なぜ貴方はタヌキと呼ばれるようになったのか?
これは、特別なことのない、ありふれた毎日の物語です。
けれど、目の前の何気ない出来事の中には、ふと心が揺れる瞬間や、小さな奇跡が隠れています。
登場人物たちの笑い声やため息、悩みや小さな喜びに、あなた自身の日常を重ねながら、どうぞゆっくりとページをめくってください。
初めての高校生活。
これからどんな人たちと出会い、どんな物語が始まるのか――そう考えるだけで鼓動が速くなる。
いつも冷静だと言われる私らしくなく、少し落ち着かない。
本当は電車で通うのに憧れていた。けれど地元には駅がない。
仕方なくスクールバスで通うことになったが、初めて乗るバスに少しだけ胸が躍る。
学校指定の停留所で待っていると、一台のバスがプシューと音を立てて停まった。
重たそうな扉がゆっくりと開き、私は小さく息を吸って乗り込む。
車内には、同じ制服を着た生徒たちが座っていた。
当たり前のことなのに、その光景を見た瞬間、私はこの学校の一員になれた気がして少し誇らしかった。
空いていた一番奥の席へと向かう。
スマホを見ている人、イヤホンをして音楽を聴いている人。
みんなそれぞれの朝を過ごしていた。
学校に着くと、一斉にバスから人が降りていく。
階段を一段ずつ降りるたびに、心臓の音がどんどん大きくなるのがわかる。
空は晴れ、桜が咲いていた。
教室に入ると、黒板にクラス全員の名前と番号が書かれていた。
自分の名前を探すのに少し時間がかかり、ようやく見つけてほっとする。
席に座ると、隣の子が声をかけてきた。
「初めまして。私、冬佳。お隣さん、これからよろしくね」
明るい笑顔。
私は少し戸惑いながらも、「よろしく」とだけ返し、黒板に視線を戻した。
入学式も無事に終わり、ようやく家に帰れる。
「今日は特に疲れた」
小さくつぶやいて、帰りのスクールバスに乗り込んだ。
***
一か月が過ぎた。
想像していた高校生活とは、だいぶ違う。
アニメやドラマみたいに友達ができて、毎日がきらびやかに過ぎていく――そんな日々を思い描いていたのに。
今の私は、教室の窓の外を見つめながら、一人で昼休みをやり過ごしている。
少しだけ、情けない気がした。
チャイムが鳴り、みんなが教室に戻ってくる。
そのざわめきの中を、コツコツと靴音が近づき、先生が黒板の前に立った。
「明日から一泊二日のオリエンテーション旅行だから、各自準備しておくように。部屋割りは名簿順だぞ」
教室の空気が少しざわつく。
名簿順――その言葉に思わずため息が出た。
どうして学校行事のときって、いつも名簿順なんだろう。
明るくて社交的な人たちの中に、私みたいなタイプが混ざると浮いてしまう。
この旅行でも、きっと友達はできない。
そう確信しながら、当日を迎えた。
***
バスが出発してしばらくすると、隣の席の子が話しかけてきた。
「旅行、楽しみだね。私、小春。あなたの名前は?」
覗き込むようにして笑うその顔に、少し戸惑いながら答える。
「私は秋。……うん、楽しみだね」
そのあと、小春とは少しだけ会話をした。
他愛もない話だったけれど、不思議と心が軽くなった気がした。
バスが止まったとき、車内の空気がふっとゆるんだ。
長い時間座っていたせいで、足がしびれて思うように動かない。
外に出ると、夕方の風が顔をなでていった。
山の匂いがして、空が少しだけオレンジ色に染まっている。
目の前には、赤茶色の屋根をしたホテルが静かに建っていた。
「わあ、けっこう綺麗じゃん」
誰かがそう言って笑う。その声につられて、私も少しだけ気持ちがほぐれる。
ロビーに入ると、思わず息をのんだ。
高い天井に、大きなシャンデリア。光が床に反射して、少し眩しい。
学年全員が入ってもまだ余裕があるくらい広くて、なんだか現実味がなかった。
少しして、スーツ姿の男性が現れた。
支配人らしく、落ち着いた声で挨拶をする。
「ようこそ、“ホテル・ポンポコ”へ。長い移動、お疲れさまでした」
ロビーがしんと静まり返る。
その穏やかな口調がどこか印象的で、少しだけみんなが見入っていた。
でも、次の瞬間。
「イケオジじゃん」「あんな大人になりたい」
そんな囁きがあちこちから聞こえてきて、先生の「静かに!」という声がロビーに響いた。
支配人は少しだけ笑って、話を続ける。
「ここはご存じの通り山の中にあります。自然が豊かですが、そのぶん動物も多いんです。
猿や熊、そして――タヌキなども」
「タヌキ?」
どこかで誰かがつぶやいた。
私はその言葉に、なぜか耳がとまった。
周りが笑っているのに、なぜか気になって仕方なかった。
タヌキ。
どうしてだろう、妙にその響きが胸に残った。
先生が班長たちを前に呼び出して、部屋の鍵を配り始めた。
私は名簿順で二番目。リーダーじゃなくて少し安心する。
荷物を置くため、自室へと足を向けた。
私たちの部屋は「タヌキ」。
さっき感じた違和感、やっとわかった。それは部屋の名前がすべて野生動物の名前になっていたからだ。
やっぱり珍しいホテルだな、と思いながらも、少し表情が和らぐ。
部屋に入ると、大きな窓が目の前に広がっている。
その窓の外には、景色が広がっていた。
「うわぁ、綺麗!」
思わずみんなで声を合わせる。
顔を見合わせると、自然と笑顔がこぼれた。
その瞬間、何とも言えない落ち着いた気持ちが心に広がる。
荷物を一度部屋の端に置き、みんなが中心に集まった。
リーダーが元気よく声をかける。
「これからベッド選びを始めるよー!」
みんな、「はーい!」や「おー!」と歓声が飛び交う。
私はそのテンションの高さに驚いてしまった。
リーダーは一息ついてから提案する。
「ジャンケンで決めようと思うけど、どう? 勝った人から好きな場所を選んでいこう!」
みんな「そうしよー!」と笑顔で返事をする。
部屋のレイアウトは、玄関から入って正面に大きな窓があり、その左右にベッドが2つずつ配置されている。
私は迷わず、窓側のベッドを選びたかった。
「絶対にあのベッドがいい!」
そう思い、ジャンケンに参加する。
「ジャンケン、ぽい!あいこでしょ!」
みんな気合を入れながら、部屋の中は熱気を帯びてきた。
「やったー、1番!」
「うわぁー、終わった!」
さまざまな声が飛び交う中、私も思わず声を上げた。
「やったー、2番!」
嬉しくて、つい声が漏れた。
そして、無事に窓側のベッドを確保した私は、1人でニヤニヤと顔が緩んでいた。
リーダーが時計を指差しながら言う。
「そろそろ夕食の時間だから、ロビーに行こう。」
みんな、玄関に集合して、部屋を出る。
夕食の時間になり、もう一度ロビーに集合した。
クラスごとに並んで食堂へと移動する。
食堂に入ると、テーブルの上には美味しそうな料理がずらりと並んでいた。
先生が前に立ち、
「夕食は自由席です。ただし、クラスごとにまとまって座るようにしてくださいね」
と注意する。
けれど、みんな料理に目を奪われていて、ほとんど聞いていなかった。
先生の「解散!」という声を合図に、一斉に生徒たちが動き出す。
私がどこに座ろうか悩んでいると、先生に呼び止められた。
「秋さん。あなたはアレルギーがあるから、こちらの席ね」
ーー私だけ、自由席じゃないんだ。
そう思うと、少し気分が沈んだ。
私はいくつかアレルギーがあるため、他のみんなとは少し違う食事が用意されていた。
落ち込んでいると、隣の席に小春が座ってきた。
「秋!探したよ。一緒に食べよ。それとね、かわいい子見つけたから、この子も一緒でいい?」
自慢げに話す小春に、私は笑顔でうなずいた。
三人で他愛もない話をしながら、楽しく食事の時間を過ごした。
食後、小春が携帯を取り出して言った。
「秋、連絡先教えて! このあと自室に戻ったら自由行動だから、一緒に過ごそ?」
私はポケットから携帯を取り出し、「うん」と笑顔で大きくうなずいた。
その後、それぞれ自室に戻り、明日の予定を確認する。
自由時間になると、みんなは慌ただしく部屋を出ていった。
私は「疲れた」とつぶやきながら体を伸ばすと、携帯が鳴った。
画面には小春からのメッセージ。
秋、きつね部屋に集合!
