消失
至福の安眠を妨げる現実に叩き起こされて、無造作にアラームを消す。
そしてスヌーズ開始だ、よーいドン。
世界で1番短い5分間。
ハンディキャップは私の布団。
世界一の重力なんだ。
それに打ち勝ち立ち上がり、ボサボサ頭を掻きむしってTVを付ける。
6:58。
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらないキャスター。
洗面所に行き、冷たい水で顔を洗う。
張り付いた喉を潤すように、お湯うがい。
さぁ、やっと起きてきたね、私。
何も変わらない朝のルーチン。
本当に辟易するほど変わらない朝。
だけど、洗面所の鏡に私はいないんだ。
いつからだろう。
鏡に私が映らないようになったのは。
ある日、職場のトイレで用を足し、手を洗っていた時に違和感があった。
何かが足りない。
同僚が私の後ろを通ったのが鏡越しに見えて気付いた、私がいない。
透明人間になったのだろうか?
そう思った私。
デスクに戻ると誰も私を見ないし気にかけない。
あー、死んだ?と思ったけども。
普段から誰も私を見ないし気にかけない。
平常運転なんだよ、これがね。悲しいね。
だけど、上司は変わらず私の机に書類を積む。
あー、よかった。私はいるのね。仕事はめんどいね。
その日から、鏡から私は消えた。
困った不便だ大変だ。
案外それはないんだな。
普段からあまり化粧をしない私。
むしろ大義名分もらってラッキーハッピー。
すっぴん30代のお通りです。
それでいいんだ。
今まで体裁ばかり見繕って、好きでもない異性に向けた化粧。
流行り廃りの使い捨てを追いかける同性との付き合い。
それが全て消えたんだ。
他人の目ばかり気にして、インターネットの口コミが全てで、自分で決めるものが何一つなかった。
そんな私が消えたんだ。
それから生活は一変し、何に対しても、誰に対しても臆することはなくなった。
私はそう、透明人間。
皆の目に映っているけど、誰の目にも映らない。
そう思うと気が楽で、身も心も軽くなった。
数年の時が経ち、私の影も消えてきたころ。
私には人生を共にしたいと思える彼が出来た。
同じ会社の2つ歳上の先輩社員。
奥手の私には高嶺の花。
そう思っていたけれど、見繕わなくなって、自分を出して、それを愛してくれて。
もう付き合って1年半が過ぎ、彼はどう思っているのだろう。
不安だが、期待もする。
お互いに良い歳だ。
不安だが、幸せだ。
そんな想いで胸を温めながら料理を作る。
彼がお風呂から上がったら2人で食べるんだよ。
そんな浮かれた私がふと、リビングに目をやると、テーブルの上で彼の携帯電話が置いてある。
何故だろう。
魔が刺してリビングへ向かう。
お風呂場から、まだシャワーの音がする。
心に急に毒が芽生える。
見たらダメだと思いつつ、高まる胸を抑えつつ、彼の秘密の箱を開いてしまった。
心のどこかで思っていたのかもしれない。
彼が何故私を選んだの、と。
言い訳を並べてクズを正当化した私が開いた彼の携帯。
そこに映っていたのは、
満面の笑顔の彼と、知らない女の嫌な顔。
目を瞑る、あぁダメだ。
そうだ、思い出した。
ダメだった、昔の私を思い出した。
何度も裏切られてきて、何度も興味をなくされて、何度も傷つけられてきて。
だから誰にも本音を見せず、言わずに生きてきた。
せっかく変われたと思ったのに、本当に馬鹿な夢を見てしまったよ。
温めていた胸は焦げ、焦げついた棘は胸を刺す。
ダメよ、貴方は私のもの。
誰かのものになるなんて、そんな馬鹿な話はないでしょう。
湯船に浸かる彼に聞く。
私の右手に光る棘をみて、彼は驚き何か言う。
あんなにも温もりがあった彼の言葉も、今の私には届かない。
さようなら、最後に一言。
「 Baka Rack が悪いのよ」
愛を作っていた銀色の棘。
それが、彼の胸に深く深く届きました。
真っ赤に染まった湯船に浮かぶ貴方。
まだまだ暖かい。
ヌルヌルと貴方の血が私の爪を犯してくる。
それはとても、とても大事なこと。
彼との情事を終えて、果てた私。
そろそろ私も行かないと。
立ち上がり、不意に横を見てみると、
風呂場の鏡に、携帯電話の女が映っていた。




