7.ひとまずの決着
ヴァルは冷たく笑って、再び指先で印を描いた。
「───解け、其は雫なれば」
氷が一瞬で水に変わる。自分以外の全員が水浸しになった。
補佐官たちは腰が抜けた様子でへなへなと座り込んだ。騎士たちはとっさに剣に手をかけたが、そこだけ未だに凍り付いたままであることに気づいてぎょっとした顔になる。
そちらへ視線を向けて静かにいった。
「次にわたしの前で剣に手をかけるときは、死ぬ覚悟を決めておけ」
つい軍での口調が出てしまったけれど、令嬢にあるまじき言葉遣いを咎める気力のある者は一人もいないようだった。
騎士たちは愕然とした顔でこちらを見て、それから怯えたように視線を落とす。
加勢してくれるはずの味方の誰もが心が折れた様子になるのを見て、アルフレートが怒りに身体を震わせる。しかし、こちらへ向かってくる様子はない。拘束が溶けてもなお、その場を動けずにいるようだった。
(まあ、この辺りかな)
殺し合いを避けたい以上、ほどほどで引くのも大切だ。
アルフレートを見つめて、わざとらしく明るい声でいった。
「殿下。わたしが殿下を脅すなんて決してあり得ませんわ。ただ、もし脅すとなったらどういう振る舞いをするのかを、具体的に示させていただきましたの。夫婦には相互理解が大切ですものね。あぁ、でも、皆さま服が濡れてしまいましたね! 申し訳ありません、着替えが必要でしょうから、わたしはこれで下がらせていただきますわ」
恭しく一礼をして、アルフレートに背を向けた。
そして扉に手をかけてから、憎しみもあらわな形相でこちらを睨みつけてくる未来の夫に向かって、静かに告げた。
「殿下。ミア嬢との仲に反対はしませんわ。ですが、大公家の人間を蔑ろにすることはやめていただきたい。わたしの望みはそれだけです」
※
二週間後、ヴァルは新しい部屋でのんびり暮らしていた。
王宮の端っこから、それなりに中央へ近い部屋に引っ越したのだ。
引っ越し作業は王宮側で全部やってくれたので、こちら側は家具の位置を指示する程度の気楽なものだった。
新しい部屋は日当たりもよく、ヴァルはソファに座ってぬくぬくとしていた。来客などの予定は済ませた後なので、結い上げた長い黒髪は解いてしまった。いつもなら叱りつけてくるアトリも、今日は心なしか満足そうな様子で向かい側に座っている。
リエルが紅茶を用意してくれてから、こちらを見てしみじみといった。
「アルフレート殿下も愚かな真似をなさいましたね。眠れる竜を叩き起こすとは」
「そんな、猛獣扱い?」
「ふん、お前に比べたら猛獣のほうが可愛いものよ」
アトリはつんと澄ました顔でそういってから「それよりも」と忌々しそうにいった。
「お前、あの女に何度もお茶会の誘いをかけているんですって? どういうつもりなの。あんな泥棒猫に下手に出るなんて!」
「下手に出ているつもりはないわよ。ただ仲良くやりたいだけ」
自分の引っ越しと同時に、ミアも部屋を移動した。自分がいた部屋ほど端ではないが、以前よりは中央から離れた場所だ。
(これで手打ちにしろという意味なのかな?)
