菅原紅子編『紅花の初恋と忍草の物思い』
本編『転生陰陽師は男装少女!?~月影の少女と神々の呪い~』もよろしくお願いいたします!
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まだ五つだった頃、菅原紅子は恋を知った。
お相手は、自分よりひとつ年上の、屈託のない快活な笑顔を見せる男の子だった。
利発でおませな女の子。
間違っていると思えば大人相手でも堂々と意見する少女を、周りの大人たちはそう評した。
そう言うと、怖いものなしのように聞こえるが、紅子は元々、臆病な性格だった。
貴族社会は、表面上は優雅に見えるが、裏側は騙し騙され、足の引っ張り合いをするようなドロドロした世界だ。
幼いながらも大人たちのすました仮面の裏に気付いてしまった紅子は、笑顔で嘘をつく大人たちが怖くて仕方なかった。
そして、怖いからこそ、子犬のように吠えて牽制してしまうのだ。
紅子はすでにそれを理解していて、そんな自分を嫌いになりかけていた。
ある日、紅子は父に連れられて、自分の家が代々仕えている賀茂家を訪れた。
賀茂家は陰陽師の名門だ。
ちなみに、陰陽師とは術を使って妖魔や目に見えぬ悪から人々を守る者たちのことだ。
そこには、自分と同じくらいの少年少女を連れた貴族の大人たちが、やはり自分と同じくらいの年頃の少年に群がって媚びを売っていた。
遠目でよく見えないが、人垣から覗く少年の顔は愛想笑いを浮かべながらも引きつっているように見えた。
「さあ、あそこに割り込むぞ」
「え?」
「紅子、なんとしても、あの子に気に入られるんだ」
「どうしてですの?」
「あの子はな、賀茂家の次男坊で、真白様というんだが、次期族長候補なんだ」
「えらい方なのですね」
「そうだ。だから、お前はあの子のお嫁さんになるんだよ」
「お嫁さん……」
それを聞いて、紅子は状況を理解した。
これは、次期族長候補の真白の側近や妻として、自分の子どもを売り込もうとする大人たちの集まりなのだと。
普段は優しく自分に甘い父が、今日は虎視眈々と獲物を狙う獰猛な獣に見えて、紅子は悲しさよりも恐怖を感じた。
父は戸惑う紅子の手を引っ張って、その輪の中に強引に入っていこうとした。
途端に、人垣を作っている大人たちの視線が紅子に注がれる。
みな一様に笑顔を浮かべているが、その目は紅子の全身を満遍なく行き来していた。
特に少女たちの親は、自分の娘と比べて、紅子が脅威になりうるかを算段しているようだった。
怖い──。
紅子はその場に立ちすくんだ。
それでもなお、父は無理やり紅子を少年の前に連れて行こうとした。
恐怖に耐え切れなくなった紅子は、目に涙を浮かべて叫んだ。
「お、女の子を、そんな風にじろじろ見るものではありませんわ! 失礼です!」
そう言うと、父の手を振りほどき、あっけに取られる人々に背を向けて、紅子はその場から逃げ出した。
その背中を、真白が不思議そうに見送っていた。
庭の片隅にある茂みに逃げ込み、紅子は声を押し殺して泣いた。
あとで父に大目玉を食らうかもしれないが、それよりも大人たちの悪意に晒される方がよほど怖かった。
するとそこへ、誰かが近づいて来た。
このままでは見つかってしまう。
紅子は咄嗟に泣き止み、両手で口を覆って息を潜めた。
「どうしたんだ?」
不意に声をかけられて、紅子の肩がビクリと揺れた。
恐る恐る振り返ると、同じ年頃の少年が立っていた。
「……っ、大人の人たち……こわい」
大粒の涙を零した紅子の頭をそっと撫で、少年はニヤッと笑って言った。
「そうだよな。オレも、怖かった。だから、逃げてきた」
「あなたも……?」
「うん。オレも。急にみんなから期待されて……勝手なことばかり言われて、怖くてさ」
この少年も自分と同じだ。
大人たちの勝手な思惑に巻き込まれて、怖い思いをしている。
紅子は親近感を覚え、緊張を解いた。
「そうなの? わたくしと、おんなじね。えっと……」
「あ、オレは賀茂真白」
「あ! あなたが、お父様がおっしゃってた、真白様!?」
この人が賀茂家の後継ぎで、あの人垣の中心に居た少年──。
きっと、自分よりもっと怖い思いをしていたに違いない。
紅子は真白を気の毒に思った。
「うん。お前は?」
「わたくしは、菅原紅子ですわ」
「紅子か。可愛い名前だな」
爽やかな笑顔で言われて、頬が熱くなった。
「……あ、ありがとうございます」
どう反応すればいいかわからず、上目遣いで真白を見ると、彼も照れくさそうに目を逸らして頬を掻いていた。
紅子はその横顔にくぎ付けになった。
思えば、これが紅子が恋に落ちた瞬間だった。
そのまま、かくれんぼと称して二人で隠れ、しばらく他愛もない話をしているうちに、大人たちに見つかった。
父にこっぴどく叱られたが、真白と仲良くなったのを知ると、一転して紅子を褒めちぎった。
紅子はその身勝手さに呆れつつも、父のお陰で真白と出会えたことには感謝した。
身分違いの恋──。
賢い紅子は、それを重々理解していた。
だが、父は野心家だった。
たとえ身分違いであろうと、真白に望まれれば、婚姻は叶う。
そうなれば、大出世だ。
紅子は父に連れられて賀茂家を度々訪れ、真白と親交を深めた。
「お、紅子。今日も来たのか」
「あら、来てはいけませんでしたか?」
「お前はまたそういう……まあ、紅子らしいけどな。さあ、遊ぼうぜ!」
「あ、待ってくださいませ!」
突然駆け出す真白の後を、紅子が慌てて追いかける。
それがお決まりになっていた。
紅子の声に振り返る真白の屈託のない笑顔に、紅子はどんどん惹かれていった。
『お前はあの子のお嫁さんになるんだよ』
あの日の父の言葉が耳の奥でこだまする。
(お、お嫁さん……真白様の……)
それを考えると、否応なく胸が高鳴った。
そんな時、紅子は年相応の少女の顔をしていた。
その様子を、周囲の大人たちは温かく、時に打算的な思いで見守るのだった。
しかし、その少女らしく可愛いらしい夢は、突然断たれることとなる。
紅子の父と跡継ぎの兄が政敵の罠に嵌って妖魔に殺害され、実家が没落してしまったのだ。
そのせいで賀茂家との縁も切れてしまった。
こうして、紅子は泣く泣く初恋を心の奥底に封印することになったのだった。
***
その後、母はある中流貴族の後妻となり、紅子と弟の生活も一変した。
跡継ぎのいなかった継父は、自分の息子が生まれるまでの繋ぎの後継者として、弟を厳しく養育する一方で、女だてらに高い教養を持つ紅子を疎んだ。
「ふん。気位ばかり高くなりおって、可愛げのない。そんなことでは政略結婚の駒にもならんではないか」
継父は酒に酔う度にそう言っては、紅子の利発な顔立ちを心底嫌そうに睨め付けた。
紅子もまた勝気な性格で、口では「申し訳ございません」と殊勝に答えつつも、継父を軽蔑するように冷笑を浮かべ、一歩も引かなかった。
女性の地位が低いのはこの世界の常識で、こういう物言いは、何も継父に限ったことではない。
だが、紅子はそんな世界に納得がいかなかった。
(女が賢くて、何が悪いのかしら。夫を賢く支える妻の方が、家の繫栄に繋がるわ)
そう思っても、世間の認識が変わることはない。
歯がゆい思いを抱えて過ごすうちに、継父と母の間に男の子が誕生した。
継父は正統な後継者の誕生を大いに喜びつつ、弟を用無しとばかりに邪険にするようになった。
母は継父の言いなりで、頼りにはならない。
自分が弟を守らなければ。
そのためには、自力で財を築き、いずれ弟の後見ができる立場にならなければならない。
決意した紅子の行動は、早かった。
紅子は、成人を期に家を出て、親類の伝手を頼って宮廷に出仕することにした。
帝の后妃たちが住まう後宮は、教養の高い女性が女官として生き生きと活躍できる唯一の場だ。
自分らしく生きながら弟を守るには、これしかないと思った。
継父は紅子の提案を二つ返事で了承した。
紅子の顔を見なくて済み、かつ紅子が宮中で地位を築けば家の格も上がる。
一石二鳥だと考えたのだろう。
母は、さして心配する様子もなく、ただ「体に気を付けるように」とだけ言った。
そして、家の恥になってはいけないからと、手持ちの着物の中で一番上等なものを紅子に贈ってくれた。
単に家のため、継父のためだったのかもしれないが、紅子は素直に喜んだ。
母は元々、子どもに対して愛情深い性質ではなかった。
後妻に入ってからは、同じ屋根の下に居るにも関わらず、会う機会も減った。
避けられていると、紅子は感じていた。
父と兄を思い出したくないのか、それとも継父への気遣いなのか、理由はわからないが。
だから、着物を貰ったことは、久々に感じた母の愛のような気がしたのだ。
紅子は汚れないように着物を丁寧に包み、宮廷に持って行く衣類を入れた長持という箱の中に、大事にしまい込んだ。
一方で、紅子にべったりと懐いていた弟は、姉が家を去ることを嫌がり、散々駄々をこねた。
大泣きをしながら縋り付いて離れない、この甘えん坊の幼い弟を、この家にひとり残して行かなければならないのだ。
この時ばかりは、さすがの紅子も涙が零れそうになったが、これは弟の将来のためでもある。
ぐっと堪えて笑顔を見せ、たまには休みをもらって会いに来るからと、頭を優しく撫でてなんとか宥めた。
***
「紅子、和歌の添削をしてもらえる?」
「畏まりました、更衣様」
紅子は優雅な微笑を浮かべて更衣から和歌の書かれた紙を受け取ると、その上にすっと目を滑らせた。
更衣とは帝の后妃の呼び名のひとつで、紅子が今仕えている妃の敬称だ。
紅子は筆でさらさらと迷いなく書き込みをすると、「お待たせいたしました」と言いながら、恭しく更衣に差し出した。
紙を受け取った更衣は、それを見て満足げな笑みを浮かべた。
「……なるほど。確かに、この言葉の方がより感情が伝わってくるし、語順もこうした方が余韻が残るわね。さすがだわ」
更衣が隣に侍る、女房と呼ばれる世話係たちに和歌を見せると、その女房たちも口々に感嘆の声を上げた。
「本当に、素晴らしいですわ!」
「瞬時にこんな添削ができてしまうなんて、紅子は天才ね!」
「まだ若いのにこんなに優秀なんて、末恐ろしいわ……」
紅子は嬉しさを噛みしめながら、「ありがとうございます。でも、まだまだですわ」と謙遜した。
出仕した当初、中流階級の出である紅子は、後宮で雑務を担当する末端の女官として働いていた。
しかし、向上心が強く努力家でもあった彼女は、並み居る女官の中でめきめきと頭角を現した。
他の女官の失敗にさりげなく助け舟を出したり、業務の効率化と経費削減のための提言をしたりすることもあった。
その仕事ぶりを妬み、嫌みを言われることも少なくなかったが、それも得意の話術でさらりとかわした。
さらに、洗練された装いと立ち居振る舞い、何よりも高い教養が認められ、あっという間に上位の女官たちの信頼を勝ち取った。
程なくして、紅子はこの更衣の世話係に抜擢されたのだった。
宮中での生活は、想像以上に紅子の性格に合っていた。
実家での窮屈な生活を忘れるように、紅子は仕事に打ち込んだ。
しかし、どんなに忙しくても、弟に定期的に文を送って近況を伝え合うことだけは忘れなかった。
***
そんな折、宮廷の渡り廊下を歩いていると、耳に馴染んだ声が聞こえてきた。
紅子には、それが誰のものであるのか、すぐにわかった。
心臓がドキリと高鳴った。
反射的に声のした方に目を向けると、目と鼻の先に初恋の君──賀茂真白が、記憶と変わらぬ姿のままの笑顔を見せていた。
隣には同僚であろうか、見目麗しい若者が、親しげな様子で真白の話を聞いている。
(真白様……)
紅子は声をかけようか迷った。
真白に会うのは数年振りだ。
(確か、真白様の成人の儀でほんの一言、言葉を交わしたのが最後だったわね。その前も、何年もお会いできなかったし……)
そもそも、自分などが気安く声をかけていい存在ではない。
身分の違いだけではない。
今や真白は、この都──金烏京では名の知れた陰陽師でもある。
散々迷って、それでも紅子は声をかけた。
この機を逃したら、もう二度と話しかけることができない気がした。
できるだけ平静を装って、たった今、見かけたかのように演じた。
「まあ、賀茂家の……真白様ではございませんか」
声は震えていないだろうか。
いつも通りに振る舞えているだろうか。
そんな心配をよそに、真白からは懐かしい笑顔が返ってきた。
「お、紅子じゃないか。久しぶりだな」
なぜか涙が込み上げてきた。
置かれた状況に甘んじることなく闘ってきたのは、自分の意思だ。
それでも、孤独を感じなかったわけではない。
心が折れそうになることもあった。
そんな紅子を支えてきたのは、幼い弟の存在と、真白と過ごした日々の思い出だった。
でも、急に泣き出したら変に思われる。
それに、優しい彼を心配させてしまうだろう。
紅子は深呼吸をして背筋を伸ばし、優雅な笑顔を浮かべた。
誇り高く、美しく。
それこそが、菅原紅子の生き様だった。
そこから縁あって、あれよあれよという間に、紅子は真白の同僚であり親友だという美貌の少年──稀代の陰陽師と名高い安部朔夜の仲間となる。
そして、真白や他の仲間たちと共に、宮中を中心に、人々の生きるこの現世だけでなく、神々の世界である神界や、死者の世界である常世まで巻き込んだ、壮大な陰謀に立ち向かうことになるのであった。
***
その陰謀に決着が着くと、真白は帝の命令で、朔夜と共に妖魔退治の旅に出ることになった。
再び訪れた別れに、心の古傷が痛んだ。
しかし、紅子は今回もその想いに蓋をした。
真白への恋心が消えたわけではなかった。
だが、共に過ごすうちに、朔夜が実は女性であること、それを隠しながら宿命と闘い続けてきたこと、そんな朔夜に真白が想いを寄せていることを知り、紅子は静かに身を引くことを決意したのだ。
揺れてはいけない。
笑いなさい、紅子──。
そう自分に言い聞かせ、紅子は危険な旅へ赴く仲間たちの無事を祈りながら、精一杯の笑顔で送り出した。
***
都の正門で真白たちを見送り、後宮に戻ると、急に気が抜けた。
自室に戻る途中で眩暈を覚え、紅子はその場にへたり込んでしまった。
どっと疲れが襲ってくる。
真白に再会したあの日から、日々の業務に加え、陰謀を暴くために宮中での諜報活動に精を出してきた。
時に首謀者の動向を探り、時に書庫にある膨大な書物の中から問題解決のための糸口を探し出す。
敵に悟られぬよう細心の注意を払いながらの行動は刺激的ではあったが、神経をすり減らすものでもあった。
加えて、失恋の痛みも抱えてきた。
身を引くと覚悟を決めたものの、真白が目の前で朔夜に熱い視線を送るのを見るのは辛かった。
そんな時は、弟から届いた手紙を読み返して癒されながら、自分には弟の後見になるという目標があるのだから、恋にかまけている場合ではないと、気持ちを切り替えた。
それでも、誰にも悟られぬように心の奥底に押し込んだ想いは、今もじくじくと痛んで、心に膿を垂れ流している。
まだ、瘡蓋になるには時間が必要らしい。
紅子は自嘲気味に口をゆがめた。
(ちょっと、頑張りすぎちゃったかしら。この程度でへばるなんて、わたくしも、まだまだね)
こんなところを誰かに見られて、心配をかけるのも本意ではない。
紅子は気合を入れて立ち上がろうとした。
その時、運悪くひとりの文官が通りすがった。
その文官の男は、紅子に気が付くと、慌てた様子で足早に近づいてきた。
「もし、女官殿。いかがなされました!?」
「……いえ、少し眩暈がしただけですわ。もう大丈夫です」
「ですが、まだ顔色が悪い……」
しゃがんで紅子に視線を合わせた男は、本当に心配そうに眉を寄せている。
かなりのお人好しなのだろう。
権謀術数渦巻く宮中には珍しい人種だ。
うろたえている様子の男に、紅子は問題ないと微笑んで見せた。
「部屋で休めば、すぐ良くなりますわ」
「そうですか。なら良いのですが……」
そう言いながらも、男は立ち去ろうとはせず、「失礼」と断って、そっと紅子の体を支えた。
「あ、あの……?」
「せめて、部屋までお送りしましょう」
「え、いえ、あの、大丈夫ですわ!」
慌てる紅子に穏やかな笑みを返し、男は言った。
「ただ、私が心配なのですよ。送らせてください。誓って、やましい気持ちはありませんので」
そこまで言われて断るのも、無粋というものだろう。
紅子は諦めてうなずいた。
「では、お言葉に甘えて。わたくしの部屋は……」
男に支えられながら立ち上がり、部屋の場所を伝えようとすると、男は必要ないと首を振った。
「存じております。菅原紅子殿」
「え!? わたくしをご存じなのですか?」
紅子はひどく驚いた。
この文官とは面識はないはずだ。
廊下ですれ違うくらいはしたことがあるかもしれないが、名乗った記憶はない。
「失礼しました。私は在原理真と申します。縫殿寮で後宮女官のみなさまの人事に携わっている関係で、貴女のことも存じております」
「ああ、なるほど。縫殿寮ということは、中務省にお勤めなのですね。とても優秀な方なのですね」
中務省は政治を司る八つの中央機関のうち、帝の補佐や後宮女官の人事まで、政務全般を担う最重要機関。
つまり、そんな部署に配属されているこの男は、官人の中でも相当優秀なのだ。
「いえいえ。私なぞ、所詮下っ端です。あなたこそ、優秀だと評判ですよ」
「そんな……」
「以前、貴女が提出された後宮全体の業務効率化と経費削減の提言書を読ませていただいたのですが、本当に素晴らしかった。こんな有能な女官が来てくださって、有難く思ったのですよ」
「まあ、それこそ過分なお言葉ですわ」
謙遜しつつ、紅子はそっと理真の顔を盗み見た。
言われてみれば、知性あふれる顔立ちをしている……ような気がする。
年は、紅子よりいくつか上だろうか。
特段、美形と言うわけではないが、そこそこ整ってはいる。
切れ長の涼し気な目元に、すっと通った鼻筋、薄めの唇。
ともすると酷薄な感じになりそうな組み合わせだが、人の良さがにじみ出ているせいで、それを感じさせない。
身なりも派手過ぎず、宮仕えに相応しい出で立ちで、好感が持てる。
爽やかというよりは、どちらかというと物静かで真面目な好青年といった感じだ。
「あの、そんなに見つめられると、困ると言いますか、気恥ずかしいのですが……」
「あ、不躾に、失礼いたしましたわ……」
紅子は、はしたなかったかしら、と反省した。
(わたくしったら、殿方を品定めするように見るなんて!)
