第264話 文化祭2日目⑤ 胸の音
「冗談はさておき、本当になにか頼む? 二人共コップが空みたいだけど」
詩乃と御言に向けられた詞幸のこの言葉に対し、一番大きく反応したのは、しかし季詠であった。
(あっ! ここは占い師先輩が言ってたとおりのメニューを頼んでもらわないと!)
注文を決められてしまう前に季詠は言葉を滑り込ませた。
「オムライスっ、オムライスなんてどうかなっ?」
「いや、ウチまだお腹空いてないし。飲み物くらいならいいけど」
「オムライスを頼むと指名した店員がケチャップで文字とかイラストを書くサービスをやってるんだよっ」
「お気持ちは嬉しいですが、わたくしたちもそろそろ戻らないといけませんので時間のかかるものは……」
「大丈夫。業務用のを温めるだけだからすぐ用意できるよっ」
「そーゆーの喋んない方がいいと思うんだけど……。てかすぐ用意できても食べるのに時間かかるし」
「もおっ! なんでオムライス頼まないの!? 食べてってくれてもいいじゃない!!」
「わかった、わかったから落ち着きなさいって!! さっきからアンタなんなん!? どんだけオムライスに思い入れがあるっての!?」
少々強引だったが季詠のしつこさが功を奏し、二人にオムライスを注文させることに成功したのだった。
(よしっ、これで月見里くんとの距離が縮まるようななにかが起きるはずっ。それがなにかはわからないけど!)
占いの結果やそのときとるべき行動は全てを詳細に教えられたわけではない。その都度自分で判断しなければならない場面もあるのだ。
期待と共に二人の前にオムライスを置くと、御言が詞幸に向かって言った。
「それでは執事さんにケチャップで絵を描いてもらいましょうか。真っ赤な❤を」
(え?)
「あっ、ウチもそれがいい! できるよねぇ、執事さん?」
(ちょ、嘘、これじゃ私との距離じゃなくて二人との距離が縮まっちゃうんじゃない!? これじゃ逆効果だよ! どういうことなの占い師先輩!)
愕然として季詠は慌てる。が、自分から注文を薦めておいていまさら止めることなどできるