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初めてわたしを抱き締めてくれたのは、獣の公爵騎士様でした

作者: 秋月

 ガタガタと一台の馬車が進む。その馬車を引くのは一頭の馬と操る御者のみ。

 舗装されているわけでもない硬い土の道は石ころも転がり、小さな馬車に何度も振動を与える。またコツンと石を一つ弾いたようだ。


 それでも馬車はただ進む。国境を目指して。


 晴天の空の下を進んでいた馬車はやがて、辺境領の端にある国境へとたどり着いた。

 そこには辺境領を治める領主と、国境を守る騎士が揃う。緊張、軽蔑、憐み、交ざり合う表情と空気は、それでも揃って警戒が合わさっていた。


 それも当然。国境にいるのは彼らだけではない、国境の向こうの者たちもいるのだ。

 しかもそんな者たちは一様に、人とは少々異なる容姿をしている。頭に生えた耳、腰元から生える尻尾。見た目こそ人と似ているものの、国境内側の者にとっては、蛮族と称するに相応しい出で立ちの種族であり、獣人と呼ばれていた。


 人が治める国をノーティル国。獣人が治める国をオリバンズ国と言った。隣り合う両国は度々戦を起こし、いがみ合っていた。

 そして当代の王同士は繰り返すこの戦に区切りをつけようと、停戦交渉を行った。そこで出されたオリバンズ国からの条件の一つが『王族もしくは高位貴族の令嬢をよこせ』というものであった。


 ノーティル国の王は家臣達と話し合った。そして一人の令嬢を選んだ。

 人間の国の者たちにとって、野蛮な国に嫁がせるに()()令嬢を。


 国境に馬車が着き、人も獣人たちも馬車を見る。御者はゆっくりと御者台から降りると馬車の扉を開けた。


「お嬢様。どうぞ。国境に着きました。あちらの方々がお迎えに来てくださっております」


 御者が声をかけ、そっと身を引いた。

 そしてギシィ…と踏み台を下り、一人の小柄な女性が出てきた。


 その姿に周囲の騎士や領主が僅か顔を顰め、嫌悪するかのように女性を見る。歓迎されていない空気を感じつつも、令嬢は何も言わずスッとオリバンズ国へと足を向ける。


 正面からその容姿を見た獣人たちも、驚きの顔を見せたり、顔を顰めたりという反応をする。

 それでもまた令嬢は何も言わず、表情を変える様子もなく、歩き進める。


 国境に風が吹いた。

 小柄な令嬢の体には不釣り合いにも感じる、サイズの大きなドレスがバタバタとはためき、顔を隠してしまう程長い白い髪が大きく揺れる。

 令嬢はその風を受けて足を止め、両手で顔の左側を押さえた。押さえた顔の左側にはすでに包帯が巻かれ、目すら包帯が隠し、さらにその上から長い前髪が顔を隠している。

 俯き加減の令嬢の姿には、獣人からこそこそと声が漏れる。それは大きなものにはならず、国境を隔てた相手国を睨む方へ変わる。


 両国の間に立たされた令嬢は、風が止むとまたゆっくり歩いた。

 その足が国境を越える前に令嬢は一度だけ故国を振り返り、深く礼をした。それに応える者は誰もおらず、令嬢はそれが分かっているように礼を終えるとまた振り返り、迷うことなく国境を越えた。





 令嬢の名を、ユフィ・ヒーシュタインという。人が治める国、ノーティル国にある侯爵家の令嬢である。

 獣人が治める国、オリバンズ国からの要求に相応しい身分を持ち、ユフィは国の決定としてこの国へやって来た。


 オリバンズ国の中央までは日数がかかるが、その道中は国や各領地の騎士たちが護衛についているので比較的何事もなく進んでいた。滞在は各領地の長の屋敷に泊まり、ユフィは手厚いもてなしを受けた。

 しかし、領主も騎士も、やって来た令嬢にどう接していいものか躊躇っていた。


 獣人と人間は長く争いの歴史があり、どちらの種族も互いに快い感情を持っていないのは周知の事実。なのに、停戦のためと国が求めたのは人間で、しかも声をかけるのを躊躇わせるのが、顔の包帯と常に俯いた姿だ。


 オリバンズ国は獣人の国と言われているが、国内には人間もいる。数は少ないが、獣人たちと良好な関係を築き暮らしているれっきとしたオリバンズ国の民である。

 獣人たちは解っている。そんな民がいる一方で、自分達を「野蛮」と称し、敵対し見下す人間もいるということを。


 そんな国から来たのがユフィだ。

 いっその事「嫌!」とか「帰りたい!」とか、泣くとか喚くとか怒るとかすれば分かりやすいのに、何も言わない。


 世話になる領主邸では「お世話になります」「ありがとうございます」と言葉にするが必要以上に喋ることもなく、獣人たちも声をかけるのを少々躊躇う事もあった。しかし、土地によってはユフィに話しかけるメイドもおり、ユフィは俯いているものの掛けられる言葉には応えていた。


 黙々と国内を走る事しばらく。王都の門をくぐった。

 王都を進む馬車は民の目を引く。しかし誰もその中を見ることは出来なかった。

 馬車の窓はきっちり布で隠されていて、中の乗り人が外を覗き見るような様子も一切ないのである。


「御令嬢。すぐ着きます。……貴女の嫁ぎ先です」


「…はい」


 貴族の邸宅が並ぶ中、騎士が一人、馬車の窓をノックして伝えれば中から小さな返事が聞こえた。人ならば聞き逃してしまうだろうが、獣人故の耳の良さで聞き取れた返事。


 ユフィはオリバンズ国の決定により、オリバンズ国内での待遇が決められた。

 ユフィがその待遇について知ったのはオリバンズ国内に入ってからだった。道中のとある地の領主が教えてくれた。国を出るまではどうせ人質のようなものだろうと思っていたが、どうやら想像とは違っていたらしい。

 話を聞いた時、ユフィは唇を引き結び拳を握るしかなかった。


 貴族と婚姻を結ぶ事で、オリバンズ国に留め置かれる。つまり結婚する事になったのだ。

 争い合っていた国なので王族は避け、オリバンズ国はある貴族を指名した。ユフィが知っているのはその人物の名前だけ。


(確か、オルガ・ウルフェンハード様…。公爵家の御子息…)


 馬車の中で、ユフィは小さく息を吐いた。

 突然父に呼ばれ。突然国の決定に従わされ。突然家を出された。供は誰もいない。荷物もない。文字通り身一つで。


(結局、それがオリバンズ国にどういう印象を与えようが、構わないと言う事…)


 厄介払いできた父も義母も喜んだだろう。恐らく自分から王に提示したのだ。娘を出すと。

 要求通りに令嬢を出せば、その令嬢が後どうなろうと知らないし、どういう印象を与えようとそれは全て、罵倒、蔑み、あるいは攻撃として令嬢に返って来るだろうと。


(それに、こんなわたし…。不興を買って当然…)


 そっと、ユフィは自分の顔の左側に触れた。

 包帯の感触の下にある、ざらざらとした嫌な感触。手を放して無意識に唇を噛んだ。


 ガラガラと車輪が鳴り、やがて止まる。その際には「敷地内に入りました」とまた騎士が窓をノックして教えてくれた。しばらく馬車は進み、やがて止まると外から声がかけられた。


「御令嬢。到着しました」


 がちゃりと開けられた扉。外の光を遮った車内に光が差し込む。

 身に沁みついた俯いた姿勢。一房垂れる前髪が右目すら隠そうとする中、ユフィは視線だけを動かした。


 オリバンズ国に入ってから馬車を操ってくれている御者が、頭を下げてそこにいた。そんな御者も獣人で、兎のように立った長い耳がはっきりと視認できた。


 ユフィは席を立つと馬車を降りた。

 馬車を守る騎士たちは獣人が多いがどうやら人間もいる。獣人の多くは虎や熊、中には猫もいる面々は、この道中で見慣れた者たちだ。それを俯きの下から見やり、ユフィは前方へ視線を向けた。


 王都に来るとは聞いていたので、そこに驚きはない。しかし目の前の屋敷には少々圧倒される。

 広大な敷地。整えられた庭に咲く花。白壁の立派な屋敷は、これまで住んでいた屋敷よりも遥かに荘厳であった。


(…こんな立派な屋敷に住まわれている公爵子息様なら、本当に…わたしは不興でしかない)


 相手を決めたのはオリバンズ国とはいえ、本当なら王家に近い公爵家の敷居を跨げる身ではない。しかも不興を買うと分かっていてここにいるのだ。

 ノーティル国がなした事にユフィは内心で息を吐いた。


 屋敷の前にある階段を上り、屋敷の扉が使用人らしい者に開けられると、その先には執事を始め使用人たちが揃っていた。


「ようこそおいでくださいました」


 声を揃え、礼を揃える使用人には少々気圧される。握り合わせた両の手に力が入った。

 使用人はほとんどが獣人だ。猫や兎、羊など様々いるが、その種類は精々五種ほどに見受けられた。それに中には人間もいる。


(人間も多い…)


