第71話 梅雨のせいだから 前編
暦は7月に変わり、夏休みまでの日数を指折り数える時期となった。
しかしまだ浮かれることはできない、学生という身分では決して逃れられない宿命があるのだ。
「はあ……」
詞幸は上履きを取り出し、長雨に陰鬱さを倍増された溜息を吐いた。同時に、僅かな緊張を感じる胸を押さえる。
今日から期末テストが始まるのである。
これまでコツコツと勉強してはいるものの、万が一赤点など取ろうものなら遊ぶどころではなくなってしまう。科目によって赤点時の対応は異なるが、場合によっては夏季補習に強制参加させられるのだ。
夏という季節は、プールや海での嬉し恥ずかし水着姿、屋台ひしめく夏祭りに情緒溢れる花火大会――男女の距離を縮められるイベントが盛りだくさんなのだ。
それらが遠のくような惨めな結果は残せない。
「うふふっ、朝からそんなに重い溜息をついてしまうなんて。大丈夫ですか?」
煌めく夏に想いを馳せていたところ、肩にポンと手が置かれた。
「あ、上ノ宮さん、おはようっ。――あれ?」
振り返って御言に挨拶した詞幸だったが、その視線が違和感を捉える。
「今日はいつもの髪型じゃないんだね」
常の御言は、サイドで緩く纏めた髪を左肩から前に流す、というスタイルを取っている。しかしいまは純白のリボンを使って後ろでまとめ上げていた。
「ああ、これですか?」
御言はうなじに触れる。
「お恥ずかしながら、湿気のせいで上手く纏まらなかったのです。わたくしの髪は細いらしく、湿気を含むとどうにもボリュームが減りがちでして……。いつもでしたら使用人が直すのですが、今日は朝から試験前最後の確認にと勉強をしてしまい、その時間もなくなって……」
詞幸はその言葉にどこか言い訳するようなニュアンスを感じた。そして、
(――あっ! これは『モテる男はやっている! 女子がきゅんとするテクニック10選!!』にあったシチュエーション! 女子の変化に気づくだけじゃなくて褒めるのが上級者のテクだって解説されてたやつだ!)
進研ゼミの漫画ばりの気づきを得る。
彼は先日、季詠に対して実践した恋愛テクニックを見事に失敗し、『気遣いできる男』アピールをするどころか、逆に愛音から軽蔑の眼差しを向けられたところである。しかしそれにめげずにさらなる向上を目指し、この週末は期末テストよりも恋愛テクニックの勉強に精を出していたのだ。
(こういうときは変化球じゃ駄目なんだよな。あくまでもシンプルに、相手に伝わるように)
当然ながら詞幸の本命は愛音だが、人は獲得した技術・能力を試してみたくなるもの。できればぶっつけ本番ではなく、経験を積んでから来たる時に臨みたいと考えるのである。
詞幸は大きく息を吸い込んだ。
「大丈夫だよ! あっ、大丈夫っていうか、あの……っ、その髪型も似合ってて、その…………か、か、可愛い、と、思うよ?」
震えた口から出たのは不格好な賛辞だった。
女子に可愛いと言った経験がないわけではないが、話の流れで勢いに任せて言うのと面と向かって言うのとでは恥ずかしさが段違いなのである。
「~~~~っ、そうですかっ、ありがどうございますっ」
俯き、はにかむような仕草は一瞬で。
「お互い悔いの残らないようにしましょうねっ。ではっ」
御言は早口でまくし立て、軽く会釈をするとそそくさと行ってしまった。
その様をポカンと口を開けて見送る。
(いつも優雅で余裕たっぷりなのに……あんな上ノ宮さん初めて見た……)
登校してきた生徒たちに表情を見られないよう、ふやけた口元を腕で隠して歩き出す。
(素直に感想言っただけでこんなに効果があるなんて……ようし、今度は――)
詞幸は決意とともにグッと拳を握り締めた。