羞恥に耳を赤く染める紅子に、理真はくすっと笑いをこぼした。
「いえ、お気になさらず。では、参りましょう。ゆっくりと……」
「は、はい。お世話をかけますわ……」
理真に支えられたまま、紅子は恥ずかしさを誤魔化すように、そそくさと歩き始めた。
***
いつもの倍の時間をかけて、紅子は自室に戻ってきた。
宣言どおり、理真はずっと紳士的だった。
「……着きましたわね。本当に、ありがとうございました」
「いえ、しっかりした足取りで安心しました。余計なお世話だったかな」
「とんでもない! お気遣い、痛み入りますわ」
どこまでも謙虚な理真に、紅子は好感を持ち始めていた。
「……まあ、せっかくの好機でしたので」
「はい?」
「その、やましい気持ちがない、というのは、嘘と言いますか……」
「え?」
その言葉に、紅子の中で上がりかけていた理真への好感度が急降下する。
(なんですって、やっぱり下心で近づいて来たの!?)
後宮勤めの女官は身元もしっかりしており、いずれ嫁にと望まれることも多い。
後宮で働く貴族の男たちの中にも、そういう目で女官たちを見てくるものもいるし、逆に見初められて玉の輿に乗るのを夢見ている女官もいる。
しかし、紅子はそういう類の男が苦手だった。
(この方もそういう意図だったのね。嫁探しなら、よそでやっていただきたいわ……)
紅子の視線が急に冷たくなったのを感じて、理真は慌てふためいた。
「あ、あの、すみません! そういうつもりでは……いや、ないというのも違うのですが……」
しどろもどろになりながら言葉を探す理真は、額から流れる大量の汗を手の甲で拭って、ふうと息を吐いた。
「……その、憧れの君が目の前で倒れていたので、心配になって思わず声をかけてしまいまして」
「は?」
紅子は自分でもわかるくらい、間の抜けた声を出していた。
(“憧れの君”ですって? ……わたくしが?)
聞き間違いだろうか。
今まで浮いた話の一つもなかった自分を、恋い慕ってくれる殿方がいるなんて。
信じられない思いで茫然と立ち尽くす紅子に、理真は頭を下げた。
「お加減の悪い時に、変なことを言って申し訳ない。今の言葉は忘れて、ゆっくり休んでください」
そう言うと、理真は自嘲気味に微笑んで、踵を返した。
その袖を、紅子は咄嗟に掴んでいた。
「お待ちになって!」
「え?」
驚いて振り返った理真に、紅子は尋ねた。
「今のお言葉は、本当のこと、でしょうか? その、わたくしが、“憧れの君”という……」
思わず引き留めてしまった。
いったい、自分は何を訊いているのだろう。
そう思うと、言葉は尻すぼみに小さくなった。
自然と、顔が下を向いてしまう。
ここにきて、恋愛経験の無さが悔やまれた。
男女の機微に疎いようでは、更衣の補佐役としては失格なのではないか。
途端に、仕事に対する自信も無くなってきた。
そういえば、朔夜の恋の相談に乗ったこともあった。
それを思い出し、紅子は過去の自分に舌打ちした。
(もう、もう、わたくしったら……なにを偉そうに!)
そんな紅子に、理真は真っすぐな瞳を向けて言い切った。
「はい。貴女を密かにお慕いしておりました」
力強い声に、紅子は、はっとして顔を上げた。
「わたくし、なんかを……?」
「なんか、ではありません。聡明で、誠実で、努力家で、あなたの仕事ぶりは尊敬に値する」
「そんな……」
「それに、上品で、優雅で、美意識も高く、見目も麗しい」
「い、言い過ぎです!」
慣れない褒め殺しに、紅子は恥ずかしさを通り越して、いたたまれない気持ちになってきた。
「言い過ぎではありません。まだ足りないくらいです。その気高さも素敵だし、あと、意外と恥ずかしがり屋なところも可愛らし……むぐっ」
「も、もう充分ですから、お止めになって!」
耐え切れず、紅子は両手で理真の口を押さえていた。
驚いた理真が話すのを止めたのを確認し、紅子は手を外した。
「お気持ちは、よくわかりました。でも、その……」
「すみません、またやってしまいましたね。いつもは、こうではないのですが、貴女を前に舞い上がってしまって」
「いえ……」
理真は反省しきりな様子で頭を掻いた。
一方、紅子は恥ずかしすぎて理真をまともに見ることができず、うつむいたまま視線をさ迷わせた。
心臓が早鐘を打っている。
耳からも煩いくらいに鼓動が聞こえてきて、理真にも聞こえてしまうのではないかと思うほどだ。
顔が熱い。
いや、顔だけでなく、もはや全身が熱を帯びていた。
真白に恋に落ちた瞬間さえ、ここまでではなかった気がする。
こんな感覚は初めてだった。
体調が悪いせいかと思ったが、そういう感じでもなかった。
(これって、やっぱり……)
理真の告白に、心を揺さぶられているということなのだろう。
まだ真白への想いを残しているのに。
まるで浮気をしているような、バツの悪さを感じた。
「お付き合いを、とは、さすがに言いません。ですが、まずは友人になっていただけないでしょうか?」
「友人、ですか」
「はい。お嫌でなければ」
そう言って、理真はそっと右手を差し出した。
「了承していただけるなら、この手を取っていただけますか?」
その手をじっと見つめる。
緊張からか、少し震えている。
紅子はためらった。
たとえ友人だとしても、自分を好いてくれている相手の手を、他の男への想いを抱いたまま取っていいものだろうか。
この気持ちを、誤魔化したくないと思った。
この誠実な男に、自分も誠実でありたいと。
「わたくし、想いを寄せている方がおりますの」
「え……。そ、そうですか、そうですよね。すみません、ご迷惑も考えず。あの、この話はなかったことに……」
「お待ちになって!」
見るからに意気消沈して手を引っ込めようとする理真の言葉を、紅子は強い口調で遮った。
「その方にも想い人がいらして、わたくしは彼の恋を応援すると決めたのです」
「そう、なのですか」
「はい。それでも、未練がましく、想いはまだ残っている。そんな不誠実なわたくしでも、よろしいでしょうか?」
「不誠実だなんて! そんな言いにくいことを言ってくださる貴女は、とても正直で誠実だ」
「この想いは消えないかもしれない。ずっと友人のままかもしれませんわよ?」
「かまいません。貴女とは、会話しているだけでも楽しいですから」
「欲のない方ね……」
紅子はゆっくりとその手を取った。
(この方は、わたくしをただの嫁候補として、家の道具としてではなく、仕事のできる仲間として認めてくださっている。真白様への想いも否定なさらない。それに、女としても……う、美しいと、可愛いとまで、言ってくださって……)
理真の言葉を思い出すと、再び体が熱を帯びてくる。
こんな殿方は、もう現れないかもしれない。
今はまだ、恋愛感情はないけれども、時間をかけて友情から愛情を育むことはできるかもしれない。
真白と朔夜が、そうであったように──。
今度こそ、目をしっかりと見て、紅子は優雅な微笑を浮かべた。
「では、友人として、よろしくお願いいたしますわ。理真様」
「……は、はい。こちらこそ!」
笑顔に見惚れていた理真は、慌てて紅子の手を握り返した。
女性に不慣れなその反応がなんだか嬉しくて、紅子は笑みを深くした。
まだ少し震えている理真の手は、とても大きくて、温かかった。
(端から見たら、物語みたいですわね)
いつもの冷静さを取り戻し、紅子は人ごとのように思った。
まさか、自分が物語の女主人公のような立場に立てる日が来るなんて。
こんな出会いも、案外悪くないかもしれない。
そう思うと、これから過ごす理真との日々が、楽しみになって来た。
「では、また」
「ええ、また」
名残惜しそうに去っていく理真に手を振り、紅子は心の中で真白に話しかけた。
(真白様。わたくし、やっと前に進めそうですわ。きっと、応援してくださいますわよね……)
爽やかな風が吹き抜け、紅子の美しい黒髪を揺らした。
ふと庭を見ると、空の青も木々の緑も、いつもより色鮮やかに見えた。
紅子はすうっと息を吸い込んで深呼吸すると、軽い足取りで自室へと入っていった。




