30.浄化の魔術
普段はさほど表情を変えない人なだけに、その紅の瞳が怒りに染まっているのは恐怖だった。目覚めに見るには恐ろしすぎる形相だった。本当に怖かった。
「二度とやるな」
「ごめん、なさい。迷惑を、かけて……」
「話を逸らすんじゃない」
いやそらしていない。心から申し訳なく思っている。そうごにょごにょといっていると、枕元に剣を突き立てられた。顔の横に刺さった白刃に、さすがに言葉が出なかった。いくら腹を立てていたって、病人の枕元に剣をぶっ刺す人間がどこにいるのか。普通やらない。常識と良心と倫理観があったらやらない。しかしゼインはやるのだ。最悪の人なので。
「二度とやるな。いいな?」
「……で、でも、使いこなせたら、もっと、守れるし、閣下の、お役に……ひっ」
「この状況でなおもそんな寝言がいえるお前の図太さには感服するよ。褒めていないがな」
鼻先が触れ合いそうなほど近くに、ゼインが顔を寄せてくる。まるでキスをする寸前のような距離だったけれど、脅しであり威圧であることはわかっていた。甘い雰囲気など欠片もない。これは相手に己の置かれている状況をわからせるための近さだ。紅の瞳が業火の怒りを宿してにこちらを見下ろす。思わず悲鳴が漏れた。
間近で突き刺すような怒りを浴びせられたら、さすがに白旗を上げるしかない。
───とりあえず今は撤退しよう。態勢を立て直す時間が必要だもの。訓練を諦めるかどうかは別として撤退よ、撤退。
内心でそう考えつつ「わかった、わかったから」といえば、ゼインは唇の端を釣り上げて笑った。まるで笑っていない瞳に、薄い三日月のような唇だけの笑みだ。とても怖い。
「この俺を相手に一時しのぎが通用すると思うのか。いい度胸だな、ヴァルキリア?」
……さて、それからどうなったかというと、まずフィンヘルドに理論立てて徹底的に説教をされた。
「訓練をするなとはいいません。浄化の魔術は得難い力です。しかし、だからといって君自身を損なうことがあってはなりません」
「……はい」
「まだ納得がいってなさそうですね? では、こういいましょうか。今の君は水の筆頭魔術師なのですよ、ヴァル。君が寝込んでいる間、水の君の救援を求める声はいくつもありました」
「……っ、すぐにでも支度を……!」
「馬鹿をいうんじゃありませんよ。今の君は治療が必要な病人です。治癒術師が認めるまでは戦場へ出ることは許しません。……あぁ、そんな顔をしないでください、ヴァル。君を責めるつもりはないんですよ。浄化の魔術に期待を寄せていた我々にも責任はあります。君を追い詰めてしまって申し訳なかった。───ですが、皆のためを思うなら自分を大事にすることも必要です。わかりますね、ヴァル?」
「はい……」
さらに大公閣下が病室まで見舞いに来てくれて、嘆息混じりに名前を呼ばれた。
「ヴァルキリア」
「はっ」
「儂はそなたを失いたくない」
「……っ、身に余るお言葉にございます、閣下」
「そなたは我が一族のもの。その命も魔術も、一族のためにあるのだ。なればこそ、自らを損なう振る舞いは許さぬ。よいな?」
「はい……」
しょんぼりしながら頷いた。
あのとき、フィンヘルドだけでなく、お忙しい閣下まで来たのは、絶対にゼインの差し金だと確信している。閣下にいわれたら逆らえないと知っていて、何かしらの報告を閣下に上げたにちがいない。いくら火の筆頭魔術師であり閣下の孫とはいえ職権乱用では?
