミオ!

 貝殻を耳に当てると

 海の音がするんだぞ」


私はすぐに顔をしかめた。


「汚いから、やめて」


夫は聞かない。殻を自分の耳に当てた。


「ほら。波の音がする」


ミオは今年、小学校に上がったばかり。何にでも興味を示す。父は笑って、娘の右耳にも殻を当てた。

娘は黙った。

少し長く聞いている。

夫が言う。


「聞こえるだろ」


ミオはにっこり笑って「海が聞こえる」と言った。


「これ持って帰りたい」


私は苛立った。


「持って帰らないよ。捨てて」


私は強く止めた。


「サエコは潔癖だなぁ。いいじゃないか、このくらい」と夫は言ったが、私は折れなかった。


結局、娘は泣きそうな顔で、貝殻を浜へ戻した。


2 帰路


車で半島を離れた。

後部座席のミオが耳を押さえた。


「まだ海が聞こえる」


私は、さっきの貝殻のことだと思った。

夫は軽く笑う。


「海鳴りは内陸まで届くんだよ。

 天気が荒れる前とか、

 低い音がずっと響いてな」


その豆知識にうんざりした。

ミオはしばらく黙っていたが、やがて言った。


「海、まだ近い」


車窓の外に、もう海は見えなかった。


3 帰宅後


帰宅してから、ミオの具合が悪くなった。

耳鳴りだけではない。立ち上がるとふらつく。気持ち悪いと言う。床が上になると言う。

私は夫を責めた。


「だから、汚いものを触らせるなって言ったのに」


夫は疲れているのか、気怠げにしていた。ただ、夫自身も、ときどき耳を押さえていた。

「明日、出勤だから」と言ってすぐ寝てしまった。


翌朝になっても、ミオは具合が悪いままだった。夫も顔色が悪かった。それでも夫は出勤する。

玄関で夫は言った。


「ミオ、ちゃんと病院に連れてけよ」


その言い方が引っかかった。


——お前のせいだろうが。


口には出さなかった。


4 耳鼻科


私はミオを近所の耳鼻科へ連れていった。

待合室には高齢者と子どもが数人いた。テレビでは、感動ドキュメンタリーに見せかけた健康食品の宣伝が、小さな音で流れていた。余計にいらいらした。

ミオは私の膝に寄りかかっている。


「佐伯さーん。佐伯ミオさーん、二番診察室にお入りください」


診察室で、初老の医者は問診票を見ながら二、三の確認をした。


「旅行先で貝殻を耳に当ててから症状が出た。耳鳴り、めまい、ふらつきがある、と」


医者はまず耳鏡で耳の中を診た。


「異物はありません。炎症もない。感染症らしくもないですね」


私はむっとした。絶対にあの貝殻が原因に決まっている。


医者は聴力検査をしましょうと言った。

だがミオが、目を閉じたまま頭を振った。


「耳の中がうるさい。

 見えるものが、ぐるぐる回る」


医者は聴診器を取り出した。両耳にそれをつけ、丸い部分を娘の左耳の後ろへ当てた。

しばらく聞いてから、右へ移す。

そこで眉をひそめた。


「他覚的耳鳴り……?」


つぶやきながら、何度も左右を聞き比べている。

医者は聴診器を当てたまま、私に尋ねた。


「貝殻を当てたのは、右耳ですか」

「たぶん。そうです」


私は医者の表情だけを見ていた。

医者は、何かを聞いている。

娘の耳から、聞こえるはずのないものを。


「海鳴り……?」


その直後、医者はグラグラと揺れるように椅子から転げ落ちた。

私はとっさにミオを抱き寄せた。

医者は呻きながら「今のは、何だ?」と呟いた。

看護師が呼ばれ、私たちは待合室へ戻された。


何が起きているのか知りたいのは、こっちの方だ。


5 電話


待合室で待っているあいだに、携帯が鳴った。

夫の勤める会社からだった。

嫌な予感がした。マナー違反だと思いながら、そのまま出る。


相手は混乱していた。

救急車を呼んだと言う。

夫が急に倒れたと言う。


「一体どういう状況なんですか!」


尋ねると、相手は言い淀みながら答えた。


「陸で溺れたみたいになって……」


意味が分からない。聞き返す。


「水なんかないのに、

 口からゴボゴボって音がして。

 床でのたうち回って、

 『上がわからない』って」


その言葉を聞いた直後、ミオが待合室で頭を抱えた。


「お母さん。上がわからない」


私は携帯を落としそうになった。


6 医者からの伝言


やがて、診察室から呼ばれた。


「先生からお話があるそうです」

と看護師が言った。


医者は戻っていた。だが、明らかにおかしかった。

顔色は青黒く、脂汗をかいている。こめかみには太い血管が網のように浮いていた。目の焦点が合わず、椅子に座っているのに身体が揺れている。


「大学病院への紹介状を書きました」


医者は言った。


「普通の耳鳴りやめまいではない。メニエール病の発作に似ているが、説明がつきません」


震える手で、紹介状を差し出す。


「音なら、打ち消せるはずです。

 逆位相の波を当てれば。

 貝殻の形が分かれば、たぶん……」


意味が分からなかった。


「殻なら、もう捨てました」


そう言うと、医者が顔を上げた。


「捨てたァ?」


次の瞬間、医者はのけ反り椅子ごと倒れた。

医者は床の上で転がり、のたうち回った。水はない。それなのに喉の奥から、ゴボゴボという音がした。

医者は叫ぼうとした。

「上が……」

そこで、医者の耳の奥からくぐもった音がした。


ボッ。


医者の耳から、血が流れ出した。


「ミオ、見ちゃだめ!」


私は娘を脇に抱え、急いで診察室を出た。

抱きしめてあげたかった。

けれど、娘の耳に近づくのが怖かった。


7 移動


私は大学病院へ行くことだけを考えた。受付や看護師が何か言っていたが、聞かなかった。


ミオを後部座席に座らせ、シートベルトを締める。

手が震えていることに気づいた。


夫のせいだと思った。

いや、自分のせいかもしれないとも思った。

あのとき、もっと強く止めればよかった。怒鳴ってでも止めるべきだった。夫から貝殻をもぎ取って、海へ投げ捨てればよかった。娘が泣いても、耳に当てさせなければよかった。


でも実際に私がしたのは、持ち帰らせなかったことだけだった。


医者の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


貝殻の形が分かれば。


持ち帰っていれば、助かったのだろうか。

分からない。

分からないまま、車を出した。


8 車内


娘は後部座席で、小さくうめいていた。


「海が大きい」


私は前だけを見る。


「もうすぐ病院だから」


「お母さん。上がわからない」


返事をしようとしても、声にならなかった。

後ろで、娘の息が乱れる。水の中で息をしようとするような音がする。


ゴボ、ゴボ。


私はハンドルを握る手に力を入れた。

振り返ってはいけない。前を見ていなければいけない。

そのとき、後部座席で鈍く湿った音がした。


ボッ。


私は反射的に振り返った。

娘の頭が、窓にもたれていた。

その瞬間、対向車のクラクションが鳴り響いた。


9 そして


ガシャン、という衝突音は、あまりにも安っぽかった。

砕けたフロントガラス。

鳴り続けるクラクション。

路面に散ったガラス片。

救急車のサイレン。

救急隊員の声。

スマホを構え、録画する野次馬。

その中の誰かが言った。


「……波の音がする」


(了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