さくい
「それはさくいだよ」
喫煙所でタバコを吸っている時、そいつは現れた。
周りを見渡しても喫煙所には俺しかいない。
とんでもない電波に絡まれたと思ったけど、不思議と嫌悪感はない。
「なんでタバコを吸うの?」
意に介さず、そいつは言葉を続けた。
何故?何故だろう。
単純な理由としては、イライラするからだ。
何故こうも不機嫌なのか、それは分からない。
ニコチンが切れたからだ、と聡明な人は言うだろう。
「それはさくいだよ」
そう言うと、そいつは喫煙所から立ち去っていった。
俺は吸い込みもしないタバコを咥えて、そいつが視界から消えるのを待っていた。
イライラは日々積もる。
仕事のストレス、友人関係のストレス、家族間のストレス、それは全くもって良好だ。
仕事も順調で来期から支店長になる。
友人も多く、色んな趣味を介して交友関係もどんどん広がっていく。
妻の親族との関係もよく、来月に子供も生まれる。
全くもって、良好だ。
なのに何故、こんなにもイライラしているのか。
「それはさくいだよ」
日課のジムでトレーニングをしている時、そいつが話しかけてきた。
熱った身体をタオルで拭き、ドリンクで喉を潤す。
「どうして、イライラしてるの?」
何故だ。
何故こんなにもイライラしているのか。
溢れるモノに蓋をするように、自分の狂気を薄めるように、日々トレーニングを繰り返している。
常に何か起こしていないと、静寂の中から何かがやってくるかのような。
「それはさくいだよ」
そう言うと、そいつはベンチから離れていった。
何故だ、何故こうも俺は不機嫌なんだ。
家庭でも心から笑えない。趣味でも心から楽しめない。仕事のミスでも心から落ち込めない。
常に心に引っかかっている。
常に胸に靄がかかっている。
常に魂に脂肪が乗っている。
日常が充実すればするほど、
振り切ろうとすればするほど、
その影が、段々とイライラとなり、日々積もっていく。
理解している。
いつかは溢れる。
積もったこれは消えることはない。
だからあいつが現れたんだ。
「それはさくいだよ」
溢れるさくいを止める為でもない。
積もったさくいを消す為でもない。
意味なんてなく、ただの事象として存在しているだけなんだ。
いつかは溢れる、薄っすらと感じていたある夜。
そう、それは溢れた。
さくいが溢れたんだ。
ギリギリまで溜まり、表面張力で引っ張られるようなこともなく、まだまだ余力があるかと思っていた矢先、ポップコーンのように弾け飛んだ。
「それはさくいだよ」
死ぬ。本気でそう思った。
溢れ出すさくいを吐き出す為に洗面所に駆け込む。
指を喉に突っ込み嘔吐反射でさくいを吐き出す。
しかし、何も吐けない。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。
喉の奥が無機質のような、舌がゴムのように苦く、自分の身体が自分の意識下にないような。
不機嫌が具現化し、身体の中を犯していく。
死ぬ、吐かないと本当に死ぬ。
溢れるさくいを吐き出すことも出来ず、このまま死ぬんだ。
死ぬ、本当に死ぬ。
洗面所で顔をあげると真っ赤な顔で死にかけている俺と、それを心配そうに見つめている妻。
死ぬ、助けてくれ。
そんな妻を押し除けるように、
息が出来ず機能が低下した脳に、
鼓膜の内側から鮮明な声で、
いつものようにBaka Rackは俺に囁いた。
「それは殺意だよ」
その晩、
俺は笑った。
魂が震えるほど。




