22.次期当主フィンヘルド
自分は政略結婚を全うするつもりなのだ。おかしな噂や疑惑が出回るのは困る。
どうしたものかと頭を悩ませながら、チョーカーを始めとした魔道具を外し、着替えて大公家の廊下を歩いていく。階段の踊り場まで来たところで、五家当主の奥様方の顔が見えた。
「まあ、ヴァル! 探していたのよ」
「どうかなさいましたか?」
最年少で五十歳、最高齢では八十歳となる五家の奥様方が勢ぞろいしている。なにかトラブルでも起きたのかと階段を駆け下りていくと、なぜか両側から腕をしっかりと掴まれた。右を見て、左を見る。奥様方のお付きの女性たちが申し訳なさそうにこちらを見返してくる。
正面を向いて尋ねた。
「あの、突然捕獲される理由が思い浮かばないのですが?」
「お前の結婚式のドレスについて、皆で話し合っていたのよ。リエルから聞いたけれど、王都の職人たちはお前に協力的ではないんですって?」
リエル、なんてことを……!
ヴァルは内心で悲鳴を上げた。
五家の奥様方の眼は爛々と怒りに燃えている。
「安心なさい、ヴァルキリア。五家が総力を挙げて、お前を最高の花嫁にしてあげるわ」
「待ってください、わたしはフィン様に呼ばれて一時的に帰宅しているだけで」
「フィン様は一週間は戻らないのでしょう? リエルから聞いているわ。それだけあれば十分よ」
思わず後ずさる。いや、後ずさろうとしたけれど、両側からしっかり固定されていた。女性相手では、力づくというわけにもいかない。
……それから七日間、まさに試着地獄だった。
知らなかったことだけれど、リエルは王都から出るときにドレスも一緒に運ばせていたらしい。「せっかくの帰省ですから、奥様方に協力していただけたらと思いまして」とあっさりといわれて頭を抱えた。
試着といっても、ただ袖を通して終わりというものではない。
大公家の一室で、お抱えの職人たちと古参の侍女たち、それに五家当主の奥様方に囲まれて、ああでもないこうでもないと“微調整”を繰り返されながら、じっと立っているという苦行だ。魔術師としての訓練より辛い。
ちなみにすでに七日目に突入しているけれど、終わってくれる様子は一向に見えなかった。
「ヴァルはいいというけれど、わたしはやはり気に入らないわね。この真珠は小さすぎると思わなくて?」
「確かにねえ。真珠ってのは、どんとデカくなくちゃいけないよ」
「では、我が家が懇意にしている商家の者を呼びましょう。いつも見事な真珠を用意してくれるんですよ」
「それに腕飾りの細工も控えめすぎるのではないかしら? ねえ、当家の出入りの宝石商も呼ばせていただきたいわ。この前も、見事なサファイアの首飾りを持ってきてくれたのよ」
「いいわね。ヴァルの青い瞳に青の宝石はきっとよく映えるわ。ふんだんに使いましょう」
そこでようやく、喉の奥から声を絞り出すようにして懸命に訴えた。
「お待ちください、奥様方。わたしは今日こそはフィン様にお会いして、そのまま王都へ引き返す予定なのです。今さら真珠を取り替えたり宝石を加えたりする猶予はありません。それにどうか、これ以上重くしないで頂けませんか。わたしはもう、大量の鳥に留まられたやせ細った枯れ木のような心地なのです。今ここで折れてしまわないのが不思議なほどです。これ以上装飾品を加えられては一歩も動けません」
憐れっぽい声を出して切々と訴える。
しかし、自分のことを子供の頃から知っている女性たちには鼻で笑われただけだった。
「戦場の天湖姫が何をいっているのよ」
「あんたみたいな枯れ木ならあと千年は生きるよ、安心しな」
「ヴァル、ものに例えるときは、もう少し無理のないものにしたほうがいいですよ」
「何も心配しなくていいのよ、ヴァル。手配はわたくしたちがしてあげますもの。式に間に合わないなんてことはあり得ません。ヴァルはこの世で最も高貴な花嫁になるの。楽しみね」
「そうよ。我らが一族と大公家の御名にかけて、お前を誰よりも光り輝く女にしてみせるわ。安心なさい」
誰よりも……という言葉には、口には出さない、深い怒りがこもっている。
もし今『いえ実はわたしはミア嬢とは友人になりたいと思っていて』なんて口に出したら一巻の終わりかもしれない。そんな危機感すら覚える。
……王太子が愛人を作ったという話が大公領まで届いたときも、それはもう大変だったのだ。あの頃はまだ自分も大公家にいて、次期王妃としての教育を受けていた頃だった。