 てっきり全員が獣人なのだろうと思っていたが、ここにいる使用人は決して多くなく、人間は五人ほどいる。


 視線だけを動かしていたユフィは、いきなり左側から入って来た影に反射的に防御姿勢をとった。びくりと肩を跳ねさせ無意識に顔の左側を守るように手を上げる反応に、その影も足を止める。

 強張ったその体勢のまま右目だけで影を見上げる。しかして長身なのか、視線を上げるだけでは顔を見るのがしんどい。


「左は…見えていないのか? それならすまない。だが、それで俺が見えるのか?」


 声が降って来て、ユフィは少しだけ顔を上げた。視線を最大限上げ、顔を最小限上げ、その人物を見る。


「坊ちゃま。御令嬢が驚かれておられますよ」


「…そうだな」


 牛のような耳を持つ執事らしい男性と声を交わすのは青年だ。年のころは二十代前半、ラフな格好で、長身だから顔を見るのもユフィはとても苦労する。

 なんとか分かるのは、瞳が澄んだ金色で、さらりとした黒い髪をもち、精悍な顔つきをしていること。


 そして、その頭には髪色と同じ色の獣の耳が生え、腰からはふわふわとした尻尾が生えている。


(坊ちゃまと言う事は、この方がオルガ様…? この方も獣人…。そんな公爵家の方がわたしなんかと婚姻させられるなんて…)


 一目相手を見たユフィの視線は定位置へと下がる。

 そんなユフィの前では青年がユフィに向き直るが、ユフィからは足元しか見えず、青年からは俯いた頭しか見えない。

 目の前の下げられた頭……というよりもずっと身を小さくさせ俯いているユフィに、青年は怪訝と眉を寄せた。ちらりとユフィを護衛してきた騎士たちを一瞥するが、彼らも困った表情を返して来るだけ。


(国の決まりで嫁がされた令嬢。さてどうするか…)


 青年――オルガ・ウルフェンハード公爵子息にとっても、これは戸惑う話であった。


 停戦の為令嬢を望んだのはオリバンズ国側だ。そこには当然思惑がある。

 それはオルガも理解しているし反対する気はない。


 その令嬢が、自分の妻になる…と言われた時には流石に驚いたが。

 しかしこれも、令嬢への待遇と、獣人故の理由あっての事であり、オルガとて納得して受けた事だ。なので不満はない。


(…どちらにしろ、まともな令嬢が来るとは思っていない。まずはどういう令嬢か分からなければ陛下に報告もできないな)


 停戦交渉と両国の考えが頭の中を巡るが、ひとまずそれは片隅に置き、目の前の令嬢を見る。

 相も変わらず俯いている小さな令嬢。


「御令嬢。俺がオルガ・ウルフェンハードだ」


「…ユフィ・ヒーシュタインと申します。この度は、ノーティル国とオリバンズ国の停戦の為まかりこしました。ご迷惑とならぬよう努めさせていただきます」


 俯いたまま深々と頭を下げるユフィをオルガはじっと見つめた。

 淡々とした声音は、この婚姻に何を思っているのかも読み取りづらい。ただの義務感なのか、怒りなのか。


 耳を立てても分からない。そんなユフィにオルガも調子を変えず続けた。


「ユフィ嬢。まずは部屋で一息ついてくれ。話は後でしよう」


「…はい。お気遣いに感謝いたします」


 ぺこりと頭を下げる令嬢に、オルガは人間のメイドを呼び部屋まで送るよう指示を出す。案内に出て来てくれたメイドを見て「お願いします」と頭を下げたユフィは、そのまま続けてウルフェンハード公爵邸まで送ってくれた騎士たちに振り向いた。


「皆様。ここまで護衛くださり、ありがとうございました」


 謝意を伝える言葉と下げられた頭に、獣人騎士たちも驚き、オルガもユフィを見つめた。頭を上げたユフィはそのままメイドに案内され屋敷内へ足を踏み入れる。

 それを見送り、他の使用人たちもそれぞれに動くのを見やり、オルガはユフィを護衛してきた騎士一同を見た。


「報告をくれ」


 やれやれと頭を掻き、尻尾をひと振りしたオルガに、騎士たちは国境での一連から全てをオルガに報告した。


 王都にあるウルフェンハード公爵邸は現在、オルガが使用人たちと共に暮らしている。両親は領地に、次期当主であるオルガは現在城で騎士として仕事に励んでいる。


 そんな屋敷にやって来た、国の決定による花嫁。それも敵国の人間。当然使用人たちは顔に出さずとも、戸惑いを持っていた。

 そんな使用人の視線には、俯いていても他者の視線に敏感なユフィもすぐに気付いていた。が、だからといって何が出来るでもないのも分かっているので、これまでと変わらず大人しく過ごす。

 手荷物がない事に怪訝な目を向けられれば「申し訳ありません。荷物はありません」と。広大な部屋には「勿体ないお部屋をありがとうございます」と。謝罪にも感謝にも頭を下げるのは、ユフィには染みついた行為だった。


 そんな中で初日の夕食。呼ばれ向かうとそこにはオルガの姿があり、ユフィは示されるままオルガの斜め前に腰を下ろした。


 が、特に両者に会話はない。控える使用人も少々の居心地の悪さを感じる中で二人の食事は進んだ。

 そして食事が終わってやっと、オルガがユフィを見る。


「ユフィ嬢。ノーティル国からは侯爵家の令嬢が来ると聞いている。それに偽りはないか?」


「…はい」


「…貴女にとって、この婚姻は気の進まないものだろう。不自由があれば言ってくれ。可能な限りはこちらも対応させてもらう」


「お気遣いありがとうございます。ですが…お気持ちだけで十分です」


 給仕が二人の食器を片付ける。それを見て一度「ありがとうございます」と小さく礼を言うユフィを、オルガは見つめた。

 目の前に茶が用意され、まるで会議でもするかのように空気が少し緊張する。


 ひとつ息を吐くオルガにユフィは前髪の下で瞼を震わせた。膝の上で握る手が少し震える。


「では、この国の決定。どう思った?」


「……私などがどうと申せる事ではないと」


 何を聞いているのだろう。そう思いユフィは俯きの下からオルガを探る。

 しかし、オルガから真意を読むのは難しいとすぐに解った。こちらを見る目には同じように探る目が見えたから。


「最後の質問だ。その包帯はどうした。国境を超える時から巻いているそうだが、怪我でもしたか?」


 耳を抜ける質問は、スッと心臓を鎮めた。

 周りの音が消え、感情が出て来なくなる。


『汚い。汚らわしい。そんなものを見せるんじゃないわよ』


『まぁ見て。あれ。あんな容姿だなんてお可哀想』


 嫌悪も。侮蔑も。憐れみと見せた嘲笑も。駆け巡って消えていく。

 だから、口から出た言葉に感情は乗らなかった。


「――…いえ。ただの傷痕です」






 それからユフィの公爵邸での日々が始まった。

 公爵邸の使用人は執事もメイドもそのほとんどが獣人だ。その中で人間の使用人が片手の数ほどおり、そのメイドがユフィの身の回りの事を行うことになった。


 翌朝、ユフィの部屋にやって来たメイドはその手にドレスを持っていた。淡い色が多くどれも質が良いのが見て取れた。

 突然のメイドとドレスに、それを見たユフィが首を傾げると顔にかかる白い髪がこぼれた。


「奥様のお荷物がないとのことでしたので、いくつかご用意いたしました」


「あっ…。お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」


「とんでもございません」


 立ち上がり、頭を下げるユフィに驚くメイドもいる中、最も年長のメイドは優しい声音でさらりと受け答えた。

 そしてすぐユフィの元へやって来ると、それぞれが持つドレスを示す。


「さぁ。どれに致しますか?」


「え、えっと……」


 淡いピンク色。黄色。オレンジ…。明るい色もあれば水色や若い木の葉の色もある。どれも質が良く派手なことはなく品が良い。

 ベッドの上に並べられたそれらのドレスを、ユフィは俯きながら見回した。


(どれ…。どれがいいんだろう…)


 視線ばかりが動いて肝心の言葉が出て来ない。選べと言われても選べない。

 ユフィの様子を見ているメイドたちも首を傾げ、室内が妙な緊張と戸惑いに満ちる。それを感じてさらにユフィは何かを言わなければと焦るが、ドレスを選ぶという経験がないユフィには、どれがいいのかが分からない。


