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46.間章-アトリ・ディンの場合①-



 才能という言葉に打ちのめされていたあの頃。

 アトリ・ディンはヴァルキリア・ギルガードが世界で一番大嫌いだった。



「お嬢様、今日は良い天気ですよ。たまにはピクニックに出かけるのもいいんじゃありませんか?」


「わたくしは勉強しているの。だまってちょうだい」


「申し訳ありません……」


 年かさの侍女がうなだれた様子で退出していくのを背中で感じながら、アトリはイライラと開いたページを読み返した。熱心に読んでいるのは魔術の教本だ。高度な魔術構成について記されたその本は、大公領でも手に入りにくい貴重な書物だったけれど、アトリが望めば簡単に与えられた。


 なぜならアトリはギルガード大公閣下の孫娘。この大公領では『お姫様』といっても過言ではない。大公家の城にこそ住んでいないけれど、中央都市の一等地に大きな屋敷を与えられて暮らしている。


 アトリが生まれたのは王都のディン伯爵家の屋敷だった。七歳までそこで暮らしていたけれど、魔物の襲撃が激化していく中で、父方の祖父であるディン家御当主はとうとう王都の防衛にも不安を覚えるようになったらしい。この国で最も安全な場所へ行きなさいといわれ、アトリは二年前にこの大公領へ移ってきた。


 ……アトリ一人だけだ。両親は来なかった。貴族として王都を離れるわけにはいかないからと祖父は説明したけれど、そうでないことをとうに気づいていた。


(お父様もお母様も“芸術”が大事だもの……。ここには人気のある詩人も、新しい作品について語り合うお友だちもいないものね……)


 つまらないから、大公領には来なかったのだ。娘が一人で行くことになるとわかっていても。


(仕方がないわ、わたくしでは楽しませてさし上げられないもの……)


 魔術の教本を見返しても、文章がまるで頭に入ってこない。集中が切れてしまったのだ。

 はぁと息を吐き出して、教本を閉じる。窓の外を見れば、まだ日は高かった。この時間帯なら大人たちは忙しく働いていることだろう。

 大公家の城に上がっても、誰かに話しかけられることもないはずだ。



 ※



 なるべく人の通らない道を選んで城の中を進んでいく。


 目指しているのは図書室だ。大公閣下やフィンヘルド、それに今は城にいない閣下の奥方の蔵書がしまわれている。といっても冊数はさほど多くない。魔術関連の書物は基本的に学園都市ヒューロにある大図書館に置かれているからだ。魔術の勉強や研究がしたい人は皆そちらの図書館を利用する。城内にある図書室はこじんまりとしたもので、立地的にも利用者はいないようだった。


 アトリにはそれがよかった。


 自分のことを知っている人間と顔を合わせたくなかったし、声をかけられたくもなかった。アトリは大公家の『お姫様』だ。だから表立って悪くいう人はいない。皆、優しく愛想よく接してくれる。


(……裏でなにをいっているか知れたものではないけれど)


 アトリが大公領に来たばかりの頃は誰もが期待の眼で見てきた。あの大公閣下の孫娘なのだから素晴らしい魔術師になるだろうと思われていた。……今ではそんなことを思う人はいない。


 アトリには魔術の才能がなかった。ないということが明白なほどになかった。期待の眼はたちまち失望へ変わった。五家当主の一人が「やはりあのイズーナ様の子ではな」と話しているのを聞いてしまったこともあった。


 イズーナはアトリの母の名前だ。大公閣下が可愛がっていたという娘。閣下は長男のフィンヘルドに対しては跡取りとして厳しく教育する一方で、幼い頃は病弱だったイズーナに対しては魔術の勉強を強いることもなく好きにさせていたのだという。

 結果としてイズーナは芸術の道に目覚めて、周囲の反対を押し切って王都へ行き、よりにもよって貴族の男と結婚して子供をもうけた。

 その子供がアトリ・ディンだ。


 ……そういった話を、アトリは周囲の噂話から知った。


 大公閣下がもし、貴族の男と結婚したイズーナを許していなかったら、あるいは貴族の血を引く孫娘を疎んじていたら、この地での自分の扱いはまったく違うものになっていただろう。