婚約が成立したといっても、王家と大公家の不仲は国内に知れ渡っていたし、十分に緊迫した状況だった。そこに来て、王太子が『真実の愛』に目覚めたなどというのは、これはもう大公家の名誉をやすりでがりがりと傷つけるようなものだ。当初は誰もが激怒した。
もとより、五家をはじめとする古参の臣下たちは戦争に躊躇がない。好戦的というよりは戦いが日常である世代なのだ。死生観とでもいうか、感覚がヴァルたち若い世代とは違う。
そして大公閣下自身もまた情に厚いが冷酷だ。慈悲深いが容赦はない。すわ内戦勃発かという一触即発の空気が大公領には流れた。それを必死で収めたのが、穏健派で知られる次期当主と、ヴァル自身だ。
「わたしが正妃となることは揺らぎません。男爵家の娘など、羽虫のようなもの。皆様方が視界に入れる価値もございません。それに……、いいではありませんか」
あえて傲岸に笑ってみせた。自信に満ちた笑みを浮かべて、集まっていた五家当主や重臣たちにいい放った。
「王太子など、好きに女遊びにふけっていればよろしい。好都合です。我らが欲するものは何か? それはただ一つ、我らの子が王の冠を戴くこと。そのほかはすべてみな些事。そうではありませんか、皆様方?」
大公閣下がわずかに目を細める。
怒気がいささか収まったその瞬間を逃さずにフィンヘルドが場をまとめた。
「その男爵家の娘が、真実“障害物”となったら、そのときに処遇を考えればいいでしょう。今から騒ぎ立てるほどのことではございませんよ。そうでしょう、父上?」
一呼吸ほどの沈黙を置いて、大公閣下が鷹揚に頷いてみせる。
……それで、その場は何とか収まった。
しかし悪感情が消えたわけではない。またしても軽んじられたという憤激は根強く、自分は今まで以上に一族の総力を挙げて後押しされることになった。今回の五家の奥様方の態度も、その事情が後を引いているからだ。
……正直にいって重い。期待ではなく、ドレスが重い。
五家の奥様方は有言実行である。やるといったらやる。そして今回に限っては、誰も『金の無駄遣いだ』といってくれない。魔術師一族の威信がかかっているのだ。五家当主はもとより、重臣の皆様も、金に糸目はつけるなというだろう。
もとより大公閣下ご自身は、このような状況でなくても、祝い事には気前の良い方である。
(あぁ、お願いだからこれ以上、真珠も宝石も金細工も銀細工も増やさないで。わたしがこれを着て歩くことを考えてください、皆さま!!)
もはや泣き落とししかないのかもしれない。人生で一度もしたことがないけれど、効果は抜群だと聞く泣き落とし。
頑張って目に力を込めたときだ。
先ぶれの侍女が現れて、フィンヘルドの帰宅を告げた。
※
大公閣下の長子であり、次期大公家当主フィンヘルド・ギルガードは、優しげな面差しの男性である。柔らかな栗色の髪に、春の夕暮れのような橙色の瞳を持ち、物腰も上品で、誰に対しても穏やかに接する。父君である大公とは対照的に穏健派で、政略結婚という名の和平交渉を取りまとめたのも彼だ。
自分は『お父様』である大公閣下とは祖父と孫ほどに歳が離れているため、フィンヘルドとはちょうど父娘ほどの年の差にあたる。それもあって、昔から何かと面倒を見てもらってきた。
さて、フィン様に「お帰りなさい!!」と叫んだときの自分はよほど切羽詰まった顔をしていたらしい。フィン様の瞳が丸くなり、それから自分の背後に並び立つ奥様方の姿を認めて苦笑すると「せっかくだから、久しぶりにカフェでも行きましょうか、ヴァル?」と誘われた。溺れる者に差し出された藁、というか太い丸太のようなそれを一も二もなく掴んで、今はカフェの個室でフィン様と向き合っている。
窓からは眩しいほどの日差しが降り注ぐ。
大通りに面したこのカフェはフィン様の馴染みの店だ。より正確にいうとフィン様が出資している店だ。だからここでの会話がよそに漏れることはない。
運ばれてきた雪葉茶を一口飲むと、フィンヘルドは申し訳なさそうにいった。
「すみませんでしたね、ヴァル。私が帰ってくるように言ったのに、長く待たせてしまいました」
「お気になさらないでください。フィン様がお忙しいのはわかっていますから」
「君にそういってもらえると救われます」
フィンヘルドの穏やかな微笑みはいつもと同じだ。何も変わらない。
だけど小さな引っ掛かりを覚えてしまう。
フィン様が自分たち姉弟を大公家の外に連れて行ってくれることは今まで何度もあったけれど、ここに来たことはなかった。このカフェはフィン様の仕事用だ。
グレイの言葉が耳元でよみがえる。
『姉さんは、どちらの味方に付く?』
───いいえ。フィン様が閣下に背くなんて、そんなことあるはずがない。