 その中でメイドが一人、オレンジ色のドレスを手に取った。


「これなんてどうですか? 明るい色はきっと奥様にお似合いです!」


「あっ、はい。では……それにします」


「髪型はどうします? 思いっ切り結い上げてみるとか?」


「! いえっ! 髪は…このままでいいです」


 結わないというように、ユフィは反射的に顔の左を手で隠すように覆った。それを見た一同は顔を見合わせかける言葉に迷う。

 顔を髪で隠すようにして、しかも包帯を巻いている。触れない方がいいのだろうと思い誰もが口を閉ざす中、年長のメイドは心得たように頷いた。


「分かりました。ではドレスはこちらで、髪は綺麗に梳きましょう」


「…ありがとうございます」


「いいえ。奥様。どうか使用人に対する言葉をお使い下さい」


「あ、はい…。ありがとうございま…ありがとう」


 なんとか言い直しつつもそれでもぺこりと頭を下げるユフィに、メイド一同眼差しを和らげた。


 朝食の席にはオルガも同席した。室内に入ったユフィを見て、その耳がピンッと立つ。

 昨日は身に合わないドレスを着ていたが、急ぎ用意させたドレスはそれよりは合っているように見えた。


「おはよう」


「おはようございます。…の、ドレスをご用意くださり、ありがとうございます」


「構わない。あんな身に合わない物は不格好だからな。欲しければ度を越さない程度では好きにしてくれ」


「いえ。…頂いた物で、充分です」


「そうか…」


 言うと、ユフィは給仕された食事にたどたどしく手をつけ始めた。そんな様子をオルガは見やる。


(食事マナーに慣れていない所作。たった数着のドレスで十分。相変わらず俯いたまま。…しかも、かなり少食だな)


 自分の食事をしながらユフィの様子を探る。逆に自分が見られているというのもオルガは感じていた。

 俯くユフィとはカチリと視線が合わない。なんとなく読めるのはどこを見ているかということ。


 オルガは、ユフィの視線が自分の手元にあることに早々に気付いた。

 まるで、マナーを見て知ろうとしているようで、オルガは一度ユフィを見て、しかし何も言わず食事を続けた。


 食事においてオルガが気になった事がもう一つあった。それがユフィの食事量である。

 獣人と人間では食事の味も違うのか。そう思うが特に使用人からそんな言葉は聞かないので他の可能性を探す。好みがあるとしても、料理長はそれを把握するため色々と料理を出している。手を付ける頻度や表情でそれは察する事ができるが、ユフィはスープや野菜類を少し食べるだけ。


「肉も食べればいい。君はかなり細身だ。しっかり食べた方がいい」


「…はい。お気遣いありがとうございます」


 と、言ったものの、ユフィが口に運ぶのは小さく切った小さな肉のひとかけら。そんな様にオルガは何も言わない事に決めた。代わりに別の事を口にする。


「三日後に国王陛下との謁見がある」


「…はい」


「すまないが、その日までは外に出ないでくれ。まだ謁見していない内に何かあると良くない。この三日は俺も休みだ。何かあれば言ってくれ」


「はい。ありがとうございます」


 一切の不満も怒りも見せず言われた言葉に頷く姿に、オルガはユフィを見た。ユフィはその視線に気づかず小さな一口で食事を続ける。

 なんとなくそれを見やり、オルガも食事を続けた。


 外に出るなと言われたユフィだが、元より行動力に溢れているわけではないので、大人しく過ごす事にした。屋敷内をじろじろ見て回るつもりはないが、ノーティル国に居た頃は使用人と同じように動いていたので、全てをしてくれる人がいるというのは少し落ち着かないのが正直なところだった。

 なので、三日後に備え何をすべきかを考えたユフィは、昼食の席でオルガに一つだけ問うた。


「国王陛下への謁見において、オリバンズ国独特のマナーなどはあるのでしょうか?」


 お聞きしたいのですが…と前置きされ出てきた言葉に、オルガは一瞬言葉が遅れた。意表を突かれた証拠に尻尾が少し強張る。

 身に付いているマナーで対処するだろうと思っていればまさかの発言。まるで、オリバンズ国の事を考えるような発言に、嫌々嫁いできたと思えなくなり、オルガは「…そうだな」と間を空け答えた。


「ノーティル国のマナーは知らないが……気になるなら、予習するか?」


「…よろしいのですか?」


「あぁ。君はこちらの事を慮ってくれるなら応えなければな。午後は時間もある。俺が付き合おう」


「! そんなお手を煩わせるような事っ…」


「構わない。まさか執事やメイドを相手に練習するつもりだったか?」


 それでは指導する側もやりづらいだろう、家庭教師でもないのに。と少し笑みを含ませるオルガに、ユフィは羞恥と申し訳なさで一層俯いた。


 そうして二人のマナー練習が始まった。ユフィに指導しつつオルガは思考を巡らせる。

 朝食の後、ユフィにつけたメイドを呼び出し気づいた事を報告させた。


『ドレスを選ぶという事にどこか困惑していらっしゃるようでした。それに、髪を結うのは好まれない…というより、あの包帯…お顔の左側を晒したくないようにお見受けしました』


『とても物腰低く…というより、低すぎます。とても貴族の御令嬢として育った方とは思えません。…それとも、あれがノーティル国の一般的な貴族の御令嬢なのでしょうか?』


 いつも俯いているユフィの顔をはっきり見ていない。自信がないのか、包帯の所為か。

 だとしても、貴族令嬢とは空気が違う。


(そもそも、こちらが王族か高位貴族の令嬢を望んだのは、魔法を知りたいからだ)


 ノーティル国は魔法を使える人間がいる。獣人の国と長く戦争状態が続くのはその為だ。本来なら獣人は人間に劣りはしない。

 しかし、魔法があるから厄介で、戦いは長引く。


 過去にも魔法を使える人間を望んだ事はある。しかし交渉が決裂したり、来た人間が嫌々で何も喋らなかったり魔法の使用を拒んだりと、上手くいったことは少ない。

 それら過去の経験を踏まえ、オリバンズ国国王は考え、今回の条件を提示した。


(しかし、どうやらただの御令嬢ではないな…)


 指導をしつつもその拙いマナーを見過ごさず、オルガはそれを問う事もなくただ指導を続けた。


 二日目。

 マナー指導の合間には休憩を与え、ユフィが好きに過ごす時間を与える。本日も休日…という名目でユフィの様子見を命じられているオルガは、ユフィの様子を観察していた。


「先程、メイドと庭にお出になられました」


 そう言う執事の言葉を受け、オルガは庭へ向かう。

 公爵邸の庭は広い。王都の一等地にある屋敷は、時に王都である事を忘れる程、緑も豊かで穏やかだ。


 澄み渡った青空。その下で庭師が育てる花を愛でるユフィがいる。傍にはメイドがおり、時折些細な会話をしているようだ。庭には庭を整える庭師がいる。その庭師は羊の獣人であったが、ユフィはその獣人とも話をしているようだった。

 そんな姿をオルガはじっと見つめた。


(獣人にも、特に偏見はないように見える。…少し、獣人のメイドをつけてみるか)


 三日目。マナー指導の合間、オルガはユフィを「興味があるなら」と屋敷の書庫へ誘った。

 公爵邸の書庫は重要な書物や専門的な書物、伝記や旅行記、様々な書物が置かれていた。二階部分もありいくつもの棚があるその書庫に、ユフィは圧倒されながら書庫を見回す。


「興味がある物があれば何でも手に取ってみるといい」


「あ、ありがとうございます…」


 メイドを下がらせ二人。オルガは自然と歩き出すユフィの後ろを追って歩いた。

 ユフィは前を見ず書棚ばかり見て歩く。どれを手に取ろうか迷っているような様子だが、どこか心弾んでいるような見たことがない様子にオルガも少しだけ微笑ましく見つめ、リラックスしているようにその尻尾がゆらりと動いていた。


 二人の足音が絨毯に消える。静かな書庫の中をユフィは歩いて進むと書棚の前で足を止め、細い手を伸ばした。


「これか?」


「あ、ありがとうございます」


 ユフィの手の先にある本を長身のオルガが取る。渡されたそれをユフィはそっと手に取って開いてみた。

 が、すぐに動きが止まる。


 読むなら座ろうかと促そうとしたオルガは、そんな様子を怪訝と見つめた。

 適当に開いた頁だろう。しかしその右目は文字を追っているように見えない。書物の字は一般的なこの国の字である。


「…読めないのか?」


「……申し訳ありません」


「謝る事ではないだろう。…ノーティル国とは字が違ったな」


 両国は隣国同士で話す言語は同じだが、文字が出来たのはオリバンズ国の方が後なので、国同士は文字が違う。

 国の中央には両国の文字が読める者もいるが、ユフィはオリバンズ国の字が読めない。


 そうだった…と思い直すオルガは、ユフィが手にした書物の題名を思い出し自然と口に乗せた。


「それはオリバンズ国の建国神話についての本だ」


「建国神話…?」


「あぁ。かつて、人と獣が争っていた頃、ある人間種の青年が龍より加護を賜り、四種聖獣を従え、両者の争いを鎮めたそうだ。そして人間はノーティル国、獣はオリバンズ国を建国した。龍の加護を得ていた青年は人間の中へ戻らずオリバンズ国で獣たちと共に暮らした。それがオリバンズ国の初代王だと言われている」


 幼い頃に飽きる程読んだ本は諳んじることすらできる。オルガの話にユフィは俯き加減ながらもオルガへ視線を向けていた。

 そして、そっとその本を撫でる。


「…初代王は、なぜ人間の国に戻らなかったのでしょう」


「龍の加護を受けている事は人間から見れば異質だったのかもしれないし、従えている聖獣たちがいたからかもしれない」


 ユフィの瞼が震えた。また少し俯いてしまう姿に、オルガは静かに視線を向ける。


 今の獣人が人に近い姿をしているのは、その青年の近くに居たかった獣たちの想いだとも言われている。それならば獣たちの方が青年を選んだのだと考えることもできるが、中には、人間が多くなった大陸の中で生き延びる為だとも言われている。

 だから、獣人と人間が共存するこのオリバンズ国は在る。


 建国から幾年経っても、人間種との争いは変わらない。それ故にユフィはここにいる。

 オルガが少し窺うようにユフィを見ると、俯き加減でもユフィの視線がオルガに向けられた。


「教えて下さり、ありがとうございます」


「いや。……今度こちらの文字を教えよう。それなら書庫の本も気軽に読める」


「……ありがとうございます」


 少しだけ悲しそうな、諦めに似た声音に、本を戻そうとするユフィの手から本を受け取り、戻したオルガは視線を向けた。

 しかしもう、ユフィの視線は自分に向いてはいなかった。


 どころか、もうこの話は終わりだとでも言うように、ユフィは離れるように歩き出す。それを見てオルガもまた歩みを進めた。


「……この書庫の本は、どれほど読まれたのですか?」


「ある程度は。色々と知識は入れておかなければいけないと思って」


 半分は本当で、半分は嘘だった。

 オルガは公爵家の生まれとして、幼い頃から厳しい教育を受けた。両親ともに教育熱心という程ではなかったし出来なくても責める事はなかったが、家庭教師は「四種聖獣の一体である獣種の血を引く公爵家の御子息なのですから」と厳しかった。

 本は沢山読んだ。勉強を嫌だと思った事はないが、少し窮屈だとは感じた。本も好きで読んだわけではない。


 剣も同じだ。今は騎士として仕事をしているが、それも、受け継いだ血と公爵子息としての立場から幼い頃に始めたものだ。

 身を守れるようにと学んだ剣は自分に合っていたらしい。それとも獣種の戦闘本能がそうさせたのかもしれない。


 生まれた時から恵まれていた事を、オルガは解っている。

 だからこそ、周りとは上手くいかなかった。一時期は周りの目が嫌になって荒れていた事もあった。近づく者を睨みつけ、毛を逆立てて居た。


(贅沢な話だな…)


 内心で自嘲の笑みをこぼし、ユフィの後ろを追う。


「この量を…。…凄いです」


「そうでもない。ただ何となく読んだだけだ」


「……己を磨くということは、意思がなければできないと思うので。……己を磨くこともしない方や…諦めるだけの人などより…ずっと…比べる事も失礼なくらい……凄いです」


 一度だけ振り返ると少しだけ上げた視線をオルガに向け、少し寂しそうな目を見せた。

 その目を見てオルガの足が止まる。ユフィはすぐ歩き出すのに、オルガは後を追うのが少し遅れた。


(…今のは、褒められたのか? たったそれだけの事を?)


 大した事ではないのに。とても誇らしいものであるかのような錯覚をさせる。

 ありえないと頭を振り、オルガは視線を前に向けた。


 小さな背中がそこにある。今にも消えてしまいそうな、噛みつけば簡単に命を奪えてしまうような、小さな儚い背が。

 なのに、今の言葉といい温かみを感じるのはどうしてか。


 ――…自分とは違うと、告げているように見えるのは何故なのか。






 そして翌日。王に謁見する日が訪れた。

 その日は朝からオルガは城へ仕事に出向き、ユフィは一人馬車で向かう事になった。


 その日ユフィはドレスを着せられながらもそのドレスを見た。

 見覚えのないドレスだ。上等な生地なのだろうというのは着心地から分かる。


「あの…このドレスは…」


「はい。坊ちゃまが奥様の為にと」


「…そうですか」


 細い自分の身を包むドレス。着た事などない質のものは、確かに王に謁見するに不足ないものだろう。


(そうよね…。みじめな服の女を王の御前に連れて行くなんてできない)


 ここまでしてくれなくてもいいのに。王に謁見して何が起こるか分かっているからこそ、この心遣いが申し訳ない。

 例えそれが、オルガ自身の為だとしても。


 身支度を終えればすぐに執事が呼びに来る。それを受け屋敷を出る。

 ユフィは扉を出る前に、見送りに出てきた使用人一同に、深々と頭を下げた。


 まるで、別れの挨拶のように。


 それを受けた使用人一同、驚きの眼差しを向けたが、もうユフィが振り返る事はなかった。






 王城。謁見の間には国政に関わる者達や貴族が集まっていた。

 誰もがその目を険しくさせている。肌を刺すような空気をまとう全員が、今かいまかと扉を睨んでいる。


 国の決定として『令嬢を迎える』ことが決まり、婚姻としてその相手も決まった。しかしそれには当然反発もあった。

 だが、利があると説き伏せられたからこそ、この決定に従った。しかしいくら納得したとしても不信はある。

 誰もがそれぞれにその疑惑を抱き、待つ。


 そして、謁見の間に王が来る。

 ノーティル国では、オリバンズ国国王はおぞましい獣の姿をしていると言われているが、実際は違う。


 オリバンズ国国王は、人間種である。

 獣人がほとんどを占めている国なので王妃はほとんど獣人だ。なので純血の人間種であるとは言い切れないが、獣人特有の耳も尻尾もない。通常、人間種と獣人とが交われば獣人の子が生まれる確率が高いが、王家だけは例外である。


 獣人が生まれない代わりに、王家は龍の加護を得ている。

 それが、オリバンズ国国王なのである。初代王と同じように人ならぬものに選ばれ、人ならぬ者との国がよりよい未来へ進むよう尽力する。

 そんな王を、国中の多くの者が支持している。


 王妃や王子が続き、王が玉座に座ってすぐ、謁見の間の扉が開かれた。

 一歩一歩歩み出て来る小さな令嬢。ユフィはその俯き姿勢を崩す事無く、許される距離まで歩くとそっと膝を折った。

 その姿を見て貴族たちも顔を見合わせる。王の最初の言葉なく声を発する事はできないが、困惑と怒りの混ざった空気はすでに謁見の間に広がっていた。


 その空気を感じつつも十分な間を開け、王が口を開く。


「よく来てくれた。ユフィ・ヒーシュタイン嬢。いや…ユフィ・ウルフェンハード夫人と言うべきか。遠路の旅路の疲れは癒えたか?」


「…お心遣い痛み入ります。到着から三日というお時間をいただき、すっかり」


「それは良かった」


 オリバンズ王はユフィを見た。頭は下げられその顔を見る事は叶わない。

 同時に、ユフィからもまた王の顔は見えていない。だから気づかない。王のすぐ側に夫がいる事も。


 ユフィ同様に貴族や周囲の視線を受けつつも、黙した夫であるオルガをちらりと一瞥し、王はユフィを見た。

 報告は全てオルガに聞いてある。名も立場も。屋敷での様子も。


「この国は其方にはどう見えた? 蛮族の国、であるか?」


 人の悪い笑みを浮かべ出した問いに、貴族たちも王を見る。それでも王はユフィを見ていた。自分を見ないユフィを。


 嘘を並べるか。本心を語るか。王の隣では息子である王子が笑いそうになっている。

 肘置きに頬杖をつく王は興味深そうなままで、周囲はそんな王に少し騒めく。ノーティル国とオリバンズ国は不仲だ。だからこそユフィを刺すように見る視線も多い。


 そんな中を大した事ないように、ユフィは静かにスッと口を開いた。


「…蛮族とは、どういった基準で決まるのでしょうか」


「…というと?」


「人間種と獣人種の違いは目で見て分かります。ですが、蛮族とは相手を称するものであり、種の違いではありません。ノーティル国から見て獣人が蛮族であるならば、逆も然りかと」


 謁見の間から音が消え、貴族たちも開いた口が閉じられない。

 笑いそうになっていた王子も何度も瞬きユフィを見る。と、一足先に吹き出した王と揃って笑い出した。その笑い声は大きく響き、貴族たちも二人を見た。二人がこうも笑うのは滅多と見ない光景だ。


 しかし、彼らの驚きはまた当然の事であった。

 ユフィは自国が蛮族だと称する国で、自国を蛮族の国だと言ったのだ。「いえいえ、ノーティル国も蛮族国家ですよ」と。


「そうかそうか! しかして何故そう言うのか」


 笑いの止まらない王の問いに、ユフィは少し間を空けた。そして心に思い浮かべるようにゆっくりと紡ぎ出した。


「…国境から王都へ向かう間、騎士たちは護衛という仕事と同時にとても気遣ってくれました。道中世話になりました領主方も、身に余るもてなしをしてくれ…。ウルフェンハード公爵邸でも…敵国の人間に、オリバンス国の事、口に合う料理、わたしが休めるようにと、勿体ない程に心を砕いてくれます。これが蛮族の行いとわたしは感じません」


「それは其方も受けてきた待遇であろう」


「本当に蛮族であるなら、敵国の小娘の事を考えますか? 国の決定だとしても、他者を思いやる事ができるからこそではないでしょうか」


 俯いたまま紡がれる言葉に、王はうっすらと口角を上げた。


「では其方は、獣人種をどう見る」


「人間種より優れた身体能力を持ち、多種が暮らす中で他種を思う心を持っていると。……獣人種と接して日の浅いわたしには、まだ分からぬ事もありますが、出会えた事は世界を広げてもらえたような心地です」


 王とユフィ以外から一切音が出ない。それほどに唖然と獣人たちはユフィを見ていた。


 おかしな小娘。そう称するに相応しい。

 自国を蔑み、敵国の者を褒める。怒りや苛立ちを露にするか、自分たちを侮蔑の眼差しで睨んでくるだろうと思っていた。

 それともこれも全て、取り入ろうとでもいう思惑があるのだろうか…。予想外の事に貴族たちが視線を向けあう。


 そんな空気を感じつつ、王は後方へちらりと視線を向けた。

 目の前の小さな令嬢の夫は驚いてはいなかった。ただ、悲痛を感じさせるような目で小さな人間を見ていた。


 その目を見て王はユフィへ視線を戻す。


「何故、故国を貶す事を言う。こちらで少しでもうまく立ち回ろうという魂胆か?」


 王の言葉に、ユフィは俯いた顔の下で視線を下げた。

 目に映るのは謁見の間の床、絨毯だけ。


(そうか。そういう風にもとれるんだ。…そんなの必要ない事なのに)


 口端が下がるのが自分でも分かる。周囲の貴族たちの疑惑の視線を感じる。


 けれど心は落ち着いていた。

 この場を切り抜けようとも、言い訳をしようとも思わない。寧ろ事実しかこの場では言っていないのだから。事実と異なる事を言えばそれは王への虚偽であり、どうせ後々に罰せられる。


 どうせ分かり切っている事だ。この謁見を終えた後、自分がどうなるかも。

 だからせめて、この国に、ウルフェンハード公爵邸の使用人たちに、今以上に迷惑をかけないようにと思って一人で過ごしてきた。それが自分にできるせめての事だった。


(オルガ様には、もうこれ以上、ご迷惑をおかけしないように…)


 国の決まりで自分を娶っただけなのだから。何の情もない敵国の女を。

 だから今後、何も嫌な事を言われないように。今後、自分と婚姻していたという事が、彼の不利益にならないように――…


 そう思えば、ユフィは自然と言葉を紡ぐことができた。


「それは、わたしなどを寄越す不誠実な国であるからです」


「それは?」


「……それは…」


 刹那、返す言葉が遅れた。

 オリバンズ国がなぜ『王族か高位貴族の令嬢』を望んだのか。そんな理由はユフィにも分かっていた。

 けれどユフィは、それには応えられない。


『魔法が使えない上に顔に傷があるなんて。本当に駄目な娘』


『お前などいらん。魔法も使えず家の役にも立たないんだ。貰ってくれるというのだから良いだろう』


『本当何の取り柄もないわよね。水やりすら出来ないんだもの』


 義母も。父も。義妹も。皆そう。

 確かに自分はそういう人間だから。そんな事自分がよく解っているから。だからもうここで全てを話して。国の行いを謝罪し。自分を断罪してもらう。

 それがユフィの胸中にある事だった。


「……それは…」


「大変です!」


 意を決したユフィが口を開いた時、謁見の間の扉がバンッと大きく開かれた。そこから慌てたように入って来るのは虎の獣人だ。

 その慌てように貴族たちも「何事だ」と声を大に返す。


「城の東側で火事です! 東棟一階から出火!」


「すぐ消火隊を向かわせろ。それから避難誘導を!」


 騎士らしい獣人がすぐに指示を飛ばせば、謁見の間も騒がしくなる。


 謁見の間は城の中心にあり、幸い火事の現場からは遠い。しかし風の向きによってはどうなるか分からない。

 万が一に備え、すぐに騎士たちが貴族と王族の避難誘導を始める。


 一気に騒がしくなった周囲の中、ユフィは噴き出た汗と一気に鳴り響き始めた心臓に意識が向いていた。


 火事。避難誘導。逃げなければ。すぐに。

 思っても思っても身体が動かない。一気に冷え切って、目の前が真っ暗になる。


(な、んで…。違う。だって…)


 顔の左側が、痛みを持つかのような気がした。

 周りでは貴族たちが誘導に従い避難を始めているのに。自分も行かねばならないのに。


「御令嬢も早く!」


 呼ばれるのに、身体が動かない。心が体に追いつかない。

 王の前でも。貴族の前でも。滑らかに口は動いたのに、今は身体が動かない事に、ユフィ自身が困惑していた。


 その体がグッと立ち上げられた。突然の事にユフィは少しだけ視線を上げた。


 腰元に生えているふわふわの尻尾は見慣れた黒い色。上げて見える黒い髪と耳。この数日見ていた獣人。

 そんなオルガが、きっちりとした隊服に身を包んでいた。


「避難を」


「…は…い…」


 掴んだ腕の細さに。その顔色の悪さに。震える声に。オルガは驚いた。

 こんな、今にも消えてしまいそうな娘が、先程まで対等に王と問答をしていた娘か、と。


 半ば引き摺るようにオルガはユフィを外へ連れ出した。

 幸いにも風はなく、消火が進めば大事なく収束する。騎士の続けての報告に皆が安堵した。


 避難した場には城勤めの者が多くいる。騎士たちが忙しなく動く中、火事現場から少し離れた避難先で悲鳴が上がった。


「お、落ち着けっ…!」


「あの中にっ、あの中に娘がいるの! 行かせて!」


 一人の兎の獣人を、騎士が押さえている。

 どうやら火事の現場には獣人が残されているらしい。その言葉に王はすぐに救出を指示するが、救出する騎士も命懸けとなる。


「私が行きましょう」


「オルガ隊長!」


 言うや否や、オルガは地面を蹴った。

 獣種故の俊足がすぐさま現場に着き、躊躇なく火事の中へ飛び込む。


 出火現場からはボウボウと火が音をたてて燃えている。勢いは少しずつ衰えているが、鎮火させるにはまだ少々時間がかかりそうだ。

 冷静に消火作業に当たっていた騎士たちだったが、オルガが飛び込んだ事で僅か焦燥を滲ませた。それは貴族たちも同じ様子で「あのオルガ殿が…」と動揺を見せている。


 その中、騎士は立ちすくむユフィを見るとその肩を揺さぶった。


「あんたノーティル国の御令嬢なんだよな! ってことは魔法が使えるんだろ!? 火を消してくれよ!」


「……え」


 火の勢いに劣らない気迫と言葉に、ユフィは呆然と騎士を見た。

 目の前の騎士は必死な様子だ。俯き加減の視線からその騎士が猫の獣人だということが分かる。


 そんな猫騎士の言葉に、周囲の視線もユフィへ向いた。

 王と王子はそんな全員を傍観するように見つめ、再び火事の方へ視線を向ける。


「そうだ! 魔法ならこの火も消せるんだろう!」


「早くしろ! 何の為にノーティル国の令嬢を迎え入れたと思ってる!」


「早く!」


 貴族たちも同じように声を上げる。その怒声に近い声がユフィを刺す。

 そんな声に、ユフィの体が震え、小さな拳が汗で滲んだ。


 急かす。求める。この国の為にと。民の命が危険だからと。

 ノーティル国の高位貴族の令嬢なら魔法が使える。周りの言葉が至極当然に飛んでくるもの。


(分かってる。解ってる。出来るならそうしたい。だけどわたしは――…)


『魔法も使えない役立たずだものね』


 王族や高位貴族の人間ならば使える力、それが魔法。火を操り、水を操り、風さえ意のままに操る。

 貴族の多くには魔力があるという。体内の魔力量に応じて使える強さは異なるが、強い魔力を有して生まれる事が多いのが、王族や高位貴族。


 それを、ユフィは発現させていない。


『これだから、卑しい女の子供は嫌いだわ』


 半分は、ただの平民の血だから。

 だから、ユフィは魔法を使えない。


 だから、ノーティル国はユフィをオリバンズ国に贈った。オリバンズ国は魔法が欲しいのだろうと読んでいたから。

 だからユフィは、王にそれを告げ、死を賜る覚悟だった。


「頼むよ! 隊長を助けてくれ!」


「お願いします! 娘を助けて!」


 なのに今、自分には出来ない事を、出来ると信じている人たちが求める。

 そんな状況に。こうなるより先に告白しようと思っていたユフィは、言葉が出て来ない。


 火の熱が届くのか。それとも体が熱いのか。喉の奥が乾燥して声が発せられない。


 今も懸命の消火作業を続けている騎士たちがいる。徐々にだが火の勢いは失われつつある。しかし、内部の火はまだ分からない。そしてオルガもまだ戻らない。


(火は、なかなか消えない。わたしだって知ってる。…火の中は恐い。逃げられない)


 今、炎は獣人を呑み込んでいる。

 人間種より遥かに優れた身体能力を持っているとしても、それでも無事でいられるだろうか。それはユフィには判らない。


(魔法が使えれば、すぐに火を消すことができる。なのにっ――…)


 使えない。魔力が流れていないから。

 助けたいのに。――助けられない。


 熱がユフィの肌を焦がす。その感覚には覚えがある。

 思わず、自分の体を抱き締めるように腕を掴んだ。


『動いちゃ駄目よ。絶対に――…』


 そう告げた、三日月の口。

 だからじっとしていた。しばらくそうしていたらバチバチと音がして。少し気になって外を覗いた。


 そしたら室内は真っ赤で。目の前に誰かが――…


「……っ!」


 記憶がフラッシュバックして、俯く頭を抱えた。


 顔の左側が疼く。痛い痛いと叫ぶ。

 同時に浮かぶ。炎に包まれた屋敷。逃げたいのに動かない体。肌を刺す熱と喉が焼ける感覚。


 痛くて、熱くて、怖くて。逃げたくて逃げたくて。

 でも、炎は容赦なく襲って来た。


「なぁおい! 早く! オルガ隊長を助けてくれ!」


「お願いします!」


 縋られても動かない。そんなユフィに視線を向けず、王は抑揚なく告げた。


「ユフィ・ウルフェンハード夫人。其方の力がなくともオルガは無事戻ろう。逃げ遅れた者を救出してな。焼け死ぬような状況でもオルガは救出は成功させよう」


 火の爆ぜる音と一緒に、その王の言葉はユフィの耳に嫌にはっきり刻まれた。周囲で助けを求める者の声も、一切が消えてしまう程に。


(…焼け死ぬ…? オルガ様が…。わたしが、魔法を使えないせいで…?)


 一瞬、ユフィは周囲の音が全て消えたように感じた。

 怒声も懇願も聞こえない。ただ王の声だけは鮮明に耳に残っている。


(…魔法が、使えたら…。使えないわたしがここに来た所為で…)


 そしたら、万事解決できるのに。オルガを助け、逃げ遅れた娘を助けられるのに。

 ウルフェンハード公爵邸の使用人たちも。娘の家族も。誰も泣かなくて済むのに。


(――…嫌っ。そんなっ…!)


 熱でも乾燥でもなく、喉の奥が熱い。絡まって音が出て来ない。

 嫌だと思う程、身体の奥が熱くなるような感覚がして、ただただ無力さに打ちのめされる。


(魔法がっ、使えたら…! 力になれるのにっ)


 騎士が危険な消火作業に身を投じなくてもいいのに。皆が早く安心できるのに。


 魔法が使えて当然の中、使えないのは自分だけ。だから自分はいらない子。

 それでも、頑張って。だけど上手くいかなかった。


 騙している事に、もう、心が辛くて苦しい――…

 国の決定で婚姻を決められ、相手である自分の事なんて嫌なはずなのに優しくしてくれた獣人。嬉しかった。いつも気遣ってくれる態度も言葉も。マナーを教えてくれたり文字を教えようとしてくれた優しさも。自分を見て、心を砕いてくれた事も。

 誰もがこの包帯を見て嘲笑するか、腫れ物に触れるような接し方をしていたからそれに慣れていた。そんな自分に、そうではない喜びと幸せをくれた。そんな人の力になりたいのに、助けたいのに、力になれない。


(オルガ様……!)


『ごめんね、ユフィ。だけど…いつか貴女が、誰かの為と強く思えたら、その時は――…』


 誰かの声が聞こえた気がした瞬間、ユフィは身の内から吹き上がった奔流に呑み込まれた気がした。


 爆ぜていた炎は突如としてその音を消した。鎮火作業が完了したわけではない。

 その変化を、避難していた貴族も、炎の中を強行突破しようとしていたオルガも、呆然と見つめた。


 恐る恐る建物内を歩くオルガは、出られないと判断していた壁の穴から脱出した。

 そしてすぐ、傍に居た鎮火作業中の騎士に救出した娘を預ける。


「これは…何事だ」


「……い、や。俺にも…」


 あれほど熱かった周囲は冷気が漂っていて、吐く息すら白くなる。

 それを見つめ、まさか…とオルガは貴族たちの方を見て……瞬時に地面を蹴った。


 地面に倒れる寸前、その小柄な体を抱きとめる。


「ユフィ…!」


 ぐったりとしたその姿に一瞬心臓が跳ねた気がして、オルガはすぐに心音を確かめた。

 とくんとくんと小さな音が確かに聞こえる。しかして顔色が悪く、少し身体が冷たい。それを感じ僅か眉間に皺が寄る。


「これはまた…。素晴らしい魔法使いだな」


「陛下…」


「予想以上、と言っておこう。医務室へ連れて行ってやれ」


「はい」


 ユフィを抱き、オルガは火事現場を振り返った。

 そこには、炎だけを呑み込んだ幾つもの氷の柱が生えていた。






 ユフィはノーティル国の侯爵の父と、その父が治める領地の片隅で暮らす母との間に生まれた子供だった。当時はまだ侯爵子息だった父が領地へ視察に来た折、一目で気に入った母を手籠めにしたのだ。

 それによりユフィは生まれた。母と娘は二人だけの貧しい暮らしの中でも満足だった。しかし母にとって、それが良い記憶だったのかユフィには分からない。


 母は文字の読み書き、知識、生きるために必要な事を教えてくれた、優しい母だった。

 けれどユフィは、母に抱き締めてもらった記憶はない。頭を撫でてもらっても、手を繋いでもらっても、抱き締められた事だけはない。

 母は傷ついていたのだと、ユフィが気づいた時には母はもう病で亡くなった後だった。


『ごめんね、ユフィ。だけど…いつか貴女が、誰かの為と強く思えたら、その時は――…』


 火事の時、ユフィはふと母の言葉を思い出し、記憶が鮮明に駆け巡った。

 幼い自分は家の中で遊んでいて魔法を使ったのだ。貯めた水を宙に浮かばせるような些細な魔法を。

 けれど、それを見た母は表情を強張らせた。そして何度も何度も頭を撫でながら同じ言葉を繰り返した。それが思い出した言葉だ。


(そうだ…。昔は魔法が使えて…。だけど母様に撫でてもらう度、だんだん使えなくなって…忘れていった…)


 何故だろうと考えても答えは出て来ない。

 けれど、母の言葉通りであったことに、少しだけホッとしていた。


 当時侯爵であった祖父は、息子のしでかしたことに責任を感じ、侯爵家でユフィを育てることにした。きちんと侯爵家の令嬢だと正式に迎え入れて。

 しかしそんな祖父もすぐに亡くなり、父が跡を継いだ。ユフィが六歳の時だった。


 しかし父はユフィに関心などなく、すでに妻がいた。ユフィにとっては義母にあたるその女性は、夫と別の女との間の子供であるユフィに、それはそれはきつく接していた。

 やがて生まれた義妹も当然のように倣った。

 そしてそれは、ユフィが魔法を使えないと知ると一層あからさまになった。父である侯爵は何も言わないどころか義母たちと同じだった。彼はユフィの母に興味はあっても、その子供に一切の関心がなかった。


 侯爵である父は当然に魔法を使う事ができた。義母も貴族であり魔法が使えた、義妹も。

 片親とはいえ貴族の血が入れば微力でも魔法を使えるのが一般的である中、ユフィは違った。全く魔法が使えなかったのだ。


 卑しい女の娘だから。魔法が使えないから。

 それを理由に待遇には差が生まれた。ご飯は少なくなり、雑用をさせられる。部屋はだんだんと狭くなり服は着古していくばかり。


 そして別邸へ遊びに行った時、事が起こった。

 義妹にかくれんぼにと誘われて遊んでいたのだ。珍しいなと思いながら。そしたら義母に見つかって…。


『動いちゃ駄目よ。絶対に――…』


 とっておきの隠れ場所を教えてあげると、そう言って部屋の衣裳入れ用の箱を教えられ隠された。

 しばらくしたら火が爆ぜる音がして。妙な焦げ臭いにおいが気になって。箱を開けた。


 そこに男が居た。知らない男が。そいつがいきなり剣を振り下ろしてきた。


(――…思い出した。全部。そうだ。だから…)


 あの日から、炎が怖くなった。

 炎は恐いものを連れて来るから。


 視界が真っ赤に染まったと思った時、ユフィの意識がゆっくりと浮上した。

 見慣れない天蓋。柔らかく沈む体。触り心地の良いシーツ。


 どこだろうと考えながら息を吸おうとし、コホッと小さな咳が出た。するとすぐ傍で何かが動く。


「目が覚めたか?」


 聞いたことのある声に、ユフィは視線を向けた。

 窓の外から差し込む月明かりが、その正体を映し出す。


 黒い髪と大きな耳。金色の瞳は暗闇でもよく見える。夜の闇に紛れるようなのに、今は月明かりがその姿を静謐な輝きで包み込んでいる。

 そんなオルガの姿に、ユフィは静かに頷きを返した。


「……わたし…」


「無理に喋らなくていい。火事から三日、眠っていたんだ」


「火事……。…! お怪我は…?」


「何もない。君のおかげだ」


 朧げな記憶が段々とはっきりしたものに変わり始める。

 王との謁見。言葉の応酬と周囲の視線。そこで真実を伝えようとしたのだ。そしたら――…


「…あの…火事は…」


「原因は厨房での不手際だ。だが、君の氷魔法のおかげで解決した」


「……」


 安心させるような声音が横になるユフィに向けられる。ベッドの側の椅子に座ったままユフィを見ていたオルガは、普段は俯いていて見えづらいユフィの表情をじっと見つめる。

 オルガの言葉に返る音はなく、室内には静寂が落ちた。


「…わたしが…魔法…?」


 小さく出た言葉にオルガの耳がピクリと反応した。しかしユフィはそれには気付かず、視界を腕で覆った。

 そんな様子をオルガは見つめる。


(魔法が使えるのは事実だ。だというのに、何故使えないと思っていた…?)


 それこそ最大の疑問だ。だが今のユフィを見る限りその答えを持ってはいない様子だとオルガにも分かる。


 ユフィが魔法で火事を鎮めた後、城の医務室で休ませていたが目を覚まさず、そのままオルガが屋敷へ連れ帰った。途端、メイドたちが焦燥の様子で出迎えてきた。

 訝しむオルガに年長のメイドがこそりと告げた。


『…出発の折、奥様はまるで……別れの礼でもするかのように私たちに深々と礼を…。それが妙に…』


 それを聞き、確信した。

 今、ユフィはまるで信じられない様子で先の出来事を己の中で思い返している。


(やはり、己は魔法を使えないと思っていたのか…。陛下にそれを伝え……死ぬつもりだった)


 そう結論付け、俯いたユフィの表情の下に見た寂しげな目を思い出し、無意識に己の腕を掴む手に力がこもった。

 文字を教えようと言った時に見せたあの目も、その必要はないと思っていたからだ。……諦めていたのだ。


(陛下の当初の考えは当たっていた。だが実際は…)


 ノーティル国に停戦条件を出した時から、国の中央では議論が紛糾した。

 本当に魔法を使える者が来るとは限らない。魔法が使えても間者かもしれないし、暗殺者かもしれない。オリバンズ国の有益に力を貸してくれる保証などない。貴族の中にはそう訴える者もいた。

 それらの言葉は当然のものだった。かつて何度も出した条件が素直に通った事などないのだ。


 貴族の中には『魔法を使える令嬢』と明確な条件を提示すべきだという声もあったが、それは早々に却下された。過去すでに提示時に却下されるという経験済みだった。

 故に、オリバンズ国国王は今回の条件を出した。だが当然、良い事ばかりがあるわけではない。


『使えない者、というのが妥当なところだろう。それでも無下に扱うつもりはないが』


 議会の合間、執務室で王がそう言ったのを、傍に仕えるオルガは聞いた。

 令嬢をオルガが迎える事になったのは、獣人の中には妻を一人しか持たない種族や複数持つ種族とがあるからだ。一人ならば関係が上手くいかなければ後々よくないという考えもあり、現在条件に合うのがオルガだけだった。


 厳密に言うと、オルガはどちらでもいい種族である。

 父に妻は一人。祖父の妻は二人だったそう。オルガが血を引く獣種は、三人以上持たないが二人までなら、という過去がある。


 事前の王の言葉とユフィの様子から、オルガも王の言葉通り魔法が使えない令嬢だと推測していた。それは当たっていた。

 だが、実際は『自分は魔法を使えないと思っていた令嬢』だった。


 それを知った王は笑っていた。火事の後すぐ執務室で王子と共にいる時、面白そうに話したのを思い出す。


『謁見の間では「魔法は使えない」と言うだろうと思っていたが、火事といい魔法といい、良い想定外だ』


『陛下。御言葉ながら火事は喜べません。あんな窮地だったおかげでユフィは倒れました』


『妻を気遣うか。いい事だ』


『謁見でも面白い御令嬢だったけれど。陛下、どう思います? あの御令嬢』


『……ノーティル国は、手痛い失態を犯したやもしれんな。オルガ。ユフィ・ヒーシュタインについて早急に調べよ』


『御意』


 オリバンズ国にとってこれは喜ばしい事だ。それは分かるがオルガは額に手を当てる。


 当初から『魔法が使える王族か高位の貴族令嬢』とすればノーティル国に拒まれる。だからオリバンズ国国王は「拒まれない形を取ろう」と貴族を説得し、その内心では「魔法を望んでいると思わせておこう」として、ぼかしてノーティル国に要求した。

 貴族の中には魔法を望む者も多いが、王が欲したのは魔法でもあり、魔法についての知識でもあった。魔法が使えれば知識もあろう。魔法が使えなくても王族や高位貴族なら知識はあろう。そう考えての要求だった。


 オリバンズ国国王の狙いは成功し、ノーティル国もユフィ自身も「オリバンズ国は魔法を使える令嬢を望んだ」と思っていた。

 ノーティル国はぼかされたその要求を良い事に、条件に合うが魔法は使えないユフィを送り出した。


(恐らくユフィは魔法に関しての知識が少ない。調べさせている途中だが、マナーの拙さや物腰から見ても、貴族令嬢とは思えない育てられ方をしているはずだ。……替え玉はバレれば国家問題となるから派手にはしないだろうと思っていたが、ユフィはどういう環境で育ったのだろうか…)


 その点だけは憶測であるが王にも報告済みだ。「魔法が使えるならば今後の経験から分かることもあろう」と、王は長い目で見るつもりらしい。その見守りは当然オルガの役目である。


 しかしオルガには一点、困惑している事がある。

 国境での争いに関してはオルガとて知っている。彼は何度か実際に戦場に赴いた事がある。

 実際の戦場では、魔法が使えるという貴族は後方の安全な場所に集まっている。そこから魔法を使い、的確にオリバンズ国に打撃を与えてくるのだ。

 高位貴族の集まりであり、貴重な戦力でもあるので守りは厳重だ。守りにも魔法を使っているらしいのでなかなか手が出せないからこそ、オリバンズ国は身体能力が高い獣人が多くても決定打を与えられない。


(だが、疲労は滲ませていても、魔法を使って倒れる者など見なかった。それに氷も、実際に見たのはほんの数度しかない。それもあんな大きな物を瞬時に築くなど…初めて見たな)


 戦場で飛び交う魔法は、水や風、火を起こすもの、木や草に作用するもの、地面を割ったりするもの、そういうものが多かった。


 そこまで考え、オルガはふぅと息を吐いてユフィを見た。


「自分は魔法を使えない、そう思っていたんだろう?」


「っ…」


 ユフィが小さく息を呑んだ。その音をオルガの耳は聞き逃さない。

 それでもオルガは、ユフィが口を開くまでゆっくりと待った。数秒の時間を空け静けさが際立った時になって、やっとユフィが頷いた。


「…はい」


「そうか…。ならもう不安にならなくていい」


「でも…」


「ユフィ」


 尚を言葉を紡ごうとするユフィを、オルガはそっと止めた。

 そっと席を立ちベッドに腰掛け直せば、ベッドが重さを受けて沈む。その感覚にユフィはそっと腕を除けて視線を向けた。


 普段は包帯をさらに髪で隠し俯いているユフィの顔が、横になった今ならはっきりと見える。隠そうとしないユフィの様子がオルガの胸に喜びのような感情を与えた。

 そっと、ユフィの手を、驚かせないようにそっと、手に取る。


「ユフィ。ありがとう。俺を助けてくれて。ありがとう」


「……っ!」


「何度でも言う。君のおかげだ。魔法が使えた君は俺の命を助けてくれた。魔法など関係なく君は俺の心を救ってくれた」


「……?」


「ありがとう。ユフィ」


 何度も何度も礼を告げる声は優しくて、その金色の目はとても柔らかくて。

 そんな声も眼差しも向けられた事がないユフィは、どうしていいのか分からず視線を彷徨わせるしかない。そんなオロオロとした様子にオルガはフッと笑みをこぼした。


(国が望んだのは魔法が使える令嬢のはず…。なのにオルガ様は、魔法なんて関係ないと仰った。…それは、どういう意味…?)


 考える事が多い頭では答えが出そうにない。


 ただ、触れている手が妙に熱い事だけは感じられた。


 魔法が使えない娘。卑しい子。だから自分はここにいる。

 それが知られれば只では済まない。そう思っていたのに、オルガはどこまでも優しい。


(獣人は蛮族だなんて、やっぱり嘘。人間の方が…ずっと…)


 冷たい目。嗤う口許。優劣をつくり相手を見下す。ユフィの傍に居たのはそういう人間だった。

 使用人の中には同情的な者もいたけれど、その多くは、関わりあえば義母たちに何を言われるかと危惧して、あまり関わってはこなかった。


 オルガの手は、今まで触れた誰かの手の中で最も、あたたかい。

 だから、自分には触れていけないものなのだと分かった。自分には過ぎたるものだ。


「…わ、たしは…あなたに…相応しくないのです…」


「何故そう思う」


「…卑しくて…汚いっ…。顔だってっ…見せられるものじゃないからっ…!」


 右目からあふれ出す雫を、オルガは見つめた。


 ユフィは自分の顔を隠すように前髪をくしゃりと掴んで隠してしまう。…そんな姿に胸が痛んだ。


(ずっと、そういう事を言われてきたのか…)


 傷があるから。包帯を巻いてあって取れないから。言葉でユフィは嬲られた。そう思うとどうしようもない怒りを覚えた。

 その傷を癒すのに、どれほどの時間がかかろうか。


「君は、汚くない。卑しくもない。誰よりも清く、澄んだ心を持った人であり、俺の妻だ」


「っ……」


 オルガの手がきゅっとユフィの手を包み込む。

 その優しさにユフィの視界が歪んで仕方ない。嗚咽を殺すユフィを、オルガの大きな黒い尻尾が慰めるように優しく触れる。


 オルガの優しさに触れ、ユフィがゆっくりと身を起こそうとすれば オルガがそっとその手を背に添える。そんなぬくもりにユフィは瞼を震わせた。

 身を起こせばいつものように俯いて、髪が表情を隠してしまう。部屋に明かりもなく、その表情はさらに見えづらい。


 オルガはただ案じるようにじっとユフィを見つめた。その視線を感じつつ、ユフィは怯えと緊張を混ぜた表情で、少しだけ顔を上げた。

 髪の合間に見える表情。まるで意を決したもののようで、オルガはそんな顔を見つめる。


 ユフィはオルガを見て、シーツの上で拳をつくった。

 これまでだって散々言われた。隠した顔も。その下にある醜い傷も。とても人に見せられるものではなくて。見せた事もないから噂だけが先行し、けれどその噂よりも酷いのが現実なのだともう知っている。


 だから、受け入れる者など決していない。

 オルガだってきっと、この傷を見れば他の者たちと同じ顔をする。だから見せない――見せたくない。


 始めて心が受けた優しい言葉もぬくもりも、ここで振り払われてしまったら、もう立ち直れないと分かっているから。


「顔も…見せられないわたしで……良いのですか…。きっとっ! 貴方だって謂われない言葉を受ける事になります。国の決まりとしても…どこかにわたしを捨て、ノーティル国には何も言わずにいればそれで…」


「それ以上言うな」


「っ…!」


 優しくも厳しい声が、続きを止めた。

 ハッと唇を噛み、ユフィは俯く。そんな姿を見つめていたオルガがスッと腕を前へ出した。


「……!」


 ユフィは、突然全身を包んだぬくもりに身体が強張った。固まるユフィの頭上からは笑う吐息がこぼれる。

 コテンと額がオルガの胸に当たり、背中には大きな腕が回っている。腕と同じように尻尾まで回されていて逃げられそうにない。


 あたたかい。そんな言葉しか出て来なくて、誰かに抱擁されるのは初めてだと思い至った。母ですら抱き締めてはくれなかった。

 だから、誰かから初めてもらった包むぬくもりに、ユフィの右目から静かに涙がこぼれた。


「ユフィ。例え国が決めた事であっても、君は俺の妻だ。これからもそうあってほしいと俺は思っている。それは君にとって苦痛か?」


「そんっ…。ですが…」


「そうやって俺の事を気遣ってくれるその心が、俺には何より綺麗に見える。他者が君の傷にどういう反応をしようと、俺はそれを理由に拒みはしない。獣種の好意を甘く見ない方がいい。だからユフィ。苦痛ではないなら、傍に居てくれ」


 その答えは嗚咽に埋もれた。けれど耳がいい獣は聞き逃さない。

 だから、抱きしめる腕にきゅっと優しく力を込めた。それを感じてユフィは涙を止める事が出来なくなった。


(ここに居たい。この人の傍に――…)


 芽生えた想いを、ユフィは心の中で大切に包み込んだ。






 ユフィがオリバンズ国へ来て半月が経った。

 目が覚めた後はメイドたちに心配されたユフィだが、それ以降倒れることもなく過ごしている。

 そしてユフィは、少しずつ勉強を始めた。


『陛下は元々魔法の知識が欲しかったんだ。魔法が使える令嬢なら儲けものだと思っていたんだが…。だから魔法については気にしなくていい。この国に来た君はすでにこの国の民であり俺の妻だ』


 元々、ユフィは王陛下に全てを告白して死を賜るつもりだった。しかしそれは思っていない形で裏切られた。

 なので今、ユフィは生きていて、そしてオルガ・ウルフェンハードの妻である立場のまま。


(わたしもノーティル国も読み間違っていた…。陛下はわたしの事を民と認め、変わらずオルガ様の妻として遇するとのことだけど、妻と言っても、全くそんな気がしない…)


 と思ってしまうのも仕方ない事ではある。

 オリバンズ国へ来た時から寝室は別で、結婚式を挙げたわけでもない。オルガに愛を囁かれた事などないし、ユフィは傍に居たいと思っているが愛情かと問われれば分からないのが心情である。

 ただ、最近やけにスキンシップが増えている気がしている。オルガの休日には「一緒に勉強をしよう」「文字を教える」と言われ一日中一緒にいる気がするし、何をするでもない時も小柄だからか膝に乗せられたり、隣に座れば尻尾がふさふさ絡みついてくる。ユフィは、これがこの国の夫婦というものなのだろうか……とどうしていいものか分からずされるがまま。


『ふふふっ。坊ちゃまはすっかり奥様にべったりですね』


『…そう、なのですか…?』


 使用人一同が微笑まし気な顔をするが、ユフィは首を傾げるばかり。


 そんな二人だが、外へ出ればそうはいかない。ユフィは国が定めたオルガの妻なのだ。必然、次期公爵夫人としての振る舞いが求められる。

 ユフィはノーティル国での暮らしから、マナーは全て見様見真似だ。なのでオルガは、ユフィに教養やダンスなど必要な事全てを教える事にした。

 ユフィにとっては初めての事ばかりで、目が回る環境変化である。


 しかも、必要なのはそれだけにとどまらない。


「…ユフィ」


「申し訳ありませんっ…! 申し訳ありませんっ。きちんと片付けますのでっ…」


「いや、そうではなく。また無理をしただろう。倒れたらどうする」


「……申し訳ありません」


 ユフィの俯き癖は変わらない。加えて身を小さくさせて謝るユフィに、仕事帰りのオルガも困った顔をした。


 魔法が使えると分かってから、ユフィはきちんと扱えるようになろうと少しずつ訓練を始めている。オルガや屋敷の者は魔法を使えないオリバンズ国の者なので、こればかりはユフィが自分でなんとかするしかない。誰も教えてはくれない。


 王陛下は魔法の事が知りたいらしい。ならば自分が少しでも使えるようになり報告できるようにならなければ。

 そう思った事と、いざという時のため使えるようにできるだろうかと提案したオルガの為始めたが、しかし現実、そう上手くいくはずもなく。


 オルガの帰宅時には、屋敷の庭には氷柱がいくつも出来ているのがここ最近の恒例である。加えて、頑張るユフィの傍にはソワソワオロオロしている人間と獣人のメイド付きだ。

 どうにも火事の件以降、大きな氷を作る事に長けているようで、オルガは何とかできないかと頭を悩ませるが、魔法を使えないので何とも助言ができない。


「…魔法の指導者を呼べればいいんだが。すまない」


「いえ。…わたしが不甲斐ないせいでご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」


 ノーティル国で魔法が使えるのは貴族。国外への渡航は婚姻などの場合もあり認められているが、オリバンズ国へはその成功例も資料も少なすぎて活用できない。オリバンズ国へ来る貴族もいないので、指導者を呼ぶのは難しい。

 ユフィが頑張ってくれている事を嬉しく思う一方、また倒れたらと考えるので、オルガは程々にして欲しいと思っているのだが、なかなかユフィには伝わっていない。ユフィの魔法訓練時には必ず制止役を付けるようにしているが、止め切れていない様子。


(ただでさえ、教養やマナーで大変だろうに…)


 それでも頑張ってくれる小さくも愛おしい健気な存在。オルガはそんな小さな手を取った。


「無理はするな。俺も出来るだけ力になろう。…君に倒れられては困る」


「…はい。お気遣いありがとうございます」


「今日はもう終わりだ。夕食にして、ゆっくり休もう。これからはまだまだ長い」


「はい」


 魔法を使った後には少し冷たい手を、己でしかと温めながら屋敷の中へ誘う。


(ゆっくり。ゆっくり君の心を癒していく。君がもう少し前を向く事ができれば、その時には――…)


 もうユフィが、何も諦める事がないように。これからは自分を磨いていけるように。

 そう願い、オルガは躊躇いがちに添えられた手をぎゅっと包み込んだ。






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― 新着の感想 ―
[一言] 突然のコメント失礼いたします。素敵なお話を発表してくださりありがとうございました。何度読み返しても涙してしまうほど感動的です。2人の未来に思いを馳せつつ。。 いつか二人の続編を、と。 勝手な…
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