35.苛烈な女
こういうところは大公閣下にそっくりだ。アトリは似ていないことを気にしているけれど、怒り狂ったときの瞳はまさに大公家の女である。
そう現実逃避のように思った。なにせ、アトリが何にこれほど腹を立てているのかよくわからない。王太子の婚約者の地位を奪ったと怒られているわけではないことだけはわかる。アトリも全然アルフレート殿下に興味がなかったのだから。
「あの、アトリ、わたしが婚約者になったのは年頃の娘の中で一番暗殺されない人間だったからで」
「次にわたくしに見え透いた偽りを述べたなら、その口を縫い付けてやるわ」
「こわっ!」
「わたくしはね、待っていたのよ。お前に猛烈に腹を立てながらも待っていてあげたのよ。わかるかしら、ヴァル? お前が本心を打ち明けて、わたくしに婚約者を変わってほしいと泣きついてくるのを待っていてあげたというのに、お前ときたらいつまで経っても……!」
「い、いやだからアトリ、なんか前提が間違って」
「このわたくしが、お前の愚かしい浅知恵に気づかないと思うの!? お前が……ッ、お前が婚約者になったのは、わたくしのためでしょう───!」
栗色の瞳がひどく辛そうに歪む。
へっ? と思わず声を上げてしまったけれど、アトリは泣きそうな顔のまま続けた。
「わたくしは王家になんて嫁ぎたくなかった。本当はアルフレート殿下のことも苦手だったわ。いずれ王妃になって、一生を檻のような貴族社会で過ごすのかと思うと絶望したわ……。ええ、それは否定しない。わたくしは、選べる身ではないと知りながら、この縁談を厭わしく思っていた……。けれど、だからといって、お前に身代わりになってほしいと望んだことなんて、一度だってなくってよ、ヴァル!」
深い怒りに満ちた栗色の瞳に貫かれる。
品良く整えられた室内で、魔道具の明かりが照らす中で。
幼い頃から知っている美しい親友が、射殺すような形相でこちらを見てくる。
「どうせお前のことだから、わたくしが嫌がっていることに気づいて勝手に身代わりになったのでしょう。頼んでいないわ! わたくしが一度でも、お前の人生を犠牲にしてわたくしを守ってちょうだいなんていったことがあって!? お前はいつもそうよ。いつもいつも勝手に行動して、わたくしに何もいわないで!」
アトリが震える息を吐き出す。もはや竜の火炎のごとき怒りに満ちた息だった。
「だからわたくしは、今回はお前が打ち明けてくるまで何もいうものかと決めたのよ。お前が一人で背負おうとするのをやめて、わたくしに心を明かすまでは、なにもいうまいと……ッ! それなのにお前は、この期に及んでもまだ誤魔化そうとするのね!?」
らんらんと燃え盛る栗色の瞳が、最終通告のようにこちらを見つめた。
「これがわたくしがお前に与える最後の機会よ。本心をおっしゃい、ヴァルキリア」
思わず天井を仰いだ。
はーっと息を吐き出す。
誤解はある。というかアトリの考えは前提が間違っている。
……けれど、ずっと抱え込んでいる痛みがあるのも事実だった。
目を伏せたまま力なく笑った。
「……ゼインがフィン様に話しているのを、うっかり立ち聞きしてしまったのよ」
「わたくしを王家に嫁がせるという話ね?」
「いいえ。ゼインは……、わたしと結婚するくらいなら死んだ方がマシなんだって」
栗色の瞳がきょとんと見開かれた。
かくかくしかじかと、自分が政略結婚を望むまでの経緯を説明する。
ゼインの言葉についてはアトリはずっと困惑していたけれど、最終的に彼の後押しがあったから自分が婚約者に決定したのだろうというところまで話し終えると、白皙の頬は羞恥による赤味が増していた。
「……お前の言葉が本当なら」
「今さら嘘はつかないわよ」
「お前が婚約者に名乗りを上げた頃には、まだ誰にも決まっていなかったということかしら……?」
「ええ。フィン様の手元に候補者リストはあったでしょうけどね。でも、そこにアトリの名前はなかったと思うわよ?」
「そんなはずないわ! わたくしは真っ先に名が上がるはず……!」
「ん~、嫌がっている人間を無理に結婚させようとは考えないでしょう、フィン様は」
自分が知る限りフィン様は非常に合理的だ。気の進まない人間を無理に嫁がせて後々のフォローが大変になるよりは、最初から結婚を望む人間を探してくるだろう。
今回は特に王妃の座というとびきりの権威も付いてくるのだ。
自分もアトリも権力争いにおける野心というものがないので、考えるだけで辟易してしまうけれど、権威や権力に意欲的な女性も当然いる。
「フィン様が選ぶなら、五家のイーズか」
「あの蛇女!? あんな邪悪な女にこのわたくしが劣るというの!?」
