17.噂
学園都市ヒューロの誇る魔導工学の研究所は、学園に隣接して建っている。どちらも延々と連なる建物と広大な敷地を持っている施設だ。一週間に一人は迷子が出るといわれていることもあって、わかりやすいように研究所の外壁は白、学園は茶色で統一されている。
学園と一口にいっても、幼学校から高等学校まで幅広い。また近年では、年齢で区切らない教育制度も新設されている。自分が子供の頃は『親が魔術師だから子供も魔術師に』か、あるいは『魔術師の家系ではないけれど大公領生まれで、家を継ぐ立場ではないから魔術師を目指す』というのが一般的だったけれど、最近では大人になってから魔術師への転職を目指す人も増えたらしい。
生徒は年々増加しているらしく、学び舎はいつ来ても増設工事中である。
石畳の道を歩き、手入れの行き届いた花壇と芝生の広場を通り過ぎて、白く大きな建物へ向かう。
研究所にいる警備の人間とは顔見知りだ。挨拶を交わして建物の奥へと進み、弟のグレイの研究室をノックする。グレイはすでにいくつかの魔道具開発で成果を出していて、自分の研究室を持つ立場になっているのだ。たまに学生が教えを請うて来室している場面に遭遇してしまうこともあったので、中の様子を伺いながらそうっとドアを開ける。
幸い、室内には弟一人のようだった。
自分と同じ黒髪に、自分と違う若葉色の瞳。
幼い頃に亡くなった実の父親の記憶はあいまいだけれど、多分自分は母親に、弟は父親に似たのだろう。
(お父さんも若葉色の瞳をしていたと思うのよね。なにせ幼児だったから、よく覚えてないんだけど)
父親は流行り病で亡くなったというのも、今は亡き母に聞いた話だ。
さて、弟のグレイトスは自他ともに認める魔道具作りの天才である。
姉である自分の眼から見ても、はっきりいって頭がいい。あのヤナ博士の後継者と囁かれるほどの逸材だ。それに容姿もとても整っている。涼やかな切れ長の瞳に、白皙の頬。すっと通った鼻筋に、形の良い唇。眼鏡をしているからか、少しばかり冷たい印象を与えてしまうけれど、笑うととても優しい顔になる。
───これは決して姉の贔屓目ではない。事実としてうちの弟は世界一可愛い。
ただ問題は、
「姉さん!? どうしてここにいるんだよ? まさか王宮を追い出されたのか!? だから姉さんに名家のご令嬢の振りなんて無理だといったんだ。俺はあんなに止めたのに。もう、仕方ないな。閣下への謝罪なら俺も一緒に行くから、少し待っていてくれ」
「落ち着いて、グレイ。王宮を追い出されたわけじゃないから」
「はいはい、追い出されたんじゃなくて自分から出てきたんだとかいうんだろ。今日は泊まるところはあるの? 大公家に居づらいなら、うちに泊まる?」
「いや、そうじゃなくてね」
「なに、夕飯の話? どうせ傷心だから好物のプリンが食べたいとかいうんだろ。作ってあげるけど、デザートは食事にはならないんだぞ。ちゃんと野菜も食べろよ」
「グレイはあれなの? わたしの親御さんなの?」
「なにいってるんだよ。弟以外の何に見えるんだ」
眼鏡の奥の瞳がいっそう冷たくなった。
子供の頃はあんなに可愛かったグレイは───今でも世界一可愛い弟だけれども───姉に対して少々手厳しい上に信頼がない。なぜなのか。
やっぱりグレイのほうが自分より真面目だからだろうか? グレイはちょっと堅物なのだ。昔、グレイに「研究所で好きな子とかいないの? このおねーさまが恋愛相談に乗ってあげるよ?」といったときには、ゴミを見るような冷たい目で見られた挙句「そういうウザい絡みは筆頭魔術師としてやめたほうがいい」とお説教までされた。おねーさまへの敬意が足りないのではないでしょうか?