あの夜以来、アルフレートとは顔を合わせていない。
最後に見たときの憎悪の眼差しを思い返すと、これほど早く妥協案を示してくるのは意外だった。王太子として心を切り替えたということか、あるいは……、アルフレートではなく宰相の采配なのかもしれない。
王太子アルフレートと宰相ギリアスは、表面的には友好関係を保っているものの、水面下では対立している。今の国王は政治に興味がなく、国政を握っているのは実質的には宰相だ。王太子にとってはそれが忌々しいのだろう。
ちなみに、あの庭での遭遇の後も、ミアとは何度か顔を合わせている。そのたびに自分はなれなれしく声をかけているし、ミアには元気よく罵倒されている。
「あの率直な罵り文句を聞くと、逆にホッとするのよね。いつかミア嬢とは仲良くなれる気がする」
「お前、なにを突然変態じみたことをいい出すのよ!? 疲れているの? 特別に昼間から休んでも許すわよ?」
「だって、わかりやすいじゃない? 好きな人の婚約者だから嫌いって、理解できるし納得できるもの」
アルフレートに比べると、ミアが噛みついてくるのなんて可愛いものだと思う。
それに、これをいったら絶対に激怒されるだろうからいわないけれど、ミアのあの吠えたてる様子はちょっとアトリに似ている。ミアに対して大らかな気持ちでいられるのは、アトリで慣れているからというのも大きいと思う。
アトリだって昔は顔を合わせるたびに「この愚か者!」とぎゃんぎゃんいってきたのだ。いや、何なら今も普通にいわれている。アトリは上から目線の物言いをしてくるのが基本姿勢だ。子供の頃は腹が立って大喧嘩をしたこともある。
しかし、何年も付き合っているとさすがに慣れた。
それに、アトリが自分に対して当たりがキツイのは、自分が養女にも関わらず筆頭魔術師で、彼女が大公の実の孫なのに魔術が苦手だからだ。アトリは戦い自体が嫌いで、血を見ただけで倒れたこともある。人それぞれ生まれ持った性質というものがあるだろうし、孫だからといって魔術が得意である必要はないだろうと思ってしまうけれど、それは自分の立場だからいえることだろうともわかっていた。
アトリがトゲトゲしていようとも、自分にとって彼女は大事な存在だ。
リエルが用意してくれた焼き菓子を美味しく頂いてから、不満顔のアトリに向かっていった。
「ミア嬢は怒る理由がわかるから気にならないのよね。……その点、殿下はヤバかったわ」
「言葉遣い!」
「大変危うかったです。あの手の精神攻撃は初めて受けました。自分が無能で無価値の屑であると思い込みそうになって危ないところでした」
「はあ? お前、なにをいっているのよ。水の筆頭魔術師ともあろう者が、無能で無価値? 大公家への許しがたい侮辱だとわかっているの?」
「だから、危ないところだったんだって」
誤魔化すように、手をひらひらと振ってみせる。
冷静になって考えたら、あのときの自分はあまりにも卑屈になりすぎていたと思う。だけど渦中にいたときは気づけなかった。あの苦しさは、今もうまく説明できる気がしない。
だから余計に、ミアのことが気がかりだった。
アルフレートが大公家に敵意を持っていて、意図的に、自分にだけ攻撃的だったというのならまだいい。やられたらやり返すだけだ。自分にはその力がある。この先、アルフレートと寝室などの密室で二人きりの状況が待っているとしても、自分に恐れはない。暴力に頼るなら自分のほうが強いからだ。
だけど、アルフレートのあの豹変が『大公家の娘』のみを標的にしたものではなかったとしたら……?
アルフレートは執務室以外では叱責しなかった。彼の王宮での評判の良さは今も揺らいでいない。自分が部屋を移ってからは、むしろミアの評価が下がっている。ミアの部屋が今までアルフレートの部屋に近かったのは、彼女の我儘によるものだったといわれているからだ。アルフレートは大公家の令嬢を冷遇するつもりはなく、ずっと苦悩してきた……そんな噂が、すでに回り始めている。
いつもアルフレートは傷つかない。
ヴァルは自分の婚約者に、得体の知れない不気味さを感じ始めていた。
だからせめてミアと親しくなっておきたい。彼女が窮地に陥ったら、助けを求める声を上げることができるように。
(まあ、なかなか難しいだろうけど……)
普通に考えて、好きな人の未来の妻なんて、この世で最も許しがたい存在だろう。自分だって、ミアに対して冷静でいられるのは彼女がアルフレートの恋人だからだ。もしゼインに恋人が現れたら、心乱れずにはいられないだろう。
紅茶を一口飲んで、深く息を吐き出した。
「とりあえず、大公閣下が動く前に対処できたことはよかったわ。うん、よかったよかった」
そう、気の緩んだ顔で笑ったときだ。
侍女が慌てた様子で部屋に飛び込んできて叫んだ。
「ヴァルキリア様、大公家から使いの方がいらっしゃっています!」
思わず紅茶を吐き出しそうになるのを耐えて、引きつった顔で尋ねる。
「閣下から……!?」
「いえ、フィンヘルド様の使いとのことです!」
「よかった……」
次期当主であるフィン様は穏健派だ。戦になるなどという知らせではないだろう。
そう胸をなでおろしたとき、侍女が再び叫んだ。
「即刻、大公家へ戻るようにとのお達しです!」
ヴァルは全身からざあっと血の気が引くのを感じた。