理解
何を言っているか分かる人はこんな袋小路にぶつかることなく通り過ぎるだろう。以前に似たような経験があるからなのか、それとも射程が広過ぎて息を吸うように通り抜けるからなのかは定かではない。何も分からない人はそもそもこんな袋小路は見えないだろう。見えなければぶつかることもないし、問題は一挙に消滅する。画期的だ。問題は見えなければ、認識されなければもはや問題ではない。どちらにしても十把一絡げに問題ごと包み込む。ぺしゃんこだ。跡形も残らない。しらみつぶしにやっていたのは一体何だったのか。
見えることは必ずしも良いこととは限らない。ジャミング。むしろ弊害になることだってある。選択をする際に情報の遮断は絶対だ。過ぎたるはなお及ばざるが如し。見え過ぎも良くないが、見えな過ぎも良くない。刮目せよ。己の身が破綻しない程に。車の運転中に目の前に幽霊が見えていたら困るだろう。靴紐を結ぶ際に紐の上に妖精が見えていたら。絵を描く時に風景の一角がお化けに食べられていたら。靴を見れば人となりが分かる。そんな馬鹿な。尊大な自尊心は頻繁に我々を驕り高ぶらせる。靴を見たら靴が分かる。このような言説でさえ怪しいと言うのに。
理解とはその人の現前にたまたま通りかかった言説を媒介として、アイデアが顕在化しただけの話である。元々あった何らかの形の、あるいは形になり損なった無数の欠片が、言説の触媒作用によって折り重なって変成する。それを我々が好き勝手に呼称しているだけである。理解するとは、無数の要素に新しく別の呼び名を与えることである。故に真に「理解」されることはない。比喩の比喩。堂々巡り。そして理解できないとはそれにぴったりとはまるピースを、相応しい名を見つけられていないのである。理解はたった一度っきり。残りは残渣、残響、残像。
理解とは注意深く見ることに相当する。見えないから分からず、分からないから見えず。優れた画家は皆漏れなく「目」が良い。審美眼に長けている。目だけでなく耳も。五感が優れている。絵とは彼らの手鏡であり、足音であり、虚像であり、萌芽であり、枯死であり、雨露であり、歌である。
では初めから見えなかったのならばどうすれば良いのか? 制限するのだ。限界まで削ぎ落とすのだ。模倣するのだ。見るべきものを見て、聞くべきものを聞く。踊るべき時に踊り、眠るべき時に眠る。欠けた器に一輪の花を添えて。