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45.間章-ゼインヘルド・ギルガードの場合-


 宛がわれた客室へ入り、軽く息を吐き出す。


 ヴァルは王太子派の貴族たちに手紙を書くと張り切っていたが、あの騒ぎの後ではこちらと会う度胸がある者がどれだけいることか。ゼロでもおかしくはないだろう。


 ソファにどさりと腰を下ろし、短く詠唱する。

 室内に結界を構築するための術だ。火の魔術はこの手の術には不向きだが、視界をかく乱する程度なら難しくはない。それでも火の筆頭魔術師であるゼインヘルドが詠唱を省かずに、指先でも印を描くのは、万全を期すためだった。


 室内にはゼインヘルド一人だ。

 ()()を誰にも見せるわけにはいかないからだ。


 黒の喪服を脱ぎ、魔術師としての服装に着替える。再びソファに腰を下ろして、こめかみに指をあてた。悔やむように眉間に皺が寄る。


 腕の中にはまだ、馬車でヴァルを抱き締めたときの温度が残っているようだった。声を殺して泣く彼女の震えが残っているようだった。


(……愚かな真似をしたな)


 ああやって自分が泣かせてしまえば、ヴァルはますますほかの人間の前では泣かなくなる。自分が慰めてしまえば、ヴァルはこの先も真っ先に自分を頼りにしてしまう。


 それでは駄目なのだとわかっているというのに、抱き寄せてしまった。


(……アトリ嬢に任せるべきだったか?)


 あの従妹はヴァルの親友で付き合いも長い。自分が何もいわずに帰宅していたなら、従妹は一目でヴァルの様子がおかしいことを察しただろう。


 だが、アトリに問われて、ヴァルが正直に答えられたかはわからない。


 これは友情や親愛の問題ではない。あえていうならば認識の違いだ。


 ヴァルにとって恐らく、アトリは弟のグレイと同じ『守るべき日常』の象徴だ。親友や弟が元気でいてくれるから、彼らを守るために戦場へ行ける。苦しくとも耐えられる。己の背後にある大切で輝かしいもの、その象徴的な存在の内の一人だ。


 だからこそヴァルはアトリの前では笑ってみせるのだろう。死や血の匂いを彼らには近づけたくないのだ。何一つ恐れるようなことはないのだといわんばかりに明るい笑顔を見せる。


(アトリ嬢はとうに気づいているだろうがな……)


 そして歯がゆく、口惜しく思っているのだろう。あの従妹がヴァルに望んでいるのは「大丈夫」という安心させるための言葉ではない。弱音を吐かれることだ。苦しみを打ち明けられることだ。……ヴァル本人だけは未だにそのことに気づいていないが。


 しかし、それを咎めるには水の筆頭魔術師という地位は重すぎる。


 いくら魔術師が実力主義とはいえ、一軍の将というのは本来あの若さでなるものではない。ゼインヘルドのように大公家直系ならまだしも、ヴァルは魔術とは無縁の家で生まれ育った人間だ。もし両親が生きていたら、いや母親だけでも健在だったならヴァルが大公家の一員となることはなかっただろう。幼くして重責を担うことはなかったはずだ。


 だが、ヴァルキリア・ギルガードが存在しなかったなら、今もまだ大戦は続いていただろう。彼女は間違いなく大公家の四天、水の至高なる守護者、天を穿つ欠けざる剣だ。……たとえ、その抜きんでた才覚こそが彼女を苛む原因であろうとも。


(……あの馬鹿が、大丈夫だといい張っていればいつか真実そうなるとでも思っているのか)


 なるわけがない。いつか来るのは崩れ落ちる日だけだ。


 


 ゼインヘルドはアトリとは立場がちがう。火の筆頭魔術師であり、ヴァルの魔術の師の一人であり、数えきれないほど戦場で背中を預けた仲だ。ヴァルにとってゼインヘルドは強者である。弱さを見せることをヴァルがヴァル自身に許せるほどには、ゼインは圧倒的に強い。


 だからヴァルが自分の前なら泣けることを知っていた。


 ───それでは駄目なのだということも。


 苦い思いで息を吐く。


(……何だかんだと理屈を並べ立てたところで……、結局俺は、ヴァルにあんな顔をさせていたくなかっただけかもしれないな……)


 壊れそうな瞳をしながら、完璧に微笑もうとするヴァルキリアを見ていたくなかっただけかもしれない。泣かせてやりたかった。抱きしめて、崩れ落ちる前に寄りかからせたかった。彼女のやせ我慢も意地もすべてはぎ取って、いっときでも重荷を手放させてやりたかった。


 叶うものなら、大丈夫だと囁いて、俺がついているだろうと抱きしめてやりたかった。


 できるはずもないのに。


(……あの王太子が真っ当な男であることを期待してたんだがな)


 ヴァルのいう『絵にかいたような王子様』という評価を鵜呑みにしていたわけではないが───なにせ彼女は簡単に他人を受け入れる人間だ───世間の評判も良かった。馬狂い王とちがって悪評は聞こえてこなかった。ヴァルとの婚約後にミア・ホイスラーという愛人の噂が聞こえてきたときには殺意が沸いたが……、ここまで進んでしまった話を白紙に戻すには自分との結婚しかないだろうとわかっていた。ほかに大公閣下やフィンヘルドを納得させる方法はないと。


 だから沈黙を守った。


(……たとえよそに女がいる男でも、俺に比べたらヴァルにとってはマシだと思ったんだがな……)


 まさか駆け落ちなんぞをやらかすとは思わなかったし、心中やら王妃の件やらと話はどんどんきな臭くなっている。


 ため息を吐く。


 まだ猶予はある。まだ数年はもつだろう。自分の感覚としてもそうだが、ヤナ博士の調査結果としても同様だった。まだ時間はある。


(だが……、だからこそ、今のうちに距離を取らなくては……)


 ヴァルが自分ではない誰かと結婚して家庭を築き、子供でも持ってくれたなら最善だ。そこまで行かずとも、いずれ来るそのときに、彼女を泣かせることができる人間がいてくれたらそれでいい。


(……俺がお前の傍にずっといられる男だったら、誰にも渡さなかったさ)


 もし違う未来があったなら、あの美しい青の瞳に口づけて、艶やかな黒髪に触れて、ともに夜を越えただろう。あの心地良い声にサボるなと怒られながら、いつまでも隣を歩いただろう。


 だが、それはあり得ない話だ。


 ゼインヘルドは知っている。


 ぎりぎりのところで立っているようなヴァルを、真に絶望させるのは自分なのだということを。


(俺は必ずお前を裏切る。お前をずたずたに切り裂き、絶望の中で膝をつかせ、二度と立ち上がれぬような思いをさせるだろう……)

 



 それは冥竜オルガヘイムに敗れたときから───、いや。


 ヴァルキリアがあの力を目覚めさせたときから決まっていた未来だ。





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