表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

喪失

帝都から離れるにつれて、道が荒れていく。

城壁の影が完全に消え去るまで歩き続けた頃。


足取りは重い。

それは衣服のせいだけではなく、

腰にぶら下げられた“鉄の棒“のせいでもあった。


断罪の場で投げ与えられた、

錆びた鉄剣。

それはただの重石に等しかった。

だが今は、このなまくらだけが、

夢から醒めきらずに済むための重りだった。


激しく咳き込むとともに、胃の奥がきしんだ。


温かい食事に慣れた腹は、

霧の冷たさでは誤魔化せないらしい。


空腹で、

空に黒い染みが滲んだ。


「戻っただけだ……。

 何も、失ってなどいない。」


そう言い聞かせなければ、

立っていられなかった。


街道の脇に、ひっそりと白い花が咲いていた。

叩きつけるような雨に打たれ、

誇りなどとうに剥げ落ちているはずなのに、

まだ細い茎をのばしながら、

こんな世界でも“生き残ろう“としている。


「馬鹿だな……」


この花、前もどこかで見たことがある気がする。

どこかは忘れてしまった。


霧の中に咲いた白い花を、

踏みつけそうになって、

とっさに足を引いた。

こんなものにまだ気を遣えるらしい。

そう思いながら、歩幅を変えて進む。


霧の向こうで、

風の流れが不自然に淀んでいるのに気づいた。


獣でも、倒木でもない。


——人だ。


無意識に、足取りが変わる。


道に横たわるそれが、

ぼろ布を纏った老人だと分かった。


(助けるべきか。だが、俺になんの得がある?感謝などされるはずがない……)


俺は一度、足を止め、視線を逸らそうとした。

しかし、呪いのような善性が、また胸の奥で疼いた。


「おい、大丈夫か……?」


老人の腕には焼き焦げたような跡ある。

それは、まるで何かの―――

胸の奥が、理由もなくざわつき、続きを考えるのをやめた。


「……ヴェイル……モント……

 あそこへ……行くはず、だった……」


「ヴェイルモント…?あんたも、そこを目指しているのか?」


「目指していた……

 だが……たどり着けなかった……」


「お前の腰にある……それを……なまくらだと思うな……

 ……ああ、まだ冷たい……」


老人は、なぜか剣から手を離さず、

かすれた声で続けた。


「だが……お前の中の”熱”が……

 いつか……火を――」


「おい!なんだ!?」


老人は、そのまま時が止まったように動かなくなった。



俺は見知らぬ村に辿り着いた。


寄せ集めの石と、腐りかけた木材で組まれた、

墓標のような村だった。

騎士団の白馬で駆け抜ければ、

数瞬で通り過ぎてしまうほどの小さな集落。


村の入り口に立つと、

その視線は、

かつて城門で浴びた”歓声”とは違う。


ただ、

「厄介ごとが来た」

という類のものだった。


「……違う」


そう言いかけて、

口を閉じる。


訂正するほどの言葉を、

俺はもう持っていなかった。



村外れで、道はゆるやかに川へ落ちていた。


雨上がりだというのに、

水は不思議なほど澄んでいて、

底の小石まで、はっきりと見えた。


俺は膝を折り、

川縁にしゃがみ込んだ。


水面に映ったのは、

見慣れたはずの顔だった。

だが、


削ぎ落とされたものだけが残ったような顔。

ただの”人間”の輪郭。


水は、何も問いかけてこない。

ただ、

そこにあるものを、

あるがままに映しているだけだ。


指先で水に触れると、

輪郭はゆっくりと崩れ、

すぐにまた静かに戻った。


――すると、

手の甲に、黒ずんだ痕があることに気づいた。


傷ではない。

汚れでもない。


皮膚の奥に沈んだ”印”のようだった。


(……さっきの老人の……)


同じ場所。

同じ形。

だが、微妙に違う。


あの老人の印は、ひび割れたように歪んでいた。

俺のそれは、まだ輪郭を保っている。


俺はそれを強くこすった。


しかし、消えることはない。


「何なんだ……」



村に戻った頃、

村人の怒号が村中に響き渡った。


「このクソガキが!また食べ物を盗みやがって!

