10.間章-昔の話-
大公閣下に拾われてから一年が経った。
幼学校から帰宅したヴァルは、三ヶ月ぶりに見る年上の友人の姿にパッと顔を輝かせた。
「おかえり、ゼイン!」
すでに戦場へ出ている彼が無事に帰ってきてくれたことが嬉しくて、じゃれつくように駆け寄っていく。
するとゼインはこちらをしげしげと眺めてから、薄く笑っていった。
「行くぞ、ヴァル」
「どこに?」
「訓練場」
※
大公家の城の背後は山であり森である。
その一角を大きく切り開いた上で、四方に専用の水晶を配置し、魔術印によって結界が作動する仕組みになっている場所が『訓練場』だ。
「戦場から帰ってきたばかりなんだよね、ゼイン……?」
「そうだな」
「お休みとか休憩とか休息とかは!? 取らなくていいの!?」
当たり前の質問をしただけなのに、ゼインは馬鹿にしたようにこちらを見た。とてもイラっとする。大事な会議のときには、フィン様に呼び出されても寝こけているようなサボり魔のくせに。
「お前の成長ぶりを見てやろうといっているんだ。泣いて感謝しろよ」
「ゼインはまずその話し方から改めたほうがいいと思う」
いくら大公閣下の孫で、そのうえ火の筆頭魔術師というとっても偉い地位についているとしても、他人をムカつかせる喋り方をするのは良くない。今日、幼学校の先生も似たようなことを言っていました。
「不満などいわれたことはないが」
「聞き流してるだけでしょ!? 記憶に残ってないだけ!」
「まあ、俺に要求を呑ませたいというのなら……」
ゼインがこれ見よがしに右手を晒す。
「このくらいは軽く防いでもらおうか、ヴァル。───揺蕩え、其は赤き闇なれば、終焉の使者なれば」
詠唱とともに、ゼインの頭上に無数の炎の矢が生じる。
青い空を赤く燃やし尽くすかのような光景だ。
ちなみに、ゼインは実際には正式な詠唱を必要としない。簡略化できるほどに魔術の天才だからだ。いま、わざわざ魔術印を結ぶ手を見せたのも、正式な詠唱を口にしたのも、こちらに配慮して力を抑えているという意味だ。自分はまだゼインが本気を出せるような魔術師ではないからだ。
(わかっていてもムカつく……!)
だいたい何なのかあのこれ見よがしな大量の炎の矢は。自分が怯むとでも思っているのだろうか。冗談だろう?
「わたしは魔力量だけはぴか一だって先生に褒められたんだからね」
「欠点を指摘されたの間違いだろう」
「力技でいいならゼインにだって負けない。───紡げ、其は凍てつく盾なれば、轟く守護者なれば!」
地割れのような響きとともに自分の正面に分厚い氷壁が築かれる。それは自分の足元までも凍らせて、吐く息を白く染めた。
ゼインが片眉を上げていう。
「お前は本当に魔力のコントロールが下手だな」
「うっ、うるさい! 長期戦じゃないからいいの!」
炎や氷など触れただけで身体が傷つくような魔術を扱う魔術師は、魔術を形にすると同時に自分の身を守る必要がある。
幼学校のリエル先生いわく、
「魔術に馴染みのない人々は誤解しがちですが『自分が作り上げた魔術ならば自分の身を無条件で傷つけない』などという都合の良い話はありません。あなた方が生み出す火も水も風も土も、使い方によっては強力な武器となるものです。持ち主ならば傷つけないという剣がありますか? ないでしょう? 魔術も同じことです」
強大な武器から身を守る魔術構成を同時に編み込む、そこまでセットで行えてこそ魔術師だ。現にゼインはあれほど大規模に炎の矢を展開させていながら、その身に纏うロープに火の粉が落ちる気配すらない。
しかし自分の足元は凍り付いているし普通に寒い。これが魔術師一年生の実力である。
「でも、あなたの炎を防ぎきればいいだけでしょう? だったらこれで十分。さあ、かかってきなさいよ。それともわたしが寒さに負けるのを待つつもり? 火の筆頭魔術師ともあろうお方が?」
「はっ、お前のその生意気な顔と減らず口は嫌いじゃないさ、ヴァル。這いつくばらせるのが楽しみになるからな」
「性格が悪すぎる!!」
思わず叫んだ瞬間に、無数の火矢が飛来する。
ヴァルは即座に詠唱を重ねた。魔術印を繰り返し結ぶ。ゼインの炎が氷を砕き、軋ませるたびに、再構成して氷壁を修復する。
自分は繊細なコントロールは大の苦手だけれど、この広い訓練場で一対一、周りへの影響も考えずに力技で耐えきればいいだけなら勝ち目は十分あった。
ゼインが新たに炎の矢を創り出す様子はない。彼は面白そうにこちらを眺めているだけだ。実力差があるのはお互いに承知の上の訓練なのだから、最初にいった通り『これを防ぎきれば勝ち』なのだろう。
そしてついに最後の一矢が氷壁を削り切れずに消えていく。
よしっ!とこぶしを握り、ついでに新たな詠唱を口にする。
「紡げ、其は凍てつく風なれば、時を射る輝きなれば!」
空中に数本の氷の矢が生まれる。これはちょっとした意趣返しだ。一向に余裕綽々の顔を崩さない男に、こちらの実力を示してやりたい。
そして氷矢を放とうとしたとき───首筋に熱を感じた。
ゾッと全身が総毛立つ。
まさかという思いで、視線だけを恐る恐る背後に向ける。
そしてうめき声が出た。
もはや防ぎようもないほど肌のそばに、一瞬でたやすく燃やし尽くされるほど間近に、赤く燃える矢があった。
「いつから───っ!?」
「最初から」
あっさりとゼインがいう。
最初から仕組まれていたのだと。前方に生み出された無数の炎の矢は、自分の意識をそちらへ集中させるためのただの囮にすぎなかったのだと。
本命は最初から背後の一矢。命を奪うにはそれで十分。
「───っ、ずるくない!? 一度の詠唱で二カ所に生み出す方法なんてまだ教わってない!」
「ほお? お前は戦場でもそれをいうのか、ヴァルキリア? 魔物相手に卑怯だの教わっていないだなどと泣き言を? ハハッ、魔物がお前の話を聞いてくれるといいな?」
「いやみったらしすぎる……! わたしが悪かったけど、ゼインの性格も悪い……!!」
「なんだ、ヴァル。お前はまさか、いいと思っていたのか? 俺の性格が?」
わざとらしく驚いたような顔で見られて、ヴァルは怒りのあまり身体を震わせた。
※
戦いすんで、日が暮れて。
もとい、訓練がひと段落して、ヴァルは地べたに寝転がっていた。ほとんど倒れ込むに近い。もう指一本動かしたくない。
太陽も地平線の彼方に沈みかけている。大公家の城が橙の光に染まっている。
自分とはちがって息一つ切らせていない男が、隣に座っていう。
「最初はだれしも模倣から入るものだが……、お前の魔術で矢は向いてないな。まっすぐに飛ばすことしかできない氷の矢など何の脅威にもならない」
「普通はそんなものじゃない……? 自分を基準に考えないでほしい……。あれだけ大量の炎の矢を出しておいて、一矢ずつ別々にコントロールができるほうが信じられない……。あんなの普通は脳が壊れるから真似しないようにって、リエル先生もいってました……」
「ヴァル、確かに俺は天才だが、並の魔術師でもこの野の花程度はコントロール力を有しているものだ。それがお前ときたら、草の葉ほどの繊細さすらない」
「怒るよ?」
「どうせ力押ししかできないのなら、それに向いた形を考えた方がマシだろう」
「……向いた形って、例えばどんな?」
「そうだな……、氷のこん棒でも作ったらどうだ? おい、蹴るな。行儀の悪い足だな」
「ゼインに行儀をいわれたくないし、なにがこん棒よ!!」
「巨大なこん棒で殴り倒す方がお前には向いていると思ったんだが」
「こんなに最悪なアドバイスをもらったのは人生で初めてだよ」
こちらのことをどういう眼で見ているのだ、どういう眼で!
しかし睨みつけてもゼインはどこ吹く風、何なら面白がっている顔で笑うだけだ。
橙色の日の光を浴びて、ゼインの紅の瞳が柔らかな色合いを帯びる。サラサラとした金の髪に、人形のような冷たい印象を与えるほど整った顔立ち。黙っていれば格好良いのだ、この人は。まあ言動のすべてが台無しにしてくるけど。
むくりと身体を起こして、何気ない口調でいった。
「ゼイン、わたしね、配属が決まった。クリーグラ部隊長の指揮下に入るんだって」
「そうか」
彼の声に驚きはなかった。もしかして知っていたのだろうかと、こちらが驚きながら見つめると、紅の瞳は当たり前だろうといわんばかりに冷たかった。
(そっか、ゼインは筆頭魔術師だもんね。……あぁ、もしかして、だから訓練をつけてくれたの?)
帰還したばかりなのに、休みを取らずに自分を訓練場まで引っ張ってきたのは、それが理由だったのかもしれない。
そう考えると胸の奥がなんだかポカポカした。嬉しいと素直に思う。
配属が決まった。
───それはつまり戦場へ出るということだ。
自分の年齢で、幼学校の一年生で、これは異例の決定だとリエル先生から聞かされた。本来はあってはならないことなのだと、先生は苦しそうにいっていた。
だけど、大公家は今とても人手不足なのだという。その理由は自分も聞いて知っていた。
冥竜オルガヘイム───千年前、世界を滅ぼしかけたという伝説の邪竜。
世界を守る結界を創られた光の大神は、この冥竜と相打ちになって深い眠りについたのだといわれている。そんな伝説の中に語られていた怪物が、数年前に本当に復活したのだ。大公閣下を始めとする魔術師たちが総出で戦って再び封印したけれど、その代償は大きかった。大勢の魔術師が亡くなったり、戦えない身体になってしまった。大公家の軍の主力が抉り取られるような戦場だったそうだ。
ゼインは冥竜オルガヘイムと戦って無事に生き延びた貴重な魔術師の一人なのだという。彼にはそれだけの実力があって、だから火の筆頭魔術師にも任命された。
「ゼイン、あのね……」
自分に何かあったら、弟のことを気に掛けてあげてほしい。
そう彼にお願いするつもりだった。戦場へ行くことは怖くなかった。だって自分はお母さんを見捨てて生き延びたのだから。ゼインはちがうといってくれるし、それも真実なのだと思うけれど、どうしても罪の意識が消えない。
だからだろうか、安全な場所にいることのほうが苦しかった。自分にも何かできることがあるのだと思いたかった。
でも、弟はちがう。あの子には安全な場所で無事でいてほしい。あの子は自分とちがって魔力量が大きいわけでもないし、魔道具について熱心に勉強している。きっといい魔道具師になれる。前線に出る必要はないのだ。
だから、自分にもしものことがあったら、あの子のことを気にしてあげてほしい。
そういおうと思って、紅の瞳と視線がぶつかった。
ゼインの眼差しは静かだった。それでいてこちらを試すようでもあったし、射抜くようでもあった。どうしてなのか、不思議と泣きたくなってしまう。この人以外の誰かの傍で、こんな気持ちになることはないのに。
「ゼイン……、───必ず帰ってくるから、そのときはまた訓練をつけてよ。今度はギッタギタにしてあげる」
思ってもいなかった軽口がするりと零れでる。
けれど言葉にしてしまうと、それは妙にしっくりときた。指先まで血が巡ったような温かさが戻ってくる。死ぬ覚悟はしていたつもりだったけれど、多分それをいいたいわけではなかったのだ。
自分はただ、この人と次の約束がしたかっただけなのかもしれない。
軽い言葉に、ゼインが弾かれたように笑った。破顔して、喉を震わせる。その姿がやっぱり格好良く思えてしまって、思いきり目をそらした。ちょっと腹が立つ。こんなに性格が悪いのに格好良いなんてずるい。
ひとしきり笑ってから、ゼインはいった。
「あぁ、そうだな、ヴァル。帰ってこい。次も叩きのめしてやるから」




