34.ディン家にて
アトリの実家であるディン家の夕食は豪華なものだった。
大公領から来た自分たちに、料理人たちが気を遣ってくれたのだろう。レマ鳥の胸肉を香草で包んで焼いたものや、イガツ魚にチーズとパン粉をまぶして揚げた料理など、いかにも王都らしい食事に舌鼓を打つ。
美味しいものは美味しいのだ。たとえ同席者が怒れる友人だとしても。
ディン家の狸爺こと御当主は所用で不在だったため、細長いテーブルについているのは自分とゼインとアトリの三人だけだ。
アトリのご両親は夕食の席には現れなかった。聞けば、二人は自分たちの部屋で食べるのだという。
(相変わらずね……)
胸の内で嘆息する。
アトリの母君は大公閣下の娘であり、父君はディン家の次期当主だ。普通に考えたら、自分たちを出迎えるのは彼らになるはずだ。ゼインや自分とは日頃から交流があるのが自然だろう。けれど、自分は二人の顔を両手で数えられる程度にしか見たことがない。ゼインも同じだろう。
(なんというか……、浮世離れしてるのよね、良くも悪くも)
アトリの母君は幼い頃は病弱だったそうで、魔術師としての鍛錬を受けることもなかったらしい。彼女が目覚めたのは芸術の道だった。そして知識を深めるために王都の学び舎に入り、そこでディン家の跡取り息子と出会った───ということらしい。
アトリの母君と父君は似た者同士なのだ。彼らは政治にも社交にも興味がない。……我が子にすら。二人の関心は詩や音楽などの芸術にだけ向いている。
これが他人事であれば、自分だって「そういう人もいるんですね」といって軽く流したかもしれない。けれど彼らはアトリの両親だ。そして自分はアトリとは幼い頃からの付き合いだ。
幼い彼女が大公領で一人で過ごしていたとき、どれほど必死で意地を張って『寂しくなんかないわ』といわんばかりの顔をしていたか知っている。芸術に没頭する両親に振り向いてほしくて、アトリが詩を詠みはじめたことも知っている。彼女が成長とともにやがて、静かにその願いを諦めていったことも。
自分たちはその程度には長い付き合いだ。
夕食を終えると、アトリが怒りの眼差しで「来なさい」といった。
まさかの自分一人だけのご指名である。
「え、ゼインは? 王都の事情を聞かせてもらうなら、ゼインも一緒のほうが……」
「そちらはお祖父様が戻られてからお話しますわ。今夜は帰りが遅くなる予定ですから、ゼイン様には明日の朝、今後についてご相談させていただきたく思いますの」
「わかった。では俺は先に休ませてもらおう」
そういってゼインがさっさと席を立ってしまう。
慌てて引き留めていった。
「待ってよ、何か知らないけれどわたしだけ怒られる感じがしない? せめてゼインも巻き添えになってほしい」
「ハハッ、アトリ嬢はお前と女同士の話があるそうだ。俺が同席するのはあまりに野暮というもの」
「ゼイン様のお心遣いに感謝いたしますわ。さあ、ヴァル。四の五のいわずにさっさと来なさいな」
なにが野暮よゼインの裏切り者、どうせぐうたら寝たいだけでしょうが!
そう心の中だけでなく声に出して叫んでみたものの、聞き入れてくれる者はなかった。
※
夜の廊下は静かだった。
アトリの私室へ向かって並んで歩きながら、軽い口調でいう。
「ゼインも来ているのに、ディン家の次期当主は挨拶にも来ないのね」
「いつものことでしょう。今さら不満があるとでもいうの?」
「いつも不満よ。あのお二人がご自分たちの好きなことしかしないせいで、アトリに全部しわ寄せがいっているじゃないの。この屋敷の女主人という責任を負うべきはアトリじゃないでしょう」
「お前はいつも……、無駄に怒るわよね」
ふっとアトリが微笑む。
繊細な美しさを持つ彼女が笑うと、それだけで星が瞬くようだった。
「今はもう、わたくしがこの家の女主人を務めるのは当たり前になっているのに。お父様やお母様のことに今でも怒るのは、お前くらいよ、ヴァル。……まったくお前ときたら、昔から融通が利かなくて頑固で……、わたくしを振り回すろくでもない女だわ」
「なんでアトリはいつも突然罵ってくるの? たまには突然褒めてくれてもよくない?」
「あら、この程度で『罵る』だなんて、お前もずいぶん甘くなったものね?」
にっこりと笑われる。これが社交界では『月の女神の微笑み』と称えられているのは何か間違っている気がする。みんなうわべに騙されてない? この女神、怒ると流れるように罵倒が飛び出すタイプですよ?