「傲慢さと計算高さでは全然負けているでしょ。もしくは風の君の補佐官のラン辺りじゃない?」
「あれは蜘蛛女じゃないの!」
「情報網が凄いのよね、彼女は。イーズもランも上昇志向が強くて、そのためなら努力ができて実力もある。ただ魔術師としての腕はそれほどでもないから、大公領にいるよりも王都へ出たほうが出世の眼がある。……という話は前に本人から聞いたことがあったのよ」
「お前はどうしてああいう欲深くて意地の悪い人間たちとも付き合うのかしら? お前にはわたくしという素晴らしい幼馴染がいるというのに!」
「あの二人なら二つ返事で王太子との結婚を了承したと思うわよ。未来の王妃の座が手に入るなんて最高だわと高笑いながらね」
だからアトリが婚約者になれと無理強いされることはまずなかっただろう。そう言外に伝えると、アトリはすっと立ち上がった。
そしてなぜか扇を持ってきて元の位置に座る。
彼女は恥ずかしそうな表情の大半を藤色の扇で隠しながらいった。
「お前が最初からきちんと話さないのが悪いのよ、ヴァル。お前のせいでわたくしはずっと誤解していたじゃないの」
「アトリが勝手に思い込んで決めつけたんじゃないの」
「お前が正直に打ち明けていたら誤解せずにすんだわ! どうしてそういう大事なことをこのわたくしに黙っているの、お前は!」
「だってアトリすぐ怒るじゃん……」
「それに、なんですって? ゼイン様がお前と結婚するくらいなら死んだほうが良いと? お前、それこそ何かの誤解じゃないの? お前ではない別の者について話していたのを聞き間違えたのではなくて?」
「ヴァルキリアという名前でゼインと結婚の可能性があった人間が、わたし以外にいたと思う?」
「それは……。でも、あり得ないわ。だってあの方は昔からお前を大事にしてきたじゃないの。こういっては何だけれど、閣下やフィン叔父様なら必要に応じてお前を駒として扱うこともあると思うわよ?」
「でしょうねえ」
「でも、ゼイン様はちがうわ。……わたくしは従妹であってもゼイン様のことは昔からよくわからないけれど……、お前が大公家で最も信頼して良い人間はゼイン様だと思っていたわ。そのくらいあの方はお前と親しくされていたじゃないの」
深く息を吐き出して、ソファにだらしなくもたれかかる。
アトリの言葉はどれも理解できた。何なら自分でも一番親しい相手だとずっとそう感じていたくらいだから。今でもそれが完全に間違っていたとは思わない。ただ、半分くらいズレていたのだろう。
「わたしはゼインにとって大事な幼馴染で、大事な家族ではあるんだと思うよ。ただ、恋愛感情がなかっただけ。彼はわたしをそういう対象として見ることができなかったのよ、残念ながらね」
胸の痛みを抑えながら、なるべく淡々と説明する。
あまり悲しんでいる顔は見せたくなかった。アトリはこの儚げな美貌に反して意外と気短で激情家だ。いつだったか、大公家との取引を求めて城へ来た貴族が、こちらのことを所詮は養子だろうとバカにしたときには、自分よりも先にアトリがキレたものだ。
『ヴァルキリアは大公家の者であり、大公領の守護者たる四天が一。相応の敬意を払いなさい。できぬというのならその首、繋がっている価値もない。犬の餌にしてやるわ』
麗しき佳人の口から出たとは思えない過激発言だ。
貴族は目を剥いていたが、自分も同じくらい慌ててアトリの腕を引っ張ったものだ。閣下の客人と勝手に喧嘩をするのはまずい。そういってもアトリは全然納得しなかったし、結局その揉め事が報告されて、貴族は閣下への目通りが叶うこともなく城を叩き出されたらしい。
今回の相手は見知らぬ貴族ではなくゼインだし、失恋なんていうのはどうしようもないものだ。ゼインが悪いわけでは決してない。
しかしそれはそれとしてアトリは怒ってゼインのところへ乗り込みそうな性格はしている。乗り込むのは何とか止められたしても、アトリは絶対に根に持つ。『ヴァルキリアを振った男』としてゼインを睨みつける。そうやってどこまでも情で動くし、潔いほどに情を貫く。
アトリのそういう人柄は好きだ。
けれど、ゼインとアトリはいとこ同士なのだ。近しい親戚で、大公家の家族だ。こんな理由で揉めてほしくない。アトリに正直に話さなかった一番の理由はそれだった。
けれどアトリは、怒るよりもまず納得がいかないらしい。
じろじろと、それこそ品定めでもするように、こちらを上から下まで見ていった。
「ドゥークの昔話の一つにこうあるわ。とある青年には幼い頃からずっと仲の良い女性がいたけれど、距離が近すぎてそれが恋だと気づかなかったという物語よ」




