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2.王宮の庭にて


 王宮の庭園の一角で、王太子の婚約者であるヴァルキリアは、思わず散策の足をとめた。


 まっすぐ向こう側から、侍女たちを連れた少女が歩いてくるのが見えたからだ。あの桜色の髪は見間違えようもない。ミア・ホイスラーだ。ホイスラー男爵家の一人娘であり、王太子の“運命の恋人”とやらだ。率直にいってしまえば、自分の婚約者の浮気相手だ。


 眼球すら動かさずに状況を確認する。ここは左右に背の低い木々が連なる一直線の道で、彼女と正面衝突する前に道を曲がることはできない。

 わかっている。ここは自分の定番の散歩道で、何度も歩いているのだから、再確認の必要はない。それでも思わず逃げ場を探してしまったのは、このまま歩いていくと、どちらかが道を譲る必要が出てくるからだ。


 この道は秋の木漏れ日を楽しむには最適だけれど、道幅はさほど広くない。ましてあちらもこちらも侍女たちが後ろを歩いている。すれ違うには、どちらかの集団が、あるいはお互いが譲り合う必要がある。


(わたし個人としては、喜んで譲りたいくらいなんだけど……!)


 けれど自分は身分も何もないただのヴァルではなく、ヴァルキリア・ギルガードだ。ギルガード大公家の体面が自分の肩にかかっている。『王太子の愛人に負けて道を譲った』などという噂が大公領まで届いてしまったら、大公閣下本人はともかく、五家の皆さまはさぞお怒りになることだろう。考えるだけで胃痛で死にそうだ。


 内心の悲鳴と嘆きを表情には出さず、微笑を浮かべたまままっすぐに進んだ。


 ミアとの距離が近づくにつれて、憎々しげな視線が矢のように飛んでくる。

 彼女に付き従う侍女たちからも、刺々しい敵意が向けられている。


 いっそ時間が止まってほしいと現実逃避のように思う。叶うはずはなく、前方の集団との距離は否応なしに縮まってしまう。緊張のあまり、自然と呼吸が浅くなる。彼女と争うことになったら、また王太子殿下から叱責を受けることだろう。そう思うだけで心がずっしりと重くなる。


 彼女と正面衝突することになってしまったら、何といえばいいのか、どうしたらいいのか。


 けれど、実際に、衝突寸前の距離まできたときだ。

 ミアたちはすっと脇に避けて道を譲った。


 いくら王太子に愛されていようとも、ミアはあくまで愛人であり非公式の存在。正式な婚約者であり、ギルガード大公家の娘であるヴァルキリアの道を塞ぐことは不敬に当たる。それが王宮の作法というものだ。


 ヴァルはホッと胸をなでおろし……、そしてすぐに気づいた。


(───これで、わたしには『立場の弱い愛人を徹底的に苛め抜く婚約者』という悪評がまた増えるというわけね……)


 道を譲っても駄目だし、譲らなくとも駄目だ。

 アルフレート殿下には今夜も責められるのだろう。

 王太子の婚約者として王宮で暮らし始めて早二ヶ月、ヴァルは早々に孤立していた。



 ※



 自室に戻って藤色のソファに腰を下ろしてから、深いため息を吐き出す。


「お疲れさまです。今、紅茶をご用意しますね」

「ありがとう……」


 侍女のリエルに礼をいって、ぐったりとソファの背にもたれかかる。


 長く艶やかな黒髪に、濃い青の瞳を持つヴァルは、その正式名をヴァルキリア・ヘイム・ギルガードといい、ギルガード大公の娘であり、このアンディルア王国の王太子の婚約者である。

 婚約が正式に結ばれたのは一年前のことで、ヴァルが王家の作法にのっとって王宮へ上がったのは二ヶ月前のことだ。三ヶ月後には結婚式を控えている。


 しかし、ヴァルが暮らすこの部屋は、昼間だというのに室内は暗く、ランプの灯りが夕暮れ時の太陽のような光を放っている。辺りに人の気配はなく、一国の中枢であるという活気や華やかさとは程遠い。これはひとえに、ヴァルにあてがわれた部屋が広大な王宮の端だったからだ。日当たりは悪く、何かと不便な端にある建物。それが王太子の婚約者に与えらえた部屋だった。


 自分も最初は驚いた。歓迎されていないことはわかっていたけれど、まさかこんな露骨な真似をしてくるとは思わなかったからだ。

 婚約前に弟に「王宮なんかに行ったら姉さんは絶対冷遇されて虐められるだろ」と心配されたときは、いくら王家が大公家を見下していようとも、この政略結婚に至った経緯を考えたらあからさまな仕打ちはできないでしょうと笑い飛ばしたものだけど、正しかったのは弟のほうだったかしら……と反省したものだ。

 これは食事に毒を盛られる日も近いかなと身構えていたら、毒の代わりのようにミア・ホイスラーが王宮へ上がった。


 思えば、そこからが一番の苦難の始まりだった。


 食事に毒を盛られることなら予想していた。何なら暗殺者を差し向けられることだって覚悟していた。大公家を成り上がりと蔑み、この婚約を不満に思っている貴族は大勢いる。大公家のほかの娘ではなく、自分が婚約者になったのは、こちらを排除しようとする暴力に対抗できるだけの実力があるからこそだった。


