8 スパイ
翌日、ハンスは預かった金属筒をセラフィムに渡した。セラフィムはそれを受け取り、ハンスに酒瓶を三本と煙草を持たせた。
「また来るでしょうから、来たら渡してください」
約束があったのかと思いながら、彼はそれを持って魔王城の中庭に戻った。その預かった荷物は物置小屋に入れ、彼はまたマンドラゴラ畑に向かった。
「うーん」
まだ少し早いなあ、そう思いながら騒ぎ立てるマンドラゴラをチェックし、彼は次にバラ園に行った。魔王の自室とダイニングに飾る花を切るためである。フーシャが帰ってしまったので花の数は少し減ったが、それでも毎日の作業に変わりはなかった。
「おはよう、勇者くん」
話しかけてきたのはグランデだった。彼がおはようございます、と挨拶を返すと彼女はこう言ってきた。
「ランドルフ君知らない? 昨日一緒だったって聞いたんだけど」
今日は姿を見ていなかった。なのでそう返事をするとグランデはさらにたずねてきた。
「ドワーフ工房の準備ができたから迎えに来たのに、どこへいったのかしら。何か聞いてない?」
「いいえ、何も」
彼女は考え込んでじゃあしょうがないわね、と言った。
「ごめんね、ありがとう。何かあったら教えてちょうだい。司令本部にいるから」
「分かりました」
どっちにしろあの人達が城にいるときは何かあるんだなあ、ハンスはそう思いながら返事をした。グランデはよろしくね、と言ってその場から立ち去った。
その時間、魔王とセラフィムは魔王の自室でハンスから渡された金属筒を開封し、中に入っているものを確認していた。中にあったのはメモ書きが一枚と丸薬のような黒い粒が数個だった。
「高等天使語ですね」
メモ書きに目を通し、セラフィムは言った。高等天使語とは主に上級御使い達が使う書き言葉である。通常の天使語とは表記の方法が違い、習得には別言語を学ぶのと同じくらいの労力が必要であった。
「なんて書いてある」
セラフィムは真剣な表情でメモ書きを読んでいた。途中、眉間にしわが寄ったがすぐにまた元の表情に戻った。
「御使いの作り方です。この黒い粒は御使いの種だそうです」
ざっとですが、と彼は説明をした。それによるとこの黒い粒を専用の壷に入れ、特殊な溶液と触媒も一緒にして三日三晩寝かせる。するとぼんやりとした人の形をしたものが出来上がるので、それを別の入れ物に移して役割別にまた違う溶液を入れ、数日置くと新たな御使いが誕生するとのことだった。
「この種を唯一神が作ってるみたいですね」
もちろん失敗もある。その場合は消滅させるのだが間違って逃げ出してしまうこともあり、そういった失敗作が煉獄周辺をうろついているとのことだった。
「ちゃんと仕事をしてきたのか」
「ええ。意外でした」
セラフィムとサーキュラーはウリエルを逃がす際に、天界に戻ったらスパイとして働くように命じた。もちろん魔王の指示である。彼の性格やセラフィムとのしがらみを思うとろくにやらないと関係者全員が思っていたので、真面目にこんなものを持ってきたことは驚きであった。
「魔王様、いかがなさいますか」
魔王はメモ書きを手に取った。
「御使いの作り方とその種か」
「はい」
そうすると、と魔王は言った。
「原材料さえあればここでも作れるのだな」
「おそらく」
魔王は話を続けた。
「もしここで御使いを作ったとして、それがちゃんと御使いになると思うか?」
セラフィムは考え込んだ。
「外見上はそっくりに作れるとは思いますが、やはり少し違ってくるのではないでしょうか。耐久力なり思考なり、天界のものとはやや違ってくるとは思います」
「なるほど」
それに、とセラフィムは言った。
「唯一神に対する忠誠心もあるのかどうか不明です。おそらくは魔王様に忠誠を誓ってくると思うのですが、そもそも忠誠心を持ち合わせないで生まれてくる可能性もあります」
「そうか」
そう一言言うと魔王はくくく、と笑った。
「その種をもっとと発生装置を持ち出してくるようにウリエルに伝えよ。ここで御使いを作る」
驚くセラフィムに魔王は言った。
「それを天界にばら撒けば大騒ぎになるだろう。どうだ」
セラフィムは魔王の顔を見つめた。いったい何を考えているのか分からなかった。
「確かにそうですが、あの、魔王様は何をお考えです。天界も支配下に置くおつもりですか」
思わずそう言ってしまったセラフィムのことを、魔王は少し首をかしげて見た。
「お前は本当にお人好しなのだな、セラフィムよ」
魔王が何を言い出すのか見当がつかず、セラフィムはじっと次の言葉を待っていた。
「あの時のお前の姿はいまだに覚えておるぞ。破戒の丘にいた時のな」
天から落ちてきた彼を、まだ少年だった魔王はドブ川から引き上げた。やがてまともな会話ができるようになったので、少年だった魔王は毎日学校帰りにドブ川べりまで様子を見に通っていた。
しかしある日、輪郭がぼやけ半分消えかけた状態で、彼は悪臭を放つドブ川のへりに力なくうずくまっていた。声をかけると元に戻ったが、時々そんなことがあった。少年だった魔王は誰がこんなになるまで彼を追い詰めたのかと常々思っていたのだ。
「わたくしはもう……」
言いかけたセラフィムの言葉を、魔王はさえぎった。
「私の気が済まぬ。しかもあの男はお前を返せと言ってきたのだぞ」
なんともあきれたことに、唯一神はセラフィムが魔王の元にいることを知って、魔王にセラフィムを天界に戻すように手紙をよこしたのだった。いわく、魔王の入れ知恵でセラフィムは降魔したのであり、今彼を天界に戻せば天からの怒りを降り注がせるのはやめにしておいてやる、という内容である。ちなみに天からの怒りというのは、セラフィムが持っている大型で高電圧のいかづちのことだ。もちろんセラフィムにしか撃てない。
「こいつの言うとおりにしておいたほうがよかったかも知れぬな」
魔王は机に転がされた、繊細な彫刻が施された金属筒を見た。フーシャを父王の城に連れて行く時に、ウリエルが彼に言ったことを思い出したのだった。
「何を言っていたのですか」
魔王は少し笑った。
「なぜあの男の息の根を止めてこなかった、と。御使いの癖にあきれた奴だ」
セラフィムは魔王の顔を見つめていた。魔王が唯一神を消さなかった理由は分かっている。今はちょうどよく天界、人界、魔界のバランスが取れている。そこで唯一神がいなくなると三界のバランスが崩れてしまい、再調整に時間がかかるからだ。場合によっては天界と魔界のみならず、人界も巻き込んだ争いが起きる可能性もある。
「それともお前が天界を支配するか、セラフィムよ。今なら天界の全支配も可能だ。やるなら手伝うが」
魔王は面白そうにセラフィムに聞いた。いいえ、と彼は首を横に振った。
「上にはもう戻る気はありません。わたくしは魔王様に忠誠を誓ったのですから」
ふ、と魔王は笑った。
「おかしな奴らばかりよ、本当にな」
そう言うと魔王は言葉を続けた。
「天界なぞいらぬが、少し掻き回してやるのも面白い。時間がかかっても構わぬ。確実に道具を手に入れて来るように言え」
「……かしこまりました」
彼はセラフィムにその金属筒を返し、そこに指示を書いたメモを入れるように言った。セラフィムは金属筒を受け取ると一礼をして魔王の自室を下がった。