25.内戦回避のための嘘
大公家の城にある謁見の間は、何本もの太い白水晶の円柱によって支えられた半ば吹き抜けのように広い空間である。天井は高く、王宮のような華美な装飾はない。ただ白水晶が静かな輝きを放つのみだ。進んだ先にはなだらかな階段があり、その頂点には蒼水晶をくり抜いて作られた椅子が一つ置いてある。
魔術師たちの王、フェルディナス・ギルガードのための玉座だ。
ヴァルがフィンヘルドに続いて謁見の間に飛び込めば、そこはすでに怒りに満ちていた。
ざっと辺りを見回せば、すでに五家当主とその奥方、それに主だった重臣たちは全員揃っている。招集がかかり、風の道を使ったのだろう。しかし筆頭魔術師は自分と土の君しかいない。風の君は交易に熱心だ。海を越えた場所にいて連絡がつかないのかもしれない。だが、火の君であるゼインの姿も見えなかった。
椅子に座ったままの大公閣下の前で、王宮からの使者は片膝をつき、蒼白の顔で脂汗を流していた。
使者は『結婚式について話がある』との名目で大公閣下への謁見を求めたが、ふたを開けてみれば、ヴァルが帰省のために王都を離れたその翌日に、王太子が手紙を残して姿を消したという話だった。手紙には『ささやかでも、愛する人との幸せな家庭を築きたい』といった旨が書かれており、彼の恋人である男爵令嬢もまた、その日から行方知れずになっているという。
王はすぐに捜索を命じたが、未だに二人の姿を発見できてはいない。王宮からは、宝石類が一部消えており、今となっては二人がすでに王都を離れている可能性は高いと考えられている。
……使者がそう話したと、ここまで走ってくるまでの間に、補佐官から聞いていた。
フィンヘルドの補佐官だ。この駆け落ちが、フィンヘルドが最も忌避する事態を呼び起こすだろうことは、即座に理解していた。
大公閣下の視線がこちらへ向く。
その眼差しだけで圧し潰されそうなほどに重い。
自分とフィンヘルドは、即座にその場で片膝をついた。
「ヴァルキリア」
「はい」
「戦の支度をせよ」
息をのんだヴァルの隣で、フィンヘルドが声を上げた。
「お待ちください、父上! 今ここで王家に弓引けば、貴族たちとの全面戦争は避けられません! ようやく掴んだ平和です、どうかお考え直しを……ッ」
「黙れ」
大公閣下はゾッとするほどに冷たい眼差しを、実の息子へ向けた。
「これはそなたの失策ぞ、フィンヘルド。そなたの結んだ和平協定が、我々にまた泥を塗ったのだ。この失態、どうやって贖うつもりだ?」
「処罰ならばいかようにもお受けします! ですがどうか、今一度ご再考を……! 犠牲が出るのは貴族だけではありません。全面戦争となれば、我々の民にも大きな犠牲が出ましょう……!」
「そなたの戯言は聞き飽きたわ。失せよ、フィンヘルド」
大公閣下は立ち上がり、低く強く、朗々とした声で告げた。
「儂は侮辱を許さぬ。我らを軽んじることは、たとえ神であろうと許しはせぬ」
古参の重臣たちが、共鳴するようにおおと雄叫びを上げる。
「戦えば犠牲は出よう」
大公閣下はそこで一度言葉を切り、そして王のごとき声でいった。
「 ─── だが、戦わなくては、我らの子々孫々に至るまで踏みにじられることになるのだ!」
謁見の間に集まっていた臣下たちすべてが、賛同の声を上げた。
誰もが閣下に魅せられていく。五家の奥様方もまた、迷いを捨てた顔で大公閣下を見つめている。
(まずい ─── !)
これで流れは完全に開戦へ傾いた。謁見の間には、早くも戦を前にした高揚感が満ちている。
どうすればいい。何といえば止められる? この駆け落ちには何かしらの謀略があるはずだと訴えたところで、閣下の心はすでに決まってしまっている。はかりごとがあるならそれごと踏み潰すのみだろう。巨人が進むことを決めたときに、狐狩りの罠など意に介するはずもない。
次期当主であるフィンヘルドの言葉さえ退けられた。何といえば、この流れを変えられる!?
(駄目だ、何も浮かばない! でも、どうにかしないと ─── !)
名案などないまま、それでも止めるために口を開こうとしたときだ。
落ち着き払った、それでいて冷ややかな声が響いた。
「ずいぶんと、盛り上がっておいでだ」
「ゼインヘルド……、来たのか」
大公閣下が驚いたような声をこぼす。
思わず振り向けば、そこには悠然とした足取りでやってくる男がいた。
金の髪に、炎と同じ色をした瞳。美しいが酷薄な印象を与えるその男は、怯む素振りもなく大公閣下を見据えていった。
「ええ、閣下。久しぶりに我が家へ戻ってみれば、ヴァルキリアが婚約者に捨てられたと、上を下への大騒ぎ。本人もさぞ憔悴していることだろうと、こうして見物に訪れた所存です。なんとも哀れではありませんか。ドレスの裾を踏んで盛大に転がりながらも、次期王妃らしくなろうと懸命に努力していたというのに、すべてが水泡に帰したのですから」
ドレスの裾を踏んだというくだりで、誰かが吹き出しかけて笑いをこらえた音がした。
しかし大公閣下の眼差しは揺らがない。
一つ間違えれば燃やし尽くすような危うさを孕んで、低く尋ねた。
「何がいいたい、ゼインヘルド?」
「今回の一件、最たる被害者はヴァルキリアでしょう。本人の意向も聞いてやったらいかがですか」
息をのんだ。
まじまじとゼインを見上げれば、紅の瞳がわずかに細められる。
この機会を活かせと、その眼差しが告げている。
ヴァルは大公閣下へ向き直り、声を張り上げた。
「閣下! どうか発言をお許しください!」
大公閣下は答えない。
しかし却下もされない。聞くだけは聞いてやろうということだろう。
(どうする!? 何をいえばいい? 犠牲を訴えてもダメだ、フィン様と同じことをいったのでは閣下は動かない、閣下は初めから和平協定にさほど乗り気ではなかった、閣下の御心に沿った上で開戦の流れを止めないと……!)
