第89話 プールの魅力 前編
詞幸の気分は密かに高揚していた。
1学期も残すところあと僅かという放課後、部室の弛緩した空気のなか、彼は眩しそうに1点を見つめる。
愛音の髪型がいつもと違っているのだ。
(はぁ……いつものツーサイドアップも可愛いけど、髪を下ろしてるのもメチャカワだなあ、愛音さん――)
自分が贈ったヘアピンを外しているのを残念がることもなく、鼻息に熱が籠っていた。
最後の授業が体育で女子はプールだったため、掃除の時間を経てなお、愛音は髪を下ろしたままなのだ。
彼女は栗毛の湿り具合を確かめて溜息をついた。
「プールは楽しいから好きだけどさー、髪乾かす時間がないのは難点だよなー。ドライヤーも使えないし」
「ああー、女子ってやっぱそういうの気にするよね」
詞幸の感覚では、放っておけばそのうち夏の暑さで渇くからいいや、と思ってしまう。
「うん、髪の毛痛んじゃうからね。プールの水は塩素も含んでるから余計に傷みやすいの。女子にとっては死活問題だよ。特に私たちは髪長いし」
言って、季詠は愛音と御言を見た。
体育の授業は2クラス合同。B組の季詠・愛音とA組の御言は同じ授業を受けているのだ。
と、不意に御言が不敵に笑いだした。
「ふっふっふっ、こんなこともあろうかと――じゃーん! わたくし、ドライヤーを持ってきています!」
「おおー! さっすがミミ! 終わったらアタシたちにも貸してくれ!」
「ええ、もちろんですっ」
御言は笑顔で頷くと、今度は詩乃が食いついた。
「てかみーさん、それめっちゃ高いヤツじゃん! 4,5万するやつ! いいなぁ~。ねっ、ウチが乾かしてあげるからちょっと使わせて?」
「まぁ、よろしいのですか? それではお願いします」
詩乃が御言の後ろに回り、髪を乾かしていく。
季詠は普段から髪を結んだりしないためそうでもないが、御言が髪を下ろしているとだいぶ印象が変わっていた。
「コテはないんだよね? 今日はプールなかったからウチも持ってきてないし……。巻けないけど、このまま纏めちゃっていい?」
「はい、お願いします」
白いリボンを手に取り、詩乃は器用な手つきで御言の髪を整えた。
「そういえば上ノ宮さん最近ずっとその髪型だね」
少し前まで、彼女は緩く纏めた髪をサイドから肩に流す、というスタイルを取っていたが、最近はリボンを使って後ろでまとめ上げていた。
「湿気のせいで上手く纏まらないからって言ってなかったっけ? 梅雨も明けたし、今日もいい天気でそこまで湿度高くないと思うけど」
「え? えっとこれはですね……」
御言の目が泳ぐ。
「あーあ、ふーみんそれセクハラ案件だぞー?」
愛音が人差し指を向ける姿には、「いーけないんだーいけないんだー」とでも言いそうな雰囲気があった。
「え? いまのどこがセクハラなの?」
「女に髪型変えた理由聞くなんてデリカシーないだろうが。そんなもん、男となんかあったに決まってんだろ? こういうことはそっとしといてやれよ」
この推論ですらない決めつけに、季詠と詩乃は呆れ顔になった。
「本当にそうなら愛音もデリカシーないけどね」
「失恋すると髪型変えるとかいうヤツ? アンタ考え古くない? 髪型くらいフツーに気分で変えるっしょ。ね? みーさん」
「そうですよっ。夏場は髪を下ろしていると蒸れるのですっ。決して、決してっ、男の子と何かあったとかそういうことではありませんからっ」
御言はしきりに頷いて力説した。
「しかしそれはそれ、わたくしのことをいやらしく詮索したことに変わりはありませんっ。セクハラの罰として詞幸くんマイナス10ポイントです!」
「そのポイント制まだ続いてたの!?」
合計でマイナス100ポイントになると恥ずかしい罰ゲームを受けさせられるのだ。
「うふふっ、覚悟していてくださいねっ」
御言はいつものように笑って、胸を押さえるのだった。