グレイの性格を表すように、広い研究室内もきちんと片付けられている。書物や機材が所狭しと置かれているものの乱雑に見えないのは、弟の几帳面さのなせる業だろう。
グレイと違い、大公家にある自分の部屋は少々散らかっている。
筆頭魔術師として戦場を転々とする中で、お礼として貰ったものや友好の証として渡されたもの、あるいは目を惹かれて自分から買い求めた物など、国内各地のさまざまな物が、よくいえば自由気ままに置かれているからだ。悪くいうと統一感がなくてごちゃっとしている。
ちなみにゼインは真逆だ。あの男の部屋にはほとんど物がない。寝台とソファがあるくらいだ。どちらも寝るために存在している。
自分やグレイ、それにゼインの弟のルインヘルドからは「殺風景すぎる」「片付ければいいというものではないのでは」「兄上の部屋に入ると虚無を感じます」と散々の評判だけど、ゼインはすべて聞き流している。
自分とグレイは大公閣下の養子であり、ゼインとルインの兄弟は大公閣下の実の孫だけれど、四人とも歳が近いこともあって、気心の知れた仲だった。
年齢順でいうなら上からゼイン、ルイン、自分、グレイになる。
自分たちが大公家に引き取られた頃にはゼインはすでに戦場へ出ていた。火の魔術師としては天才なのだ、あの人は。部屋は虚無だし、隙あらばサボって寝ている怠惰人間だけど。
ゼインは幼い頃の自分にとって魔術の師の一人でもあった。幼学校で教わったのが魔術の基礎なら、実戦を叩き込んだのはゼインだ。彼は戦場から戻ってくるたびに、自分に請われるままに訓練をつけてくれた。最初の頃、自分がてんで弱かったころは面倒くさそうに片手間にボコボコにされて、少し力をつけてくると今度は面白がっている顔でボコボコにされた。筆頭魔術師という対等な地位についた今も、一対一の戦いであの男に勝てる気は到底しない。
応接用のソファに腰を下ろして、グレイに里帰りの事情を説明する。
王宮まで使者が来たこと。至急大公家に戻るようにいわれたこと。だけど帰還してみれば、自分を呼び戻したフィン様は不在で一週間は戻らないといわれたこと。事情をご存じのはずの閣下は何も仰らず、侍女長は口止めされている様子だということ。
グレイは話を聞きながら紅茶を淹れてくれて、お茶請けの焼き菓子まで出してくれた。それからグレイもローテーブルを挟んだ向かい側のソファに腰を下ろして、眉間にしわを寄せた。
「フィン様に呼び戻されたのに不在で、閣下は何も仰らない、か……」
「そうなの。理由になにか心当たりはある?」
「俺も研究が忙しくて、大公家にはほとんど帰ってないんだ。だから事情はわからないよ。ただ……」
グレイは考え込むようにあごに手を当ててからいった。
「姉さん、ゼインにはもう会った?」
「会ってないけど、なんで突然その名前が出てくるのよ」
彼に失恋したという話を、自分が唯一明かしたのがこの弟だ。弟相手にしたい話では全くなかった。なかったけれど仕方もなかった。グレイは自分が王太子の婚約者になることに猛反対していたから。
『なんで姉さんが王家に嫁ぐんだよ! いくら大公家に恩があるからって、そこまで自分を犠牲にするのはおかしいだろ。だいたいゼインはなんていってるんだ!? あいつが姉さんの盾になるべきだろう!? いや、そもそもフィン様だって、筆頭魔術師相手にこんな婚約を進めるなんて何を考えて……っ!』
とまあ、大変ご立腹な様子で『内戦を起こさないため』だとか『わたしなら暗殺者も自力で撃退できるから』とか、そういう理由では一向に納得してくれなかった。このままだと直接ゼインのところに怒鳴り込みに行きかねない勢いだった。それで仕方なく、振られたという話だけはした。詳細については明かさなかったけれど。
姉が失恋していることを知っているのだから、突然心臓に悪い名前を出してくるのはやめてほしい。自分としては『フィン様が戻ってくるまで、どうかゼインに会わずにすみますように』と祈っているのだから。
しかしグレイは難しい顔をしていった。
「今回の件と関係があるかはわからないけど、最近、気になる噂が一つあるんだ。───フィン様は自分の後継者に、長男のゼインじゃなくて次男のルインを据えるつもりなんじゃないかと、あちこちで囁かれている」
「……はあ?」
思いきり怪訝な声が出てしまったのは、それがあり得ない話だからだ。
このアンディルア王国では家を継ぐのは一般的に長男だ。庶民ならともかく貴族社会ではよほどのことがない限り長男が継ぐ。一方で、魔術師の界隈では血縁の概念は緩いのだけど、その分実力主義だ。能力の高い者が上に立つ。
ゼインヘルドは大公閣下の実の孫であり、次期当主フィンヘルドの長男であり、火の筆頭魔術師だ。血筋も能力も申し分がない。弟のルインがゼイン以上の魔術師であったなら話も違ってくるだろうが、ルインにそこまでの力はない。ルインは毒舌なところもあるけれど、基本的には穏やかで控えめな青年だ。自分がトップになりたいという野心はないだろう。
「どこから出てきたの、そんな与太話」
「いろいろあるけど、一番の原因はゼインが表に出てこないことだよ」
グレイは腕組みをして続けた。
「姉さんは王妃教育で忙しくしていたし、その、二人の事情が事情だったから俺も黙っていたけど……、この一年くらいゼインは公式の場を、大公家の跡取りとしているべき場面でも欠席している。……それでも今までは欠席扱いだったんだけどね。最近ではついにゼインの席がなくなって、ルインが座るようになったそうだ」
「……本当なの?」
「本当。俺はルイン本人から聞いた。兄上も父上もどういうおつもりなのかわからないと嘆いていたよ」




