1 サファとエメール
魔王達が父王の城を出発する前のことだ。
セラフィムは父王に許可をもらって改めて聖堂に入った。彼の横にはアルノとハンスがついてきており、その出入り口付近にはフーシャと父王の側近が待機している。
魔王は建物の外でサーキュラーや四大将軍達と一緒にいた。実は魔王のちからがあれば、たいしたダメージを受けずに中に入ることもできる。しかしセラフィムが何か気にしているようだったので、彼は外で待つことにしたのだった。
「ここですね」
ハンスが青く光る手の甲を見ながら言った。ついてきたアルノは目を丸くしてそれを見ている。彼が言った場所は聖堂内部の壁に作りつけられた、掃除用具や小間物を置く扉つきの棚であった。
「そんなところでしたか」
鍵がかかっているので、ハンスは外に出て待機している人間達に鍵を貸してくれるように頼んだ。父王の側近が快諾し、彼は一緒に城内にある保管場所まで行くことになった。
「その格好、天使の服だよな」
「ええ、まあ、そうですね」
こちらは聖堂内に残ったセラフィムとアルノの会話である。この時のセラフィムは天衣をまとい、白い六枚翼を生やしていた。しみじみとアルノが言う。
「よく見るとものすごいな。並みのセンスじゃねえな、それ」
うーん、と苦笑しながらセラフィムは答える。
「これ、御使い達の制服なんですよ。天使降臨とかの絵ってみんな同じ格好してますよね。それってそういう理由なんです」
「へー。なんでそれ持ってんの」
ハンスだったらもっと突っ込まれたであろう。
「いろいろあるんです」
セラフィムはそう言って流してしまった。そこへハンスが戻ってくる。アルノはハンスの手から鍵を奪い取り、鍵穴に差しこんでがちゃがちゃとやりだした。ばん、と大きな音を立てて扉を開く。そして拍子抜けした顔になった。
「何にもねえぞ」
しかしハンスの手にある紋章は反応している。セラフィムは二人に静かにしているように言うとからっぽの戸棚の奥を探り、何かを取り出した。その取り出したものをハンスに渡し、もう一度中を探る。そして同じものをもう一個取り出した。
「なんですか、これ」
ハンスは両手の上に乗せられた、不定形でぷるぷるするものを見ながら言った。色は半透明である。海から引き上げたばかりのくらげのような形をしたものだった。セラフィムはもうひとつのくらげのようなものを自分の手のひらに乗せ、そこに反対側の手でエネルギーを注いだ。
「うわあ……」
青い光を吸収して不定形のものが光り輝く。アルノとハンスが息を詰めて見守っていると、やがてそれは内部に向かって凝縮を始め、人のような形をとり、最後に十四、五才の、薄いグレーのワンピースを着た少女の姿となった。ただし大きさは手のひらに乗るくらいである。セラフィムはそっとその小さな少女をもといた棚に戻し、ハンスの持っているもう片方の不定形のものを受け取って同じようにエネルギーを注いだ。
「なんだこれ」
思わず大きな声で叫んだアルノに、セラフィムは静かにするように言った。いまや二人になった少女達が同じように棚に並んでセラフィムを見上げる。あの、とハンスがためらいがちに小声でたずねた。
「これ、なんなんですか」
「神々です。結界がきつすぎるのでもしや、と思ったんですよ」
「え?」
「エネルギー切れで退行してしまってますけどね。悪いことをしました」
アルノの目の位置にちょうど少女達が来たので、彼はじっと二人を眺めた。彼女らはアルノのことを見返し、同じような動作で首をかしげた。
「まだ駄目ですね」
セラフィムは二人の上に手をかざし、さらにエネルギーを注ぐ。やがて少女達の目に表情が宿り、だんだんとサイズも大きくなってきた。そしておそらく本来の大きさであろうアルノと同じくらいの背の高さになると、ほぼ同じ動作でぴょん、と床に飛び降りた。
「ゼラフじゃないの」
「どうしてここにいるの」
セラフィムは何ともいえない表情で彼女らを見つめ、いつもの赤いコート姿に戻った。少女達が悲鳴を上げる。
「どうしましたの」
悲鳴を聞きつけてフーシャが中を覗いた。父王もその隣にいた。二人が中に入ってこようとするのをセラフィムは止めた。
「どうしてそんな姿なの?」
「まるで魔族じゃない。いったいどうしたの」
怯える少女達に彼は寂しげに答えた。
「まるで、ではなくて魔族です。天界とは縁を切りました」
「縁を切った?」
「あなたが? 本当に?」
ええ、と彼は答えて言った。
「義も理もない戦いを続けるのは無用のことです」
それから彼女らにこう告げた。
「全部終わりました。もうここの拠点を守護する必要はありません。ただ、天界に戻っても誰もいませんが。あの御方と御使い達がいるだけです」
なんとなく二人には話が飲み込めてきたようだった。そうなの、と片方が言う。
「そういう……そういうことなのね」
「では私達はどうしたらいいのかしら」
セラフィムはそこで少女達を食い入るように見ているアルノを見た。
「アルノ王子です。ご存知ですか」
「知っているわ」
「知っているわ」
同じような動作で小首をかしげる。
「御名をお名乗り下さい」
小首をかしげたまま、少女達はセラフィムを見た。まだ駄目だと見てセラフィムはアルノにこうたずねた。
「王家に伝わる守護者の名をお教え下さい」
んん、とアルノはセラフィムの顔を見る。
「コレ、知り合いだろ? もしかして知ってんじゃねえの?」
セラフィムは微笑んで言った。
「アルノ様からのお言葉でないと駄目なのです。わたくしでは呼び戻せません」
「なんで?」
「人間に実体はありますが、神々に実体はないからです」
分かるような分からないような答えであったが、アルノはそんなものなのかと一応納得して、幼少の頃に聞かされた物語の記憶をさらった。
「えーと、なんだっけ。竜騎士と女神の伝説だっけ。サファとエメールの剣とかいう話だったと思った」
グレーのワンピースを着た少女達は、大きな目をまばたいてじっとアルノのことを見つめた。
「もう一度言って下さい」
セラフィムにうながされ、彼はもう一度、昔聞いた物語の題名を言った。相変わらず少女達はアルノのことをじっと見つめている。気恥ずかしくなった彼はさらにもう一回、今度は物語の題名を思い出したまま正確に言った。
「サファとエメールと竜騎士の剣、だよ。これでいい?」
少女達の姿が変わった。
「そうでしたわ」
「思い出しました」
何かが呼び覚まされ、それぞれの瞳の色が空を思わせる青と、森を思い起こさせる緑へと変わる。着ているものもぼんやりとしたグレーのワンピースから、瞳と同じ色の薄手のドレスに変化した。
「えっ……本物?」
アルノはびっくりしてそこに現れた神々を見つめた。聞かされた伝承どおりの姿だからであった。ハンスはただ呆然とことの成り行きを見守っていた。
「思い出しましたか」
問いかけるセラフィムの言葉に、威厳を取り戻した少女らは答えた。
「ええ」
「思い出したわ。あなたのことも、私達のことも、全部ね」
セラフィムはいったん顔を伏せた。しかしまた彼女達に向き直った。
「わたくしは、あなたがたにひどいことをしました。いにしえの双子の神霊、サファとエメールに」
それを聞いて少女達は微笑んだようだった。青い瞳のサファが言った。
「私達を天界から追い出したことかしら」
緑の目を持つエメールが言う。
「私達を戦力外と通告したわね。天軍長ゼラフとして」
そして歌うように彼女らは言った。
「知っているわ。あの御使いが私達を灼こうとしたからでしょう」
セラフィムははっとしたようだった。
「ご存知でしたか」
ええ、と彼女達は優雅に答えた。
「御使いが神々に手を出すことは許されないわ。けれどあの者は違った。そしてあの男もそれを止めようとはしなかった。だからあなたは私達を天界から追放したのでしょう」
「あなたは私達が無能だと烙印を押した。だから誰も私達を追わなかった」
セラフィムは彼女達を取るに足らない者だと宣言した。そして地上の誰も来ない、しかし失うことのできない古い拠点を守るように命令したのだった。何も言えなくなった彼に、サファとエメールはこう続けた。
「私達がここで人間の守護をもらって生き延びられるよう、あなたはそう取り計らった。これ以上神々を失うわけにはいかなかったから。そうでしょう、ゼラフ?」
言われて彼は顔を伏せたまま、ぽつりぽつりと答えた。
「……その通りです。あなたがたを失うわけにはいかなかった。いにしえの神々はもうほとんどいません。メタトロンがやらなければ、いずれわたくしがあなたがたを滅するようになる。それはどうしても避けたかったのです」
では、とサファとエメールは言った。
「私達はあなたに救われた……のでしょうね」
「あなたが降魔してしまったのもその辺にあるのかしら」
セラフィムは答えなかった。ただ、顔を上げて彼女達を見た。
「これはお願いなのですが」
彼は言った。
「アルノ王子と王家、それにこの土地の守護をできれば……」
くす、と少女達が笑った。
「ずいぶんと変わったわね」
「私達にお願いなんて」
いいでしょう、と彼女達は言った。
「あなたから頼まれてはね。天軍長最後の願いを、この森と湖の神霊、双子のサファとエメールがしかとお受けいたしますわ」
「恐れ入ります」
セラフィムが頭を下げる。すっかり目覚めた二人はくすくすと笑った。
「こんなに無器用なひとだったとはね」
「頭を下げてもらったのはきっと私達だけだわ。羨ましがられるかも」
セラフィムはきょとんとした顔になった。
「何の話ですか?」
さらに二人は笑った。そして言った。
「今は魔王付きなのね。気配で分かるわ」
「魔界のほうが性に合っているみたいね。あの頃とは全然違うもの」
そのほうがいいのかもね、とサファとエメールは言い、その場から消え去った。聖堂にはただ、凄まじいような神々しい気配が残っているばかりだった。