23.帰還命令の真相
必死で平静を装いながら尋ねた。
「それで、用件というのは……?」
「そうですねえ……。そういえばグレイにはもう会えましたか?」
「ええ、研究所に行きました。元気にやっているようでよかったです」
「あの子も研究で忙しいですからね。あぁ、ミニチュアの”列車”も見ましたか?」
「それは……、ええ……。あの、フィン様」
「なかなかのものでしょう? 私はあれが大公家の未来を決める一手になると確信しているんですよ」
「……、確かに、輸送の規模を大幅に向上させる革新的な発明だと思います。……ですが実用化にはまだ時間が必要でしょう?」
「ふふ、そうですね」
フィンヘルドが謎めいた笑みを浮かべる。
その意味深な表情に、ゾッと背筋に寒気が走る。それでも黙り込むことはできない。話題を避けて、曖昧に濁すこともできない。目の前に現れた脅威から目をそらすことは戦場では許されない。
深く息を吸い込み、腹の底に力を込めて口を開く。
「フィンヘルド様。どうかお答えください。何のためにわたしを王宮から帰還させたのですか?」
穏やかな橙色の瞳がじっとこちらを見る。
「───大公閣下に弓引くことを考えているといったら、君はどうしますか、ヴァルキリア?」
その瞬間、時間が止まったような気がした。あまりにも信じがたく、受け入れがたい。悪夢のような現実だった。
けれど目をつぶり耳をふさぐことは叶わない。
自分は筆頭魔術師だ。非常時に立ち尽くすようにはできていない。判断に迷うこともできない。問題を突きつけられたならば、決断するしかない。
……初めから、答えは決まっていた。自分は大公家の人間だ。
フィンヘルドの底知れない瞳をまっすぐに見つめて、それから深く頭を下げる。
「どうかお考え直しください、フィン様。わたしはあなたに剣を向けたくはありません」
沈黙が満ちる。
頭を下げたまま答えを待った。
ふとフィンヘルドの空気が揺れる。
恐る恐る顔を上げると、優しく紳士的な面差しが、申し訳なさと笑いを絶妙に混ぜ合わせたような顔をしていた。
「すみません、冗談ですよ、ヴァル。君がやけに緊張した面差しでいるので、気持ちをやわらげてあげようと思ったのですが」
「……フィン様?」
地を這うように低い声が出た。
フィンヘルドは取り繕うように微笑んでいる。
ヴァルは怨念のこもったおどろおどろしい口調でいった。
「世の中、冗談の範囲に収まることと収まらぬことがあると思いますが?」
「ええ、悪ふざけが過ぎましたね。謝ります。ヴァル、君の耳にも色々な噂が入っていると思いますが、私が父に背くことはありません。少なくとも今人々の口の端に上っているような理由ではね。だから安心してください」
大きく眉間にしわを寄せて、険しい眼でフィンヘルドを見る。それのどこが安心できるというのか。
こちらを見るフィンヘルドは実ににこやかな顔だ。面白がっている風でもある。どこまでが冗談で、どこまでが本心なのか、こちらに読み取らせる気はないのだろう。どれほど問い詰めたところで、これ以上は何も教えてはくださらないだろうとわかる。
決断は必要だけれど、情報が揃わないときに考えすぎても仕方がない。
深く息を吐き出して、肩の力を抜く。そして恨みがましくいった。
「フィン様って、常識人に見えてもやっぱりゼインの父親ですよね……」
「褒め言葉として受け取っても?」
「やめてください、けなしています」
行儀悪くテーブルに肘をついて、ぐったりと片手で顔を覆った。
「それで? わたしを戻した本当の理由は何ですか?」
「うーん、アトリから何も聞いていませんか?」
ヴァルはぴくりと肩を震わせて、まさかという思いでフィンヘルドを見た。
フィンヘルドは困ったように微笑んだ。
「アトリからお叱りの手紙を貰いましてね。『ヴァルが王宮でどれほど苦しい思いをしているか、大公領にだって噂の一つも届かないわけではないでしょうに、なぜ大公家は動かないのですか』と。特に私はこの縁談をまとめた身ですから、アトリの怒りも大きくて。『王家の態度は予想できていたでしょうに、どうして助けの一つも寄越してくれないのですか、ヴァルを見捨てるおつもりですか!』とね」
「あああ……、アトリぃぃ!!」
どうりで、と心の中で叫んだ。
(どうりで一緒に大公家に帰らないはずだよ!)