 けれど、実際に王宮に上がってから襲い掛かってきたのは、直接的ではない、精神的な攻撃だった。


 それだって予想していなかったわけではない。ただ、自分にとって、夫となる人が味方になってくれないというのは想定外だった。


 何なら、現状で最も苦しいのがアルフレート殿下と話している時間だ。会話はかみ合わずに、一方的に叱責される。


 どうしてこうなってしまったのだろうと何度も思った。アルフレートは、自分が王宮に上がる前までは、夜会などで顔を合わせてもとても感じの良い人だったのに。


(恋が人を狂わせているということなのかしらね……)


 アルフレートの運命の相手ことミア・ホイスラー嬢のために用意された部屋は、彼の部屋にとても近いらしい。


 ちなみに自分は、王家側の担当者から『王太子殿下の婚約者のための部屋がまだ整えられていないので、しばらくこちらで待機してください』といわれている。婚約者の部屋は一向に整わないらしいが、愛人のための部屋は即座に用意できるらしい。やり口が露骨すぎる。


 自分と王太子殿下との婚約は、完全に政治的なものだ。だから、アルフレート殿下が愛のない結婚を厭い、愛する人を外に求めたというなら、それは仕方のないことだろうと思っていた。

 自分自身、長年の片想いに破れた身だ。政治的な婚約が決まった後に運命の人に出会ってしまったという殿下には心から同情していたし、厳しい状況下にある恋人たちを応援したい気持ちすらあった。


 自分とアルフレート殿下は結婚しても友人であり、同盟者としての関係を保つことができればいい。殿下には好きな人を諦めないでほしい。そう思っていた。


 だからこそ、自分たちの婚約が結ばれた後に殿下とミアの噂が聞こえてきて、大公家が物々しい雰囲気に包まれたときも、ヴァルは必死で抑える側に回ったのだ。殺気立つ重臣の皆さまに頭を冷やしていただくのは本当に大変だった。


(でも、愛人を作るのと、その愛人を堂々と王宮に住ませるのは、全然別の話でしょう……!?)


 このアンディルア王国は一夫一妻の国、それは王太子であるアルフレート・アンディルアであっても同じことだ。

 実際、現国王にも愛人はいるが、表舞台に姿を現したことはない。噂では貴族たちがタウンハウスを構える一角に愛人の住む小さな家があり、国王陛下はときおり密かにそこに通っているのだという。

 

 だから自分も、王太子が外に恋人を持つにしても人目をはばかって……のことになるだろうと思っていた。


 しかし現実はちがった。王太子の恋人は堂々と王宮で暮らし始めて、あまつさえヴァルが王太子の婚約者として参加した夜会にもなぜか現れたりする。

 なぜも何も、王太子が手配しているのだろうけれど!

 そして夜会で切なそうに見つめ合ったりするのだ。

 王太子殿下は本当は今すぐにでも愛する人の元へ駆けつけたいのに、実家の権力を笠に着た恐ろしい女が婚約者として隣に居座っているので身動きが取れない。引き裂かれた悲劇の恋人たちと、人を人とも思わない冷酷な悪女ヴァルキリア・ギルガード。そんな感じの噂で社交界は持ちきりらしい。


 今や自分はすっかり悪のレッテルを張られて、何をしてもミアを苛めたことになってしまう。もはやミアとの遭遇を避けるしかないのだが、どういうわけか相手から接近してくる。今日だってそうだ。自分が散歩していたのは、広大な庭園の中でも、この自室に近い端のほうだ。今まで庭師以外の人影を見かけたこともなかったのに、突然彼女が現れた。


 はあとため息をついていると、侍女のリエルが紅茶をローテーブルに用意してくれる。ありがたく一口飲んでから、彼女を見上げてぼやいた。


「どうせまた、わたしが彼女を罵倒して、彼女が地面に手をついて謝るまで許さなかったとか、そんな噂になるんでしょう。いっそ道を譲ったらよかったかな……」


 リエルがあいまいな笑みを浮かべたときだ。


「この愚か者!! 道を譲るですって! お前は我がギルガード大公家の名に泥を塗るつもりなの!?」


 甲高い声が室内に響き渡り、美しいドレス姿の令嬢が現れる。


 ウェーブのかかった栗色の長い髪と藤色の瞳をした彼女は、御歳六十歳になられる大公閣下の孫娘であるアトリだ。家系図上でいうなら、大公の養女である自分にとっては姪に当たる。とはいえ自分たちは同い年で、幼い頃からの友達……友達だ、多分。

 仲良しというには、昔から口喧嘩をすることのほうが多かったけれども。


「アトリ……、いつからいたの?」


「最初からいたわよ! 奥の部屋でお前の新しいドレスについて相談してやっていたのよ。お前ときたら本当にセンスもなければ流行を取り入れようという気概一つないのだから! 主人がそんなていたらくでは侍女たちだって相談相手に困るというものよ!」


 そんなことよりも、と、アトリはキリリと眉を吊り上げていった。


「あの品性卑しい女に道を譲るですって!? あんな泥棒猫に!?」


「譲ってない。願望がちょっと漏れただけよ」





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