アトリの私室に招き入れられる。
センスがないといわれる自分でもわかるくらいには、洒落ている室内だ。少なくとも物に溢れている自分の部屋や、虚無を感じるといわれるゼインの部屋とはちがう。
勧められたとおりにソファに腰を下ろし、アトリの侍女に紅茶を淹れてもらう。ついでに焼き菓子も用意されたので、いそいそと手を伸ばす。これから何かしらの説教を受けるとわかっているのなら、甘い物くらい食べておきたいところだ。そうじゃなくても、このコチズ粒入りの焼き菓子は、王都の名物であるし。
相向かいに腰を下ろしたアトリは、こちらが焼き菓子まで食べ終わるのを待ってから人払いした。
そして冷ややかな眼で口を開いた。
「なにかわたくしにいうべきことがあるんじゃなくて、ヴァルキリア?」
その剣呑な声音と呼び方を前に、顔が引きつる。
とはいえ、アトリのいわんとすることはわかっていた。
最初は王太子の心中事件の容疑者でありながら、安全な大公領を離れて王都まで来たことを怒っているのかと思ったけれど、その件についての話は明日の朝にしましょうといわれたばかりだ。
ほかにアトリに怒られそうな心当たりは一つしかない。
「ゼインとの婚約のこと? 今までさんざん否定してきたくせに結局婚約するんじゃないのって? あのね、アトリ、これは偽装婚約だから」
「……なんですって?」
「王太子が駆け落ちしたという知らせが来て、大公閣下が激怒されたのよ。内戦勃発寸前だったわ。それをどうにか止めようとして……、結果的にこうなってしまっただけよ」
可能なら婚約を解消したいと思っているわ。
そう付け加えながら友人の様子を伺って、思わずぎょっとした。
星さえ堕とせるといわれる美貌の友人は、今まで見たことがないほどにまなじりを釣りあげて、栗色の瞳に激しい怒りを湛えていた。
「お前は……、わたくしが何も知らないと思っているのね? わたくしが無知で愚かで、何も気づかぬ愚鈍な女だと思っているのでしょう! お前は昔からそうよ! いつだってそう! わたくしに何もいわない!」
「まっ、待ってよ、アトリ。なんの話……?」
「大公閣下はお前を王家にやるつもりはなかったのでしょう! 当たり前だわ。お前は水の筆頭魔術師、大公領を守る四天が一、閣下が手放されるはずがないもの! フィンヘルド様だってそうよ。あの合理的な方が最高戦力の一人を政略結婚の駒に使おうと考えるはずがないわ。いい加減、白状なさいよ、ヴァル……!」
アトリは大きく顔を歪めて、悲鳴のような声で叫んだ。
「わたくしだったのでしょう!? 本当は、王家に嫁ぐのはわたくしのはずだった! 当然よ……。わたくしは閣下の血を引きながらろくな魔術も使えず、貴族の父を持つ半端者だもの……!」
ぎょっとする。半端者? それは誰かにいわれた言葉なのか? 幼い頃ならともかく、今の歌詠み姫と称えられる彼女をそんな風に嘲る者はいないと思っていたけれど。
「何かあったの? わたしのせいで何かいわれた? でも、誰が何といおうと、アトリは素晴らしい人間よ。アトリは勉強熱心で教養があって、礼儀作法も完璧で」
「そんなものが大公家で何の役に立つというのよ! 閣下は……っ、わたくしに失望されているわ……!」
否定したかった。そんなことはないといいたかった。
けれど言葉に詰まった。
誤解だといえば嘘になるとわかっていたからだ。勘違いだといえばむしろ彼女を傷つけるとわかっていたからだ。それはちがうとはいい切れないとわかっていたからだ。
ギルガード大公閣下は情に厚いが冷酷だ。
使える人間かどうかを、冷淡な眼差しで見極める。
けれど……、それでも。
それだけの御方でもないのだ。
「閣下はアトリを愛しているよ……。大事な孫娘だもの」
「ええ……。知っているわ」
苛烈な親友は、どこか疲れたように微笑んだ。
「ねえ、ヴァル。それが余計に厄介だと思わないこと……?」
「……思う」
否定しきれずに頷いてしまうと、幼馴染はクスクスと笑った。
開き直ったような、吹っ切ったような顔でアトリが笑う。
その美しい栗色の瞳には涙が滲んでいたけれども。
「わたくしはただの愛しい孫娘。……あの方に期待される人間にはなれなかったわ。だから……、王太子殿下との政略結婚を命じられるとしたら、わたくししかいないだろうとわかっていたのよ」
「え、アトリ、それはちょっとちがう」
「───だというのにお前が婚約者になったと聞いたときのわたくしの憤りがわかるかしら? これほどに許せないと思ったことはないわ。ヴァル、お前はどこまでわたくしを侮れば気がすむのかしら?」
涙に濡れていたはずの栗色の瞳に、再び業火のような怒りが灯る。