───そのとき、その考えが浮かんだのは、冷静さを欠いていたとしかいいようがなかった。
一か八かの賭けどころではない。崖から落ちそうだからと、草の葉を握りしめるようなものだ。まず成功しない。無茶で愚かな賭け。 ─── けれどもう、それしかない。このままでは、なにをいっても戦争になる。
「王太子は愛のために逃げました。わたしはそれを笑うことはできません。なぜなら、わたしもまた、長く慕い続けている相手がいるからです」
謁見の間にいる多くの者が怪訝な顔をした。この状況でなにをいい出したのかという顔だ。
腹の底に力を込めて続ける。
「フィンヘルド様は、婚約の前に何度も聞いてくださいました。本当によいのかと。わたしはそれに頷きました。心を殺し、大公家のために生きることこそ、閣下への恩返しになると思い込んでいたからです。わたしのこの愚かさが、王太子をほかの女性へ走らせたのかもしれません」
左隣のフィンヘルドが驚いた様子でこちらを見るのがわかる。彼はこの話の結末に気づいたのだろう。
ヴァルはひたすらに大公閣下一人を見上げて、渾身の気迫を込めていった。
「ですから、王太子の所業が許せぬと仰せになるのなら、どうか、まずはこの身を罰してください。未来の王妃という立場でありながら、ゼインヘルドへの愛を捨てられなかった、このわたしを!」
謁見の間は、水を打ったように静まり返った。
幾人かは息をのんだ。幾人かはぎょっとした顔になり、幾人かは気まずそうに眼をそらした。
(ええ、そうでしょう、わたしとゼインの結婚は期待されていた。この話には信ぴょう性があるはず)
もっとも、『それがどうした』という話でもある。ヴァルの気持ちなど問題ではない。王太子の振る舞いが大公家を、引いては魔術師を侮辱した。それこそが罪だ。大公閣下がそう切り捨ててしまえば終わりだ。
(けれど、閣下はわたしを ─── 水の筆頭魔術師を手放すことにいい顔はしなかった。本来なら、閣下のお力でゼインとの結婚が決められていてもおかしくなかった。そうならなかったのは、多分、ゼインの拒否がそれほどに強かったから)
死んだ方がマシだという彼の言葉は脅しではない。ゼインは戦場の落とし子のようなところがあって、昔から生への執着が薄い。望まない結婚を強制されたなら、本気で命を捨てかねない。わかっているからこそ、フィン様も大公閣下も強制できなかったのだろう。
だけど自分は知っている。
(ゼインは───、わたしに甘い)
それが決して、恋や愛ではなくとも。
歯を食いしばる。これは罪だ。自分は今、ゼインに、妻にするくらいなら死んだ方がマシだといった女の手を取ってくれと望んでいる。大勢の死を避けるために、彼の人生を犠牲にしようとしている。無論、ゼインは拒むことができる。何を馬鹿なことをと一笑に付すこともできる。だからこれは本来は賭けだ。けれど勝敗が見えていることを、自分は知っている。
衣擦れの音がした。
(あぁ───)
ヴァルキリアの罪が確定する。
自分の右隣に、彼が片膝をつく。
そして慣れ親しんだ声がいった。
「恐れながら申し上げます、大公閣下。俺も同じ想いです。ほかの男の婚約者になろうとも、ヴァルキリアのこと、一日たりとも想わぬ日はございませんでした」
それは冷ややかで静かだった。
まるで真実がそこにあるかのような揺るぎなさだった。
「ヴァルキリアを愛しています。彼女を罰するのならば、どうか、この身にも同じ罰をお与えください」
今度こそ謁見の間にざわめきが起こった。
王太子の駆け落ちからこのような展開になるとは、誰も予想していなかったのだろう。誰もが困惑と、どうするのだという戸惑いを浮かべている。王家の使者に至っては呆気にとられた顔をして、身を縮ませながらもこちらを盗み見ている。
揺らがないのは大公閣下ただ一人だった。
「ゼインヘルド」
「はい、閣下」
「そなたの言葉に、偽りはないな?」
「誓って、真実でございます」
「よかろう」
大公閣下は深いため息とともに、どすりと椅子に腰を下ろした。
そして先ほどまでの威圧感が嘘のように、肘置きに肘を置き、だらしなく頬杖をつくと、自分たちを見下ろしていった。
「ゼインヘルド、ヴァルキリア、挙式の日取りを決めよ。今日中にな」
わっと、成り行きを見守っていた者たちから控えめながらも歓声が上がる。
ヴァルも思わずぐっと拳を握り込んだ。
大公閣下はそのまま視線を横へずらすと、冷ややかに告げた。
「フィンヘルド。此度の件、後始末はそなたがせよ。どうあっても戦を避けたいというのなら、儂をうならせるほどの采配をしてみせるがいい。その手腕次第で、そなたの処罰は考えようぞ」
「かしこまりました。必ずや、ご期待に応えてみせましょう」
開戦という一大事はなくなったが、大公閣下の孫と養女の結婚という一大イベントは決まった。
謁見の間は、先ほどまでとはちがう熱気に満たされている。
ヴァルは深く安堵の息を吐き出して、それから、ゼインへの申し訳なさで死にそうになった。
25話目にしてようやくヒーローを本編に出せました…!




