第267話 文化祭2日目⑧ 伝えたい気持ち
本校舎と特別教室棟の狭間に位置する花壇に人影はなく、日陰もできていたため一息つくのに十分なスポットだった。
「「ごちそうさまでした」」
青空の下での昼食を終えて季詠が時計を見ると、もうじき長針が頂点を指す頃合いだ。
(楽しい時間はあっと言う間だなぁ……。もうお別れの時間なんて…………)
『別れ』などと仰々しく思ってしまうのは、それだけ自分の気持ちが大きいものだからか、それとも焦りからか――たぶん両方だ。
占い師先輩から言われたことを思い出す。あの二人と自分との違いのことを。
あの二人は自分の気持ちを伝え、そして確実に道の先に進んでいる。きっと昨日のデートでは自分以上に彼との濃密な時間を過ごしたに違いない。どんどん距離を縮め、自分が追い付けないようなところに行ってしまっているのではないか。
そんなの…………嫌だ。
「月見里くんはこのあと当番だっけ?」
わざわざ聞くまでもないことだ。彼のスケジュールが埋まっていくのを指を銜えながら見ているしかなかった彼女に、このあとの予定がわからないはずがない。
それでもわかりきったことを聞くのは、今が終わるのが名残惜しくて、少しでも長くここにいてほしいからだ。そして――
ここでこのまま彼を見送ったら、彼が自分以外の誰かと人生を歩む未来が決まってしまう、夢見た道が閉ざされてしまう、そんな確信があったからだ。
「うん、詩乃さんと当番なんだ。暑いから、もう執事コスプレはしないけどね」
「うん、そっか。うん、そうなんだね」
会話を途切れさせてはダメだ。そう思うのだが、上手く言葉を投げ返せなかった。
(どうしよう、意識しすぎてちゃんと話せない! ああもお~! どうすればいいの!?)
こんなときどうすればいいのか、占い師先輩は具体的なことを教えてくれなかった。
「そして次でわたしの導きは最後となります」
「最後……」
「はい。彼とのデートの最後に、そのとき伝えたいと思った素直な気持ちを、あなた自身の言葉で伝えてください」
「こ、告白するんですか!?」
「それはあなたが判断することです。あなたが本当にそうしたいと思うのなら告白してください。まだそのときではないと思えば、告白はしないでください」
「…………つまり、私がそのとき告白するべきと思うかどうか、ですか?」
「いえ、ここで重要なのは、あなたが真に“したい”と思うかどうかで“べき”かどうかではありません。そのとき、その瞬間に、伝えたいと思ったあなたの気持ちを伝えてください。彼との未来を開く最後の鍵は、あなたの心です」
「私の、心……」
(私の、心……)
彼女は胸中で唱えた。
この裡に渦巻く感情、そのすべてを彼に伝えることはできない。いずれそのときがやってくるのだろうが、それはいまではない。大切なのは、“いま”、“伝えたい”気持ち――
「あのね、月見里くん…………私、月見里くんに伝えたいことがあるの」
「なに?」
静かに、優しく、自分の心を掬い上げる。
「私も、きみのこと名前で呼びたい」
それだけのこと。
たったそれだけが、彼女の伝えたかったこと。
詞幸からは名前で呼ばれているのに、彼女からはずっと呼べていなかった。
ただ、恥ずかしくて。
御言と詩乃は彼の許可なく自然と呼んでいるのに。
それが歯痒く、羨ましかった。
「え? 別にいいけど」
なんでもないことのように彼は答える。実際、なんでもないことなのだ。
しかしそのなんでもなさが季詠には嬉しくてたまらなかった。
「ありがとう――詞幸くん」
溢れる喜びと、やはり感じてしまう一握りの恥ずかしさで声が揺れる。
「お礼を言われるほどじゃないけどね」
「ふふっ、確かに――って、もうこんな時間! 私そろそろ行かないと!」
「うわ、本当だ! あちゃあ、遅刻だ……詩乃さんに怒られちゃうよ!」
並んで立ち上がる。季詠はこのあとクラスメイトとの約束があるため、部活当番の詞幸とはここでお別れだ。楽しかった、またね、と手を振り合う。
季詠が再度口を開いたのは、それぞれが別々の方を向いてからだった。
「ねぇ、詞幸くん」
「ん?」
「――――なんでもないっ、呼んでみただけっ。ふふっ」
はにかんだ彼女は、踵を返すと踊るような足取りで去っていくのだった。