 これはうちの子のなんだぞ!」


「お前みたいな”ゴミ”がいるから、

 この村はいつまでたっても楽にならねぇんだ!」


囲まれた子供は、

言い訳も、涙も、もう出てこない顔をしていた。

蹴られるたびに、小さな身体が土の上を転がる。


止めに入る者はいない。

誰もが”正しい側”に立っているつもりだった。


この村では、

これが当たり前で、

それ以外のことを知らないのだ。


俺は一歩、踏み出しかけて、止まった。


ここで剣を抜けば、

俺はまた”騎士”になる。


ここで目を逸らせば、

俺は”元の自分”に戻る。


あの背中を思い出してしまった時点で、

もう逃げ場はなかった。


俺は、

剣から手を離した。


その瞬間、視界が白むほどの「熱」が走った。

剣ではない。

それを握ることを放棄した、俺の手の甲だ。


(お前も助けろと言ってるのか……?)


皮膚の裏側で、どろりと溶けた鉄が流れ、

焼印を押し当て直されるような痛みに、奥歯が軋む。


その熱は、

俺が子供を庇うように一歩踏み出すたび、

より一層激しく脈打った。


代わりに、

殴り上げられた腕の前に出る。


「……もういい」


声は、自分でも驚くほど低かった。


男がこちらを見る。

初めて、

”異物”を見る目だった。


「何だてめぇ、関係ねぇだろ」


その通りだ。

関係ない。


それでも


俺みたいな人間をこれ以上増やしたくないだけだ。


「その子供を殴るなら、代わりに俺を殴れ。痛みには慣れて――」


重い拳が頬にのしかかる。


「銀貨だ。それで許してやる。」


男たちの足音が遠ざかり、

取り囲んでいた村人たちも、興を削がれたように散っていく。

そこにあるのは正義の達成感ではなく、

ただの日常への回帰だった。

村には再び重苦しい静寂が戻る。


残されたのは、

なけなしの銀貨を失った俺と、

泥まみれの子供だけだった。


「大丈夫か……?」


子供は少しだけ頷き、地面に落ちた干し肉を少し分けてくれた。


「あ………ありがとう」


感謝か………

その言葉を聞いたのは、

何か月ぶりだろうか。


「ねぇ、ついて行ってもいい?……名前、なんていうの?」


「名乗るほどの名前はない。……離せ、

 俺について行っても、お前が不幸になるだけだ」


「じゃあ、兄さん!」


その響きが、耳の奥でひどく不快に震えた。


「俺のことを兄さんなんて呼ぶのはやめろ、

 ……俺は、誰かの兄でいられるような人間じゃない」


「それでも、兄さんは兄さんだ

 助けてくれた。兄さんじゃなきゃ、誰が助けてくれたの?」


子供の声は小さかった


「村のみんなは、家族もいない僕に石を投げた。

 ……でも、兄さんだけは違った。

 だから……兄さんなんだ。名前なんて、知らない」


「……勝手にしろ。お前、名前は?