きつね部屋はタヌキ部屋を出て右から2番目ね。
迎えに来てほしくなければ、来い。
――小春
「脅迫メッセージかよ」と笑いながら、急いで準備をして部屋を出る。
きつね部屋のインターフォンを押すと、中からドタバタと音がして、ガチャリと扉が開いた。
「いらっしゃい、待ってたよ! 早く入って入って!」
小春に腕を引っ張られ、半ば強引に中へ入る。
部屋の中には、さっき食事を一緒にした“かわいい子”がいて、
ベッドに寝転がっている女の子が言った。
「ここ、小春の部屋じゃなくて真夏の部屋。あんた、熊部屋でしょ?」
「小春、秋をそんな強く引っ張ったら痛いでしょ」
私は状況がよく分からず、頭の中にハテナが浮かぶ。
そんな私を見て、真夏が笑って言った。
「ほら、秋が混乱しちゃってる。えっと、まずは自己紹介からかな。
私の名前は真夏。秋、よろしくね」
「よろしく」と、私は小さく返す。
「挨拶はそのへんで……ねぇ、秋、真夏。これから屋上に夜景を見に行こうよ!」
「屋上? ホテルって、屋上行けないんじゃないの?」と私が首をかしげると、
小春は得意げな表情で言った。
「今ね、支配人が屋上を開けてくれてるんだって。同じ班の冬佳が教えてくれたの」
どこからそんな情報を仕入れてくるのか不思議だったが、夜景を見るのは好きだから、少し嬉しかった。
三人で屋上行きのエレベーターに乗り込むと、他の班の子たちも乗ってきた。
屋上に着き、ドアが開くと――そこはまるで別世界だった。
支配人が私たちに気づき、静かにお辞儀をする。
「当館自慢の夜景です。どうぞごゆっくりお楽しみくださいませ」
「綺麗……!」「ここにずっといたいね!」
あちこちから感嘆の声が上がる。
私は、みんなの声が耳に入らないほど、ただ景色に見入っていた。
そのとき――。
どこか遠くで、野生動物の鳴き声が聞こえた気がした。
そして、誰かの携帯の着信音が聞こえた気がした。
楽しかったオリエンテーション旅行が終わり、いつもと変わらない高校生活に戻った。
それから私は、小春と真夏と一緒に過ごすことが多くなった。
季節がひとつ巡り、半年ほど経ったある日のこと。
三人で他愛もない話をしていると、小春がふと思い出したように言った。
「ねえ秋、“趣味を呟くアプリ”やってみない?」
「え、私? 無理無理。そんなのやったことないし。そもそも、趣味って語れるほどのものなんてないし。」
私は慌てて首を横に振る。
すると小春はにっこり笑って、まるで“携帯出して”と言わんばかりに手を差し出した。
「他の人の投稿見るだけでも面白いよ。秋、きっとハマると思うけどな〜。」
こうなった小春を止められる人なんて、この世に誰もいない。
私は観念して携帯を差し出した。
彼女は慣れた手つきでアプリをインストールし始める。
その指の動きを見ながら、同じ女子高生なのに、なんだか世代が違うような気さえしてくる。
「ありがとう秋! 秋のプライベート気になってたから、うれしい!」
小春が満面の笑みでそう言った。
「私、そんなにプライベート謎かな?」
そう聞くと、真夏と小春は顔を見合わせて声をそろえる。
「謎。」
二人が笑い合うのを見て、私は思わずしかめっ面をした。
――けれど、心のどこかで、その笑い声が少しだけうれしかった。
呟くアプリに少しずつ慣れてきた頃、ようやく自分と趣味の合う友達を探せるようになっていた。
ここまで来るまでの苦労を思うと、胸の奥がじんわり熱くなり、少し涙がにじむ。
今日もいつものように「趣味が合う誰か」を探してタイムラインを眺めていたとき、ひとつのアカウントが目に留まった。
アイコンは――たぬき。
最近なぜか「たぬき」という言葉に敏感になっている自分に気づく。
興味を惹かれてプロフィールを開いてみる。
そこには、私とまったく同じ趣味のゲームやアニメの名前がずらりと並んでいた。
フォロワーは二百人ほど。
私よりずっと多い。
その数字を見ただけで、なぜか胸の奥がきゅっと緊張した。
呟きを遡ってみると、ほぼ毎日更新されている。
どれも面白い投稿ばかりで、気づけば私はスマホを握ったまま、ぼんやりとスクロールを続けていた。
――この人となら、仲良くなれるかもしれない。
そんな予感に背中を押されて、気づけばフォローボタンを押していた。
その瞬間、フォロワー数がまた目に入る。
「うわぁ……やっぱりすごいな。たぬきなのに。」
半ば冗談めかしてつぶやいたそのとき、スマホが小さく震えた。
通知には――たぬきからのフォローと、ダイレクトメッセージ。
「……え?」
思わず辺りを見回す。
まるで誰かに聞かれていたみたいで、背筋がぞくっとした。
恐る恐るメッセージを開く。
初めまして。フォローありがとうございます。これからよろしくお願いします。
その丁寧な一文に、息を呑んだ。
Twitterを始めてから、こんなにきちんとした挨拶をもらったことなんてなかった。
指先が勝手に動き、短い返事を打ち込む。
こちらこそ、よろしくお願いします。
送信を終え、スマホの電源を落とした。
暗闇の中、なぜだか心臓の鼓動が速くなっているのを感じる。
変な思いを感じながら静かに目を閉じた。
学校に着くと、小春と真夏が私の席のそばで楽しそうに話している。
「おはよー」
声をかけると、ふたりは同時にこちらを向き、笑顔で返してくれた。
「おはよ~秋」
いつもと変わらない朝。
この“いつも通り”が、なんだか少し心地いい。
やがてチャイムが鳴り、教室全体が一斉に静まる。
先生が入ってきて、出席をとりながら手にした紙を配りはじめた。
「もうすぐ文化祭です。出し物はこのあとの授業で決めるから、各自で考えておくように。学級委員は俺のところへ集まって」
配られた紙を見ると、色鮮やかな文化祭のチラシ。
“夢にまで見た高校の文化祭”という言葉が、胸の奥をくすぐる。
どんな日になるんだろう。考えるだけで、少し心が躍った。
朝礼が終わると同時に、教室がざわめき出す。
グループごとに机が動き、笑い声が飛び交う中、私は少しだけ立ちすくんだ。
「秋、こっち! ここ3人座れるよ!」
小春が手を振って呼んでくれる。
慌てて駆け寄ると、先生の声が響いた。
「各グループ、文化祭の案をひとつずつ出すように。考える時間は二十分。ここからは学級委員に任せる」
「はーい!」
クラス全体が声を揃える。まるで本当に何か始まりそうな空気だった。
私は小春と真夏の顔を見ながら尋ねた。
「何がいいと思う?」
真夏は少し首をかしげて、
「んー、“文化祭っぽい”ことってなんだろ」と呟く。
その横で、小春が満面の笑みを浮かべて言った。
「お化け屋敷一択でしょ! それで恋が芽生えたりしてさ」
「小春、彼氏いないでしょ」
真夏が肩をポンポンと叩くと、小春は顔を赤くして手を振り払った。
「うるさい! これからできるもん!」
そんなふたりのやりとりを見て、私はつい笑ってしまう。
すると小春が、今度は私のほうを見つめてきた。
「秋はどうなのさ?」
「んー、恋愛とかじゃないんだけど……アプリの中で、気になる人がいるんだよね」
その言葉に、ふたりは目をまんまるにして私を見つめる。
すぐに吹き出して、「友達できてよかったね~」と、わざとらしく笑った。
「いつか私にもできるもん」と少し強がって返しながら、
私は配られたチラシをもう一度見つめた。
タヌキと出会ってから、もう数か月が過ぎた。
メッセージを交わすのが、いつの間にか日常の一部になっていた。
けれど最近、タヌキの様子が少しおかしい。
投稿がぱたりと止まり、私の投稿にも何の反応もなくなった。
今までは、私が呟けば誰よりも早く「いいね」を押して、すぐにメッセージをくれたのに。
それがなくなってしまっただけで、胸の奥がひどく空っぽになる。
タヌキの名前も、顔も、どこに住んでいるのかも知らない。
ただのアプリの向こうの人。
それなのに――どうしてだろう。
妙な胸騒ぎがして仕方がなかった。
数日が過ぎたある夜。
寝る前に何気なくアプリを開くと、タヌキのアカウントが更新されていた。
思わず息をのむ。
そこには、短い呟きがひとつだけ。
もう呟くアプリはやめようと思います。
今までありがとうございました。
一瞬、時が止まったようだった。
目を凝らして何度も読み返しても、言葉は変わらない。
呼吸が過呼吸になっていく感覚に陥った。
私はすぐにメッセージを開き、震える手で文字を打った。
大丈夫? 何かあったなら聞くよ。
タヌキとずっと友達でいたいから、アプリ消さないで。
送信ボタンを押してから、息を止めて画面を見つめる。
やがて、メッセージの下に小さな“既読”のマークがついた。
……でも、返事はこなかった。
それだけのことなのに、胸の奥が締めつけられる。
スマホを握りしめたまま、私は何度も時間を確認しては、また画面を開く。
夜は静かで、時計の針の音だけが響いている。
窓の外の闇が、いつもより深く見えた。
タヌキは、今どこで何をしているんだろう。
私はただ、眠れないまま、青白い光の中で答えのない問いを抱え続けた。
あの投稿から、数日が過ぎた頃だった。
タヌキから、一件のメッセージが届いていた。
話したいことが多すぎて、文章じゃうまくまとめられないんだ。
直接話せたらいいんだけど……電話とか、できるかな?
