9.間章ーミア・ホイスラーの場合②-
だからミアはヴァルキリアに───魔術師に会うことが恐ろしかった。過去の自分の醜さを突きつけられるような気がして、魔術師という存在そのものに引け目を感じていた。
そのうえ彼女は大公が養女に迎えるほどの実力のある魔術師だ。
加えて、ヴァルキリアが癇癪持ちできつい性格なのだということは、アルフレートや、彼が付けてくれた侍女たちから聞いていた。王太子であるアルフレートでさえ、彼女と二人きりになると激しい暴言を浴びせられるのだという。
婚約者の愛人なんて憎まれているに決まっている。顔を合わせたら、何をされることだろうか。自分なんて、彼女の気を損ねたら殺されてもおかしくない。婚約者のいる男性と恋に落ちてしまったのは自分の方なのだ。
ミアは最初そう怯え切っていた。
けれど、アルフレートは、ヴァルキリアのせいでひどく疲れていて、日に日に憔悴していっている様子だった。ヴァルキリアがアルフレートを責めるのは、愛人がいるせいだとも聞いた。
侍女たちも皆アルフレートを心配していて「殿下一人があの女の相手をしなくてはいけないなんて、お気の毒なことですわ」と口々に言っていた。
だからミアは奮起したのだ。
───アルフレート様の影に隠れていてはいけない。
───わたくしがあの女に立ち向かわなくては。
そう思って、ミアは必死で震える身体を抑えつけた。自分から彼女に近づき、ヴァルキリアと対峙した。それでも、できたことはせいぜい睨みつける程度のことだけだった。
だけど、それだけのことでも、アルフレートも侍女たちも皆ミアを褒め称えてくれた。素晴らしいと、勇気があると。文句の一つも言えなかったと落ち込んでも、アルフレートの立場を思えばあからさまに対立するのもよくないから、あの程度で十分なのだといわれた。
あの程度でも、ヴァルキリア・ギルガードに対する威圧となる。殿下の盾になれる。
「ミア様だけが、殿下を助けられるのですわ」
侍女たちに口々にそういわれて、ミアはひどく嬉しくなった。
自分でも、アルフレートのためになることができる。アルフレートの役に立てる。こんな自分にもできることがある。嬉しくて、嬉しくて、ミアはいっそう頑張った。
それなのに、あの日、あの庭園であの女に声をかけられたときから、なにかが変わってきてしまった。ミアにとっては、とても悪い方向に。
ミアの部屋は、アルフレートの部屋から離れた一室に移ることになった。これはまだいい。最初から、自分には不釣り合いな豪奢な部屋だった。
だけど、最近のアルフレートはずっと苛々していて、機嫌が悪い。
彼が付けてくれた侍女たちも、どことなくよそよそしい。
王宮内を歩いていても、向けられる視線が、以前よりも刺々しく感じる。これが自分の妄想なのか、それとも事実そうなのか、ミアにはわからない。だけど怖くて、歩いているだけで息が苦しくなってくる。
今や、ミアに明るく笑いかけてくるのは、元凶であるヴァルキリアだけだった。
(何なの、あの女!)
ミアのことが憎くないはずがない。ミアの立場が悪くなっているのだって、ヴァルキリアが何かしたせいに決まっている。あの笑顔の裏で、ミアのことを馬鹿にして嘲笑っているにちがいない。
そのくらいのことは愚かな自分にだってわかるのだ。
だからミアは会うたびにあの女を責め立てた。あれほど恐ろしかったのに、一度罵倒してしまってからは、堰を切ったように止まらなかった。
破れかぶれの気持ちもあったのだろうが、何よりも、ヴァルキリアが拍子抜けするほど何もしてこなかったことが大きかった。
手が付けられないほどの癇癪持ちで、ヒステリックな女だと聞いていたのに。実際のヴァルキリアは、ミアに何をいわれても平然と笑っていた。挙句の果てには、ミアをお茶会にまで誘ってくる。断るとその場では引き下がるものの、次に会ったときにはまた平気な顔で「一緒にお茶でも飲みませんか?」と笑っていうのだ。
理解できない。どうしてこの女はミアを罵らないのだろう。無視しないのだろう。殴らないのだろう。冷たい目も顔も向けてこないのだろう。どうして。
───そして昨日、ヴァルキリアは突然ミアの部屋まで押しかけてきたかと思うと、ミアの手を握りしめて、耳元で囁いた。
彼女が大公家へ戻るといって王宮を去ったという話が聞こえてきたのは、その日の夕方になってからだった。
いつの間にか、ミアの知らないうちに、王宮内は緊迫した空気に包まれていた。戦になるんじゃないか、大公家が攻めてくるんじゃないか。大公ギルガードが娘を自領に戻したのは、戦争に踏み切るつもりだからだろう。そう誰もが口々に噂をしては、ミアを白い目で見ていた。
あの愛人のせいで、ギルガード家の不興を買ったのだ。
そう思われていることがわかって、ミアは耐えきれずに自室に閉じこもった。
───ちがう。そうじゃないわ。殿下のためにしたのよ。殿下を守るためにしたことなの!
そう叫びたくとも、ミアの味方はいない。
(わたくしのせいで戦になるの?)
そんな恐ろしいことは望んでいなかった。
身体の震えが止まらずに、手の中にあるものを強く握りしめる。
そのときだ。侍女がアルフレートの訪れを告げた。
「殿下!」
「やあ、ミア。不安にさせてしまったかな。でも、もう大丈夫だ」
アルフレートの優しい微笑みに、ミアの身体からどっと力が抜ける。
「よ、よかった……、ヴァルキリア様は戻ってきてくれるのですね、戦にはならずにすむのですね?」
「可愛いミア。あんな醜悪な女を『ヴァルキリア様』なんて呼ぶ必要はないよ」
嘲りの口調に、ミアはぎょっとしてアルフレートを見上げる。
彼は優しく微笑みながらいった。
「今回のことはね、私が真の王になるための試練だったんだよ。身の程を知らずの愚か者たちに、真実国を治めるのにふさわしい人物は誰なのかを知らしめるためのね。光の大神はすべてをご存じだ。そして私に力を授けてくださった。……素晴らしい計画があるんだよ。ミア、君は私を手伝ってくれるよね?」
「は、はい……、もちろんですわ、アルフレート様」
「ああ、そういってくれると思っていたよ。君はいい子だね、ミア」
はい、と頷く。
彼の言葉が恐ろしく聞こえても。
ミアはいい子だ。いつだっていい子だ。皆が望む通りの人間でいる。そうでなければ、ミアの居場所なんてどこにもないから。両親だってそうだった。いい子じゃないミアなんて、誰もいることを許してはくれない。
(───あぁ、だけど、あの女だけは笑っていた……)
どうしてだろう。
彼女の前で、ミアがいい子だったことなんて一度もないのに。
ヴァルキリア・ギルガードだけは笑っていた。
手の中に握りしめたものが、妙に熱を持つ。
───助けが必要なときは、これを持って大公家所縁の者を訪ねなさい。
あの女は、それだけをミアの耳元で囁いて、王宮から消えたのだ。