内戦は起こらないだろうから帰らないといっていたが、あれは楽観視していたわけではなく、帰還命令の理由を察していたからか。そういえばあのとき、わずかにアトリの目が泳いでいたような気がする。
「なんでわたしに黙ってそういうことをするかな、アトリは!?」
「まあまあ、怒らないで上げてください。あの子は素直になれないだけで、本当は君のことが大好きなんですよ。君が苦境に立たされているのが見ていられなかったんでしょう」
ヴァルはぐったりとテーブルに懐いた。
「王家に圧力をかけることも考えましたが、君はそれを望んではいないだろうと思いましてね。君がどうして私に助けを求めなかったか、その理由はわかっているつもりですよ、ヴァル」
「フィン様……」
「それで帰ってきてもらいました。君が実家で骨休めができたらいいと思ったんですよ」
「ついでに、大公家の娘を冷遇していた者たちに、実際にわたしがいなくなるのがどういうことかを思い知ってもらおうと?」
「王家や貴族の皆さんは、何をしようと自分たちだけは安全だと思っているようですからね。そうではないことを理解していただきたいものです」
フィンヘルドがにこやかにいう。
ヴァルは遠い目になった。優しそうに見えてもこの人はやはり大公家の男なのだ。閣下ともゼインとも、とても血のつながりを感じる。
「そういうことでしたら、フィン様。わたしは今日にでも王都に戻らさせていただきます」
「急いで帰る必要もないでしょう。ドレスの調整もまだ途中だと聞きましたし、ゆっくりしていったらどうですか?」
「これ以上ドレスを重くなったら、わたしは盛大に転んで大公家の面子に泥を塗りかねませんよ」
「ははっ。君は美しいから、みな磨き上げたくなってしまうのでしょうね」
「フィン様……、それ、本気でいってます?」
「君が美しいという点だけは」
じろりと見上げれば、フィンヘルドは、いやあ……と呟いて、曖昧に濁した。フィン様ですら、年上の奥様方を諫めるのは難しいということだろう。
何度目かのため息をついたときだ。
フィンヘルドは柔らかな口調で尋ねてきた。まるで天気の話でもするかのような何気なさだった。
「ところで、ヴァル。君は、件の男爵令嬢と交流を持とうとしているとか?」
フィンヘルドの面差しは穏やかだが、その眼差しは底知れない。
背中に冷たい物が走った。
(……アトリの手紙がわたしの苦境を知らせるものだったなら、時期的に情報源はアトリじゃない。リエルか、ほかの侍女の誰かか)
まあ、知られてまずい話ではない。たぶん。
内心で冷や汗をかきつつも、にっこりと微笑んだ。
「ええ。わたしと彼女は、将来の王妃と愛妾ですからね。友好関係を結んでおいて損はないでしょう?」
「そうでしょうか? 貴族たちの間ではずいぶんと、君へ対する口さがない噂が出回っていると聞きます。なんでも男爵令嬢は、王太子との禁じられた恋に落ちた悲劇の女性だそうですね。そして君は、彼女への嫉妬に狂うあまり、彼女を呼びつけては苛め抜いているのだとか? 王太子が男爵令嬢に会うのさえ、君の許可が必要などと聞き及んでいますが」
「へえ、わたしはすっかり悪役のようですね。婚約した当初は、平民に過ぎない犬ころのような女と噂されていたのに。今では王太子の悪しき正妻役のようです。さながら悪役令嬢といったところかな。うん、出世したものだと思いませんか?」
「ヴァル」
「貴族どもの陰口などいつものことでしょう? 男爵令嬢は未来の寵姫ですよ。可能なら、取り込んでおきたい相手です」
フィン様はしばらくじっとこちらを見つめた後でいった。
「君はそれほどにあの男爵令嬢を守りたいのですか。未来の夫の不貞相手を? なぜです」
曖昧な笑みを浮かべる。
フィン様相手に誤魔化しきれるとは思っていなかった。別段、嘘をついたつもりもなかったけれど。
「守りたいとは思っていますが……、フィン様が考えておられるような、彼女の立場や外聞という話ではありません。純粋に、ミア嬢の身の安全の話です」
「誰かが危害を加えようとしていると?」
頷いて、それからなんと話そうか迷う。
頭に浮かぶのは、王宮の誰もが認める『完璧な王子様』のことだ。
「これは根拠のある話ではないんです。単に内心では魔術師を見下していたとか、今までは外面がよかっただけとか、その程度のことかもしれません。ただのわたしの勘にすぎません」
「聞きましょう」
「王太子アルフレートは、何かしでかすかもしれません。……いえ、ちがいますね。何をしでかしても不思議ではない、そういう不気味さがあります」
そこまでいったときだった。
いつもは冷静な次期当主付きの補佐官が、血相を変えて飛び込んできた。
「フィンヘルド様! 至急、大公閣下のもとへ! お急ぎください!」
「何があった!?」
がたりと立ち上がったフィンヘルドに、補佐官は息も絶え絶えに叫んだ。
「王宮から使いがあり、王太子が、あの王太子がっ、駆け落ちしたと───ッ!!」
は?と思わず声を漏らしてしまったのは、それがあまりに予想外だったからだ。
何をしでかすかわからないとは思っていたけれど、あのアルフレート殿下が、地位や身分を捨てる真似をするはずがない。それだけはあり得ないだろう。
だが、いくら裏に何があるとしても、大公家との縁談が放棄されたというなら、次に来るのは───。
(内戦になる。閣下がこの侮辱をお許しになるはずがない)
血の気が引く。
フィンヘルドとともに、ヴァルは大公家へ走った。