画面を見つめたまま、私は息を呑んだ。
――電話。
その二文字を見ただけで、胸がざわつく。
私は、人と話すのが少し苦手だ。
しかも、相手は会ったこともない異性。
そして年上。
どうしよう。無理かもしれない。
指先が震える。
迷っていると、またメッセージが届いた。
急に電話とか困るよね。
でも秋には本当のことを伝えたいんだ。
聞いているだけでいい。……それでもいい?
“聞くだけでいい”。
その言葉が、心の奥に小さく灯をともした。
それなら――大丈夫かもしれない。
私は深呼吸して、「いいよ」と返信した。
すぐに、着信音が鳴る。
心の準備なんてできていないのに、
体は勝手に応答ボタンを押していた。
「急な電話ごめんね。タヌキこと、響太です」
少し緊張したような声が、耳に届く。
「いつも俺の呟きに反応してくれてありがとう。
実は俺……」
そこから響太は、現実で抱えているいくつもの問題を、少しずつ話してくれた。
家のこと、職場のこと、そして心の中にある苦痛、苦しみ。
私はただ、黙って聞いていた。
けれど、途中から涙が止まらなくなった。
なぜなのかは自分でもわからない。
ただ――支えてあげたいと思った。
知らない誰か、ではなく、“響太”というひとりの人を。
「聞いてくれてありがとう、秋。心が軽くなったよ。
今の話は秋にしかしてないから、アプリのみんなには内緒ね」
少し照れたような声に、私は息をのむ。
「……私の本当の名前も、秋っていいます。
響太さんは、すごい人です。
私、響太さんの呟きとか、反応をもらえるのが嬉しくて……。
これからも、一緒にお話したいです」
言葉が震えて、涙が混ざった。
どうして今、こんなことを言ってしまったのか。
でも、伝えずにはいられなかった。
電話を切ったあと、胸の奥が熱くて、どうしようもなかった。
――まるで、告白みたいじゃない。
頬が熱くなって、思わず窓を開ける。
夜風がやさしく頬を撫で、見上げる空にはまんまるの月。
満月が、雲の合間から静かに微笑んでいた。
あの後、何度かメッセージで話し合った末、私たちは直接会うことになった。
家族以外の男性と会うのは初めてで、胸が高鳴る。
集合場所は駅。
小春や真夏には、タヌキと会うことを伝えると、「秋にもしものことがないように、人目のあるところにしたほうがいいよ」と言われた。
信用していないわけではない。ただ、念のため。
駅に着くと、君はすでに待っていた。
「やっと会えたね、秋! 一応、初めましてかな?」
笑顔で私の顔を見つめる君に、私は自然と笑顔を返した。
「そうだね! 初めまして」
写真で見ていたより、君は少しふくよかで、背は私よりも二十センチほど高い。
それでも、顔は写真以上にかっこよくて、思わず見とれてしまう。
「さっそく、二人で行きたいところに行こう」
電話のときと変わらない声に、私は心から安心した。
その日、私たちは某ゲームの博物館やショッピングモールなど、あちこちを巡った。
夜になり、ホテルへ戻ると、屋上で縁日が開かれているのが見えた。
二人で屋上行きのエレベーターに乗り、扉を押すと、そこには幻想的な光景が広がっていた。
子どもたちの楽しげな声、「キャー!」や「パパ、これやりたい!」があちこちから聞こえる。
あなたは「お好み焼き食べようよ!」と笑いながら走り回り、ヨーヨー釣りでは「俺、得意だから見てて」と子どものようにはしゃぐ。
その姿を見て、私は思わず母性本能がくすぐられるのを感じた。
お好み焼きを食べ、ヨーヨー釣りを楽しんだ後、二人でベンチに座る。
空を見上げると、夜空に満月が輝いていた。
あなたも空を見上げている。
その横顔を見て、私は小さく微笑みながら呟いた。
「やっぱり、あなたはタヌキね」
「ん? なに? なんか言った?」
君が振り向く。
私は顔を赤らめながら、真っ直ぐあなたの瞳を見つめた。
「タヌキ……好きだよ」
その言葉が、月の光にそっと溶けていった。
初めての小説を最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
書いている間は、不安と喜びの繰り返しでした。
それでも、物語として形にできたことが今はとても嬉しいです。
拙い部分も多いですが、この作品が誰かの心に少しでも残れば幸いです。