 けれど閣下は自分に優しかった。大公家の一員として受け入れ、なに不自由なく暮らせるように取り計らってくれた。フィン伯父様も忙しい中で自分を気に掛けてくれている。フィン伯父様の子供である二人の従兄弟、ゼインヘルドとルインヘルドも親切だった。……ゼインヘルドのほうには恐ろしさを感じたものの、それは彼に何かされたからではなかった。ただ纏う雰囲気が近寄りがたかっただけだ。


 王都にいた頃、祖父に連れて行かれたガーデンパーティーで、歳の近い子たちに「魔術師の卑しい血を引いている」と嘲笑われたことに比べたら、従兄弟は二人とも紳士的だった。これで文句をいったら罰が当たるだろう。


(……わたくしは期待されなかっただけ。でも、それは仕方のないことだわ)


 仕方がない、仕方がないと必死で自分にいい聞かせる。それでも返却するための本を抱える両腕に、張り詰めた力が入ってしまう。


 少し前からずっと胸を苛んでいる名前がある。二ヶ月前に閣下が養子にした子供。一ヶ月前から学園都市ヒューロの幼学校に通い始めた子供。自分と似た年頃だという少女。だけど自分とは決定的にちがうところがある。


 ヴァルキリアという名前の彼女は、ずば抜けた才能の持ち主なのだという。魔術を学び始めてまだたった一月なのに、熟練の教師すら上回る強大な魔術を操ったのだとか。立て続けに魔術を放っても力尽きることなく、信じられないほど膨大な魔力量を有しているのだとか。そんな噂が嫌でも聞こえてくる。


「まだまだ粗削りで学ぶべきことは多いが、あの子には輝かしい才能がある。あれは磨けば光る原石だ。いずれ水の筆頭魔術師さえ目指せるかもしれん。さすがは大公閣下が見出した子供だ!」


 そう五家当主の一人が興奮気味に話しているのを聞いてしまったこともあった。自分のことを「イズーナ様の子ではな」と失望した様子でいっていたのと同じ声が、ヴァルキリアという少女を手放しで褒めていた。


 ───輝かしい才能がある。


 それはアトリが喉から手が出るほど欲しかった言葉だ。


 同じ閣下の孫でも、ゼインヘルドが褒め称えられるのは諦めがついた。だって彼はフィンヘルドの子供で、いずれ大公家を継ぐ身だ。自分とは立場がちがう。だから仕方ないと、そう思えた。だけどヴァルキリアは。


(……養女のくせに……)


 歯を食いしばる。この気持ちがまちがいなことはわかっている。だけど憎くてたまらない。悔しくてたまらない。


(……才能があるかないかなんて、ただの運じゃないの……!)


 ヴァルキリアという少女はただ幸運だっただけだ。頑張ったわけじゃない。努力したわけじゃない。


 努力なら自分のほうが絶対にたくさんしている。毎日毎日、魔術の教本を読み込んで、今では高度な専門書だって読めるようになった。知識だけなら教師にも負けないほど豊富にある。実践だって頑張った。フィン伯父様に頼んで家庭教師をつけてもらって、毎日特訓に時間を費やした。こちらは結果が出なかったけれど、それでも必死にやってきたのだ。「さすがは大公閣下の孫だ」といって貰うために、魔術の勉強に没頭してきた。大公閣下に褒めていただくために、ずっと努力してきたのだ。


 それなのにヴァルキリアは、突然現れて横からすべてを掻っ攫っていった。


 大公閣下に見いだされた子供。すぐに魔術の才能が開花して、いずれは筆頭魔術師にもなれるだろうといわれている。何もかもがトントン拍子にうまくいって、順調に上に登っていく人間。


(でも、勉強ならわたくしのほうがずっとしているわ……!)


 ヴァルキリアは何もしていない。

 彼女は運に恵まれていただけだ。


 たったそれだけのことで自分の欲しいものを全部奪っていくのだ。


 返却するための本を両腕でぎゅっと抱きしめて、ひたすらに歩く。


 図書室は城内でも奥まった場所にある。扉を開けると静けさが満ちていて、ホッと心が安らいだ。


 ここには誰もいない。アトリを見放す人間も、ヴァルキリアを持ち上げる人間も。そう思うとひどく安心できて、深く息を吐き出した。


 小さな図書室には四人掛けのテーブルが一つあるだけだ。いつも通りに本棚の間を通り抜けてテーブルへたどり着き、そこでアトリはびくりと震えた。


 人がいる。子供だ。自分と同じくらいの年頃だろうか?


 黒髪の女の子がテーブルの上で本を広げたまま、頬杖をついてすうすうと寝息を立てている。午後の暖かな日差しの中で、つい睡魔に負けてしまったような姿だ。


 アトリは恐る恐る近づいて、その子供を上から下まで眺めた。


(……使用人の子かしら?)


 この図書室が使用人にまで開放されているという話は聞いたことがなかったけれど、迷い込んでしまった可能性はあるだろう。少なくとも、五家などの人間というよりはあり得そうな気がした。なぜってどう見ても裕福な家の子供の服装ではないからだ。長衣も幅広の帯も相当長く着ているのだろう。すっかり色褪せてところどころほつれていた。


 迷子なら起こして親のところに連れて行くべきだろうか? 

 アトリが迷ったときだ。


 黒髪の子供が眠たげに瞼を持ち上げた。そこに現れたのは絵画に描かれる海のような青色だった。深く濃く美しい海のような青だ。


 彼女はぱちぱちと瞬いて、こちらを驚いたように見ていった。


「……お姫さま?」


 それはアトリのことを知っているようには聞こえなかった。

 ただ純粋に、アトリの容姿や服装を見て『お姫様』だと思い、そんな存在が目の前に現れたことに驚いているような声だった。


 アトリはなるべく優しい声を出していった。


「わたくしはアトリよ。あなたのお名前を伺ってもいいかしら?」


 鈴のように軽やかと評されるアトリの声に、青い瞳の彼女はわたわたと慌てた様子で姿勢を正した。


「わたし、ヴァルです。ヴァルキリアです!」


 アトリは耳を疑った。


 その名前は忌々しい少女のもののはずだけれど、いや、噂の子供は大公閣下の養女だ。間違ってもこんな粗末な服を着ているはずがない。単に同じ名前なだけだろう。そう納得して微笑む。


「ヴァルというのね。ご両親はどちらにいらっしゃるのかしら?」


 彼女の青い瞳からすとんと表情が消える。


 それは残酷なまでの変化で、アトリは内心でひどく慌てた。何か悪い事を聞いてしまったかしらと、フォローのための言葉を重ねようとしたときだ。


 ふっと彼女が息を吐き出した。まるで心を切り替えるように呼吸をして、彼女はにっこりと笑った。


「いまは大公閣下がお父さん……じゃなくて、おとうさまですね!」


 アトリは絶句した。

 まじまじと改めて目の前の女を見る。


「……ヴァルキリア?」


「はい」


「ヴァルキリア・ギルガード?」


「はい」


「ど、どうしてそんな服を……、まさか、誰かにそのような物を着ろと命令されたの?」


「いえ? 新しい服をもらったんですけど、きれいすぎて汚しそうでこわくて。だからメイドさんにたのんで、お子さんのおさがりをもらったんです」


 ニコニコと青い瞳の女がいう。


 大公閣下の養女でありながら、粗末な服を着て笑う。魔術の才能を見込まれながら、着古した服を着て平然としている。


 ───この女は、それが大公家の品位を傷つけるということもわからないのか。


「この……っ、この愚か者!!!」


「えっ」


「お前のせいで大公閣下が誤解されたらどうしてくれるの!! 養子だから虐めているなんて思われたら大公家の名誉に傷がつくのよ! そのくらい考えられないのかしら、信じられない愚か者ね!!!」


 ヴァルキリアは呆気にとられた様子でアトリを見つめてから、引いた顔をしていった。


「お姫さま、すごい口が悪いね……? いきなりひどくない?」








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