43.くだらない理由
ディン家の屋敷に帰宅する。
御当主は不在だったので、アトリにだけ礼拝堂での出来事を報告した。正直にいうとアトリには聞かせたくない話だった。激怒するのが目に見えているからだ。しかし、王妃と揉めたことを黙っているわけにはいかない。
事情を話すうちにアトリの顔は蒼白になり、それからまなじりがきりきりと吊り上がった。扇を持つ手が怒りに震えていて、今にも繊細な作りのそれをへし折りそうだった。
「王妃の首を落として犬の餌にしてくれるわ」
「やめてやめて。血を見るのも苦手なくせに何を言いだすのよ」
「わたくしを侮るのではなくってよ、ヴァル! わたくしとて大公閣下の血を引く者、戦う覚悟ならとうにできているわ!」
「その覚悟は社交界とか別の場所で発揮してほしい、切実に」
「王侯貴族にとって嫌味など嗜みのうち、けれど許してはならぬ一線というものがあるのよ! お前の母君のことを口にするなどよくも……! 恥知らずな……!」
「それならもう言い返したから。ゼインも強くいってくれたしね」
「ヴァル……!」
「大丈夫だって。そんな顔しないで、アトリ。本当に心配しなくて大丈夫だから」
いつも通りに笑ってみせる。
けれど友人の美しい顔は大きく歪んだ。藤色の瞳に露骨な苛立ちが見える。
……アトリは昔からときどきこうだ。大丈夫だといって笑うと、余計に怒った顔になる。どうしてなのだろう。自分がうまく笑えていないのだろうか? 平気な振りは得意なはずなのに、なぜアトリを怒らせてしまうのかがわからない。
隣に座るゼインは黙ったままだ。こういうときのこの人には助け舟は期待できない。
話を逸らそうと、今回の件についての疑問を口にした。
「ただ、王妃殿下がいきなりあんなことをいってきた目的はわからないのよね。あれじゃ戦争を吹っ掛けて来てるも同然だけど、それを望んでいるようにも見えなかったし……」
ゼインがあのとき『宣戦布告と受け取る』といったのは、あれは別に大袈裟なわけではない。すでに王家とは緊迫した関係にあるというのに、このうえ大公閣下の娘であり水の筆頭魔術師である者を亡き親の件まで持ち出して侮辱するというのは、『言い争い』で済む範囲を超えている。
仮にあの場に大公閣下がいらっしゃったなら、今ごろ礼拝堂は焼け落ち、貴族たちの屍が累々と転がっていたことだろう。考えるだけで背筋が冷える。
王妃はいったいどんな思惑があってあんなことを? と考え込むと、アトリが疲れたような顔になっていった。
「あくまで推測だけれども……、ないわよ」
「何が?」
「思惑だとか深い理由だとか、そういったものは王妃にはないわ。あの女はとにかく自分が最も注目を浴びる存在でないと気が済まないのよ」
「……『美しく慈愛に満ちた聖母のような王妃様』じゃなかった?」
「ええ、周囲にそう思われるためならドレスを汚すことだって厭わないでしょうね。けれど、自分が社交界の中心として扱われないことには我慢がならない類の女よ」
アトリが扇をぱちりと広げて、過去を思い出すようにいった。
「例えば、そうね、舞踏会でどこぞの令嬢が王妃のドレスにワインを零してしまって、真っ青になって平謝りしたなら、王妃は優しく微笑んで許すわ。令嬢を気遣うことさえするでしょうね。けれど、舞踏会で王妃への挨拶より先に、久しぶりに会う婚約者のもとへ駆け寄った令嬢は許さないわ。そのくせ上に立つ者として堂々と無作法を叱責することはないのよ。ただ、周囲の人間に憂い顔で零すの。『あの子に恐ろしい眼で睨みつけられたわ、わたくしは憎まれてしまったのかしら、どうしてなのかしら……、とても悲しいわ……』とね。その令嬢は社交界で爪弾きにされて、婚約者とも駄目になったわ」
「こわ!! なにそれ怖い! えっ初耳なんだけど、アトリ?」
ぞわぞわと鳥肌の立った二の腕を抑えながらいう。
けれどアトリは平然とした顔でいった。
「まあ実に貴族的な人物よ。だからといってお前が怖がることなどないわ。件の令嬢は低位貴族だったから悪評に負けただけ、婚約者は保身に走っただけよ。もし王妃に権力があったなら令嬢は家ごと潰されていたでしょうけど、そんな力はないのよ。せいぜいお茶会の場から締め出すことしかできないわ」
「それでも怖いよ。やり方が怖い。ぞわっとしたわ」
「お前、五家の蛇女や蜘蛛女と平気で付き合っておいて、この程度のやり口を怖れるというの?」
「いや、イースやランだったら無作法程度の理由でそんな真似はしないからね? 相手に悪意があるならともかく、婚約者に会えて舞い上がっちゃったくらいは見逃すわよ。二人とも昇進のライバルなら引きずり下ろすけど、そうじゃない相手には優しいもの」
「それは優しいのではなくて関心がないというのよ! お前はもっと付き合う相手を選びなさいな! お前ときたら友を見る眼もないのね! ……コホン、ともかく、王妃は自分への敬意も注目も欠くことを許さない類の人間よ。だから……、アルフレート殿下が亡くなってから苛立っていたのではないかしら」
アトリはため息をついて続けた。
「今までは王妃であり次期国王の母だった。この世で最も高貴な女性として尊敬されていたわ。王太子の婚約者としてお前が現れても脅威には感じなかったでしょうね。なにせ貴族たちの大嫌いな魔術師ですもの。王妃の地位は揺らがないわ。……けれど今、人々の関心は宰相ギリアスの令嬢へ移っている。近いうちに彼女は王太子妃になり、いずれ王妃になると見なされているからよ。社交界の華、中心人物は今や王妃ではなくなった。それが許せなくとも宰相の娘では悪評も通じないわ。だから……、より悲劇的な立場を手に入れようとしたんじゃないかしら。お前を血も涙もない冷酷な女に仕立て上げることで、我が子を殺された悲劇の母親として注目を取り戻そうとしたのだと思うわ……」
はあと、アトリが再びのため息を吐く。
呆気に取られてから、思わずいってしまった。
「そんな理由であんな内戦になりかねないことを……?」
「ヴァル、王侯貴族というのはくだらない理由でたやすく争うものなのよ。なぜって戦争になっても自分が血を流すことはない人間がほとんどだもの」
アトリは皮肉っぽくいう。
ゼインが「真理だな」と笑った。
自分は安全な場所にいる、あるいはそう思い込んでいる者ほど簡単に争いたがるのだろう。まあゼインのような例外(戦闘狂)もいるけれど。
しかしそうなると、新たな問題が浮上してくる。
「王妃がその程度の理由しか持たないなら、わたしの親のことまで調べられるとは思えないな……」
アトリが苦い顔をし、ゼインは頷いた。