「アレン!」


小腹を満たし、俺は村唯一の宿屋に向かった。

せめて一日、

屋根の下で眠りたかった。


宿屋の扉を開けると、

安酒と、獣臭が鼻をつく。


「……一晩、頼みたい」


俺が口を開くより早く、そいつは顎で出口を指した。


「あいにくだが、空きはねぇよ」


「……金なら払う。銀貨はないが、これなら」


俺は袋に残った数少ない銅貨を差し出そうとした。

だが、主人はそいつを手で遮り、ひどく冷めた声で吐き捨てた。


「飲み食いなら売る。

 だが泊めるとなると話は別だ。

 この村じゃ、名前も知らない、

 身元の分からん流れ者は泊めねぇ決まりでな。

 ……それに、その剣を帯びた客は、面倒を連れてくる」


「名前ならカ、いや……何でもない……」


「お前らみたいな”厄介者”を置いといて、

 夜中に村の連中が殴り込んできたら、うちの店が保たねぇんだ。

 さっきの男は執念深い。……あんたが何を言おうが、

 あんたの存在自体が、俺たちには”毒”なんだよ」


毒か。

その言葉が、なまくらの剣よりも熱く深く胸に刺さった。

いつも、俺の隣にいた奴から死んでいった


俺は差し出しかけた手を、静かに引っ込める。

反論する言葉も、食い下がる気力も、

もう残っていなかった。


「……そうか」


背を向ける前、喧騒の奥で、商人たちの声が耳に引っかかった。


「ヴェネリアのクロード卿……今や総督の懐刀だ

 元は名もなき傭兵だとよ。だが、あいつの目は……英雄の目じゃねえ」

 獲物を狙う、ハンターの目だ」


「……いや、ありゃあ”鴉”の目だな。死肉を漁って肥え太る、薄汚い野心家の目だ」


「鴉……いや……奴は、死んだ」


誰に聞かせるでもなく、呪文のように呟く。

自分が「ラザロ」という名を得たあの日、あの男も、

あの地獄のような日々も、すべて終わったはずなのだ。


外へ出ると、

いつの間にか夜が降りていた。

村の窓からは、次々と灯りが消えていく。

どの扉も、どの窓も、

俺を拒むように固く閉ざされていた。


宿屋の戸を閉めると、背後で低いざわめきが残った。


「……書状だって」

「あの印は、間違いない」


名前までは聞き取れない。

だが、その響きに、胸の奥がわずかに軋んだ。



結局、俺達が辿り着いたのは、川だった。

村の灯りが霧の向こうに遠ざかり、

人の気配が完全に消えた場所に、その巨木は立っていた。

葉が夜風に揺れて微かな音を立てている。


俺は樹の根元に腰を下ろし、湿った地面に外套を広げた。

背中に伝わるゴツゴツとした樹皮の感触が、

宿屋の主人の冷たい視線よりも、今はいくらか優しく感じられた。


なまくらの剣は、月明かりを受けても光らない。

刃こぼれを隠すように、鈍い影をまとっている。


研いだところで、

何も変わらない。

それは、よくわかっている。


それでも、

何もしないよりは、

手を動かしていたほうがましだった。

研ぎ石を当てた瞬間、

掌の痕が、じわりと熱を帯びた。


なぜか、霧の中で聞いたかすれた声が脳裏をよぎる。


熱は刃へと伝わり、

鉄が、低く唸るような音を立てる。


俺は思わず手を離した。


触れれば火傷するほどではない。


だが――

確かに”異様な熱”だった。


「……熱い。

 まるで、この鉄を溶かし、

 作り直せとでも言うようだ」


剣を置き、

俺はしばらく、

手の甲を見つめていた。


黒ずんだ痕は、

もう何事もなかったかのように、

皮膚の奥へ沈んでいる。


それが余計に、不気味だった。

まるで、

”次に燃える場所”を知っているかのように。


「……ああ、まだ冷たい……」


(あの老人の言っていたことはいったい……)


「あいつの言ったことが本当なら……出ろ。熱くなれ……!」


俺は手の甲の痕を睨みつけ、血管が浮き出るほど右手に力を込めた。

かつての高潔な祈りではない。

泥を啜ってでも生きようとする、獣の叫びに近い渇望。


皮膚の裏で、微かに火種が跳ねた気がした。


「……っ!」


柄を握る掌から、

じわりと熱が滲んだ。


その瞬間、

なまくらの刃に張りついていた赤錆が、

ぱらり、と剥がれ落ちる。


「……気のせいだ」


そう呟いたが、

足元には、確かに錆の欠片が転がっていた。


風が止んだ。


それだけなのに、

背中に、ひやりとしたものが走る。


振り返っても、林しかない。


それでも、

何かがこちらを見ていたような気がして、

俺は一歩だけ、霧の中へ踏み出した。


「……おい、騎士さんよ」


湿った重い声が、背後から突き刺さった。

霧の向こう、立ち並ぶ樹々の影が、ぐにゃりと歪んで人の形になる。

一人ではない。三人。


帝都を追放された騎士を、街道のハイエナたちが逃すはずもなかった。


「一文無しとは言わせねぇぞ。その立派な格好を脱いでもらおうか」


俺は咄嗟になまくら剣に手をかけるが、抜けない。

焦って鞘を引く。だが、湿った布が絡みついたように、刃は微動だにしなかった。


――違う。


反射で踏み込もうとして、身体がもつれる。

かつての型が、今の身体には重すぎた。


「何だ?抜けねぇのか?」


男の一人が嗤う。

距離を詰めてくる足取りが、どこか甘い。

踏み込みが浅い。間合いの取り方も、獲物を知らない。


(……素人だ)


胸の奥で、忘れていた感覚が目を覚ました。

狩る側の目。

逃げ道の匂いを嗅ぎ分ける、獣の感覚。


「……なってないな」


思わず、低い声が漏れた。


「囲むなら、背中を塞げ。

 それじゃあ、逃げろと言ってるようなもんだ」


一瞬、ならず者たちの動きが止まる。

理解できない言葉を投げつけられた犬のような顔。


「頭おかしくなってんじゃねぇのか?ほら、金だ。

 それとも、騎士様ってのは、財布の底まで綺麗にして歩くもんか?」


「……金ならない。

 残念だが、もうあげてしまった」


そう言い、腰の袋を弄る。

残っているのは、数枚の銅貨だけだ。

帝都の華やかな市場なら、一瞬で消えてなくなるような端金。


「……舐めてんのか?」


次の瞬間、視界が歪んだ。

頬に、鈍い衝撃が走る。


殴り飛ばされ、泥水に顔を突っ込んだ。

反射的に受身を取ろうとした手が、ぬかるみに深く沈む。


(……今の俺は、ただの泥だ)


石畳の訓練場で、ラウルと木剣を交わしていた日々が、あまりに遠い。


(なら、泥らしく戦ってやる)


「……頼む。殺さないでくれ」


声が震える。

演技じゃない。

情けなさに、喉が勝手に絞られる。


――剣を取れ、と。

どこかで、まだ騎士だった頃の自分が喚いていた。


「生き残るのは、いつも『賢い』奴だ」


「あぁん?」


油断したその瞬間、手が動いた。


懐を漁るふりをして、指先に絡めていたのは”泥”だ。

騎士の礼節など微塵もない。男の顔面にぬかるんだ泥を叩きつけた。


「ぐあぁっ!?」


目を抑える男の膝裏を、容赦なく蹴り抜く。

倒れ込んだ男の首筋に、鞘に入ったままのなまくら刀を叩きつける。

抜けない剣なら、ただの鉄の塊として使えばいい。


「……悪いな。

 俺はもう、自分が何者だったかも、よく分からなくなってる」


俺は、泥にまみれたなまくら刀の切っ先を、倒れた男の喉元に静かに置いた。

抜けてすらいない、鞘に収まったままの鉄の塊。それがかえって、

いつ振り下ろされるかわからない不気味な鈍器として男を震えさせる。


――殺せ。


それは声というより、

考えたくない時に浮かぶ”結論”だった。


殺せば終わる。

助けなければ、熱は来ない。


俺はそれが自分の思考だと分かっていた。

分かっていて、そこに手を伸ばしかけた。


怯える残りの二人に、俺は視線すら向けずに告げた。


「……おい。こいつを連れて失せろ

 俺は今、ひどく腹が減っていて、気が立っている。

 ……今日は、ほとんど口にしていない」


「……い、いくぞ!」


一人が震える声で叫び、

仲間を抱え上げるようにして霧の奥へと逃げ出した。

濡れた草を踏み荒らす音が遠ざかり、

やがて夜の重い静寂が、再び街道を支配する。


俺は、なまくら刀を構えたまま、しばらく動けなかった。

泥を投げ、命乞いを演じ、無防備な急所を狙い打つ。


深く息を吐き、俺は樹に背を預けて顔を上げた。


そこには、息を呑むような星空が広がっていた。


空はどこまでも深く、

澄み渡っている。


あの星の光は、

人間が何をし、何を失おうとも、

ただ、あるがままに光を放っているだけだ。

それは、さっきの川と同じだった。


「…これで、お前はようやく自由だ」


(なんだ、今の?)


誰かの声が聞こえる。

どこかで聞いたことがあるような。

いや、気にしてもしょうがない。


俺は剣を抱きしめるようにして、マントを深く被り直した。

硬い樹の根が、背中に痛いほど食い込む。

宿屋のシーツの香りはしない。

暖炉の火照りもない。


だが、不思議と心は穏やかだった。


——ヴェイルモントへ。


あいつの声が、霧の向こうから聞こえた気がした。


「……二人で、だ」


言葉にした途端、胸の奥が少しだけ軋んだ。

約束だったのか、それとも、ただの夢だったのか。

今となっては、確かめる術もない。

そこに行けば、この泥にまみれた魂も、少しは軽く見えるのだろうか。


俺はゆっくりと目を閉じた。

意識が闇に沈んでいく間際、遠くで川のせせらぎが聞こえた気がした。

それは、誰の耳にも届かない、

小さな、けれど確かな”世界”の音だった。


「起きて!ねぇ、起きて!」


「―――兄さん!」


目を開けると、夜霧は薄れ、空が白み始めていた。

川辺の土に、見慣れない靴跡がいくつも残っている。

俺のものではない。


……近い。


そう思った瞬間、

遠くで、低く短い角笛の音が響いた。

心臓が、

いつもより強く打つ。


それに引っ張られるように、

体の奥が、じわりと目を覚ました。


——速い。


泥に沈んでいた足が、

思っていたよりも軽く前に出る。


視界の端で、

霧の向こうの葉が揺れたのが分かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