第45話 顧問のお仕事②
「ぷはぁっ、生き返るぅー」
御言の淹れたアイスティーを一気に飲み干し、紗百合は目を瞑った。
「いやぁー、久しぶりに全力で走ったわぁー。やっぱりスーツだと動きづらいわねぇー」
エアコンから降りてくる冷たい風を受け止めるように上体を反らした。気の抜けた顔をパタパタと手で煽ぐ紗百合に、愛音が指をワキワキと蠢かせて嗤いかける。
「さゆりんさゆりん、ちょっとだけでいいからそろそろおっぱい触らせてくれない?」
すると紗百合はキリリと表情を引き締めた。
「いくら言われようともそんなこと許可しませんっ。それに目上の人を馴れ馴れしくあだ名で呼ぶのも駄目ですよ。どんなに親しみを感じても分別を持って正しく接してください」
「えーっ、ケチー、ブーブー。でもいまの言い方は先生みたいで良かったぞ」
「『みたい』じゃなくてちゃんと免許を持つれっきとした先生ですっ。……まったくもう、年が近いと生徒たちにナメられちゃうから大変だわ」
口ではそう言いながらも紗百合の口元には薄く笑みが滲んでいた。どうやらまんざらでもないらしい。
と、ここで詞幸は紗百合の矛盾に気づいた。
「あれ、でも上ノ宮さんは先生のことを”ちゃん”付けで呼んでますよね。『ユリちゃん』って。それに先生も名前で呼んでて……それはいいんですか?」
「うっ――、そこを指摘されると困っちゃうわね…………本当は注意しないといけないんだけどねぇー」
頭を掻いて気まずそうに笑う。対して御言は特に気にしている風ではない。
「大目に見てくださいませんか? なにぶん付き合いが長いので、いまさらかしこまった呼び方では居心地が悪いのです」
「へえっ、前から二人は知り合いだったんだ」
「親同士――というか家ぐるみで交流があってね、御言ちゃんがまだオムツしてるときからの仲なのよ」
「はい、まだユリちゃんが若かった頃からの仲です」
二人は互いに見合って笑う。その様は年の離れた友人同士というより仲睦まじい姉妹に見えた。
「あ、だからですかね」詞幸は紗百合のカップにおかわりのアイスティーを注ぎながら尋ねる。「俺みたいに先生も上ノ宮さんに逆らえないっていうのは。子供の頃の秘密をバラされたくなかったら――みたいな感じですか?」
的を射た質問だと思ったのだが、どうやら違ったらしい。紗百合は目を見開いたあと、辟易したような顔になった。
「『俺みたいに』ー?」
ジトー、と紗百合は隣に座る御言を胡乱な目で見つめる。
「縫谷さんだけじゃなく月見里くんにまで……今度はなにしたの?」
「ふゅすーしゅすー」
わざとらしくそっぽを向いて口笛を吹くが、空気が抜ける音しか出なかった。
紗百合は御言の態度にやれやれと首を振る。
「ま、御言ちゃんの性格上しょうがないけど。……月見里くん、この子の名誉のために言わせてもらうけど、別にあたしは弱みを握られてるとかじゃないのよ? 御言ちゃんは、本当は優しくて思いやりのある子なんだから。あたしが逆らえないのは、有り体に言えば、家の問題なのよ」
紗百合は恥じ入るように目を伏せた。
「あたしの家は元々華族だったんだけど、御言ちゃんの家も華族の流れを汲む名家なの」
「いえーい、お嬢様でーっす」
茶化すように御言は両手でピースを作った。
「でもね、元は同じ身分でもいまじゃ経営する会社の格が上下はっきり分かれてる。上ノ宮家との取引なしにはうちの経営は成り立たないのよ。だからあたしは父から『上ノ宮家には絶対逆らうな』って厳命されてるの」
「うふふ、生きるも死ぬもわたくしたちの胸三寸で決まる、ということですね」
「この子はタチが悪くて、それをわかったうえで無茶ぶりしてくるのよ!」
「あらあら、随分と酷い人がいるのですねぇ、可哀想に。うふふふっ」
(いまの話のどこに上ノ宮さんが優しい要素があったんだろう?)
喉元まで出かかった疑問を飲み込む詞幸であった。