そう根に持ったけれど、ゼインはせせら笑うだけだった。
それから、訓練の時間は一日に一度だけ、砂時計が落ちきるまでの間という規則が設けられた。ちなみに砂時計を作ってくれたのは、心配のあまり怒っていますという顔をしたグレイだった。
今や国を覆う結界が成り、浄化の魔術はそれほど必要ではない。
わかっているけれど、訓練は続けていた。
単純に『失われた魔術』を使いこなせたら格好良いよね、という気持ちもあるし、もしものときに役立つだろうという気持ちもある。
それにヤナ博士やフィンヘルドも、魔道具の研究や開発に関わる者として浄化の魔術には興味があるのだろう。今でも時々訓練の様子を尋ねられるし、こうして補助具も作ってくれる。協力的なのだ。
非協力的なのはゼインである。
彼いわく、
「お前は目を離した隙に前のめりに倒れ込んでいる女だろうが。少しだけ訓練をするといって三日三晩やり続ける阿呆だ。俺が非協力的だと? ちがうな、お前が自分の限界も見極めきれない愚か者で、たやすく己を削る考えなしというだけだ」
……言い訳をさせてもらえるなら、別に好き好んで無理をしていたわけではなく、魔物との大戦の最中で、少しでも勝利を得ようとがむしゃらにやっていただけなのだけど。
まあ、聞いてはもらえなかった。
彼が心配してくれているのだということもわかっていたから、あまり言い訳もできなかった。病人の枕元に剣をぶっ刺すような非常識な男だけれど、こちらの身体を案じてくれているのは本当なのだ。
※
そういう経緯があるため、グレイたちが帰った今も、ゼインは渋い顔でヤナ博士の新作を見ている。
彼の視界から隠すように箱にしまってから、あえて軽い口調でいった。
「わたしは魔力量には自信があるけど、失われた魔術の復活なんていうのはセンスが問われるでしょう? センスを持たない凡人は、努力あるのみなの」
「いくら努力を重ねたところで進歩がないのなら、もはや努力の問題じゃないだろう。火の魔術師が水の魔術を扱おうと訓練するのを見て、お前は頑張れと声をかけてやるのか?」
「それは無理だと確定している事柄であって、わたしの場合はまだ未確定だから! まあ……、わたしじゃなくて、もっと魔術のセンスがある人がこの力を扱えたらよかったのにとは思うけど」
例えばゼインのような天才だったら、教師や教本がなくとも何とかなったかもしれない。そう思っていうと、ゼインはかすかに目を見張った。
そんなに意外な言葉だったろうか?
ゼインならこちらを気遣って口に出さないだけで『俺ならもっと上手く扱えたものを』という認識はあるだろうと思っていたのだけど。
紅の瞳がわずかに伏せられる。
ゼインは酷く静かな声でいった。
「───そうだな。お前でなければよかったよ、ヴァル」
一瞬、戸惑った。まるでなにか大切なことのようにいうから。
しかしゼインはすぐににやりと口の端を上げて、嘲笑うようにこちらを見た。
「お前のような阿呆ではなく、もっと賢い人間の下で目覚めるべき力だった。あぁ、俺も同感だよ。お前のような最悪に聞き分けの悪い愚か者が持つべき力じゃなかったな」
「よーし、そこに座ってなさい、ゼイン。この氷剣で三枚におろしてあげるから」
「お前ごときの氷が、俺の炎を越えられるとでも……? 驚いたな、水の君殿は、俺の知らない間にずいぶん現実が見えなくなってしまったらしい」
「はっ、何事もやってみなくちゃわからないのよ。今度こそあなたをぎったぎたの氷漬けにしてやるわ!」
いつも通りといえばいつも通りすぎる口喧嘩をしていると、夕食に呼びに来た侍女が、微笑ましいといわんばかりの顔をした。
───ちがうの、じゃれ合いじゃないの、本当にそういうのじゃないから!
そう内心で叫んだものの、偽装婚約中の身である。
言い訳もできないまま、ヴァルはソファに撃沈した。
王太子アルフレートと愛人のミア・ホイスラーの心中死体が発見されたという連絡が来たのは、それから二週間後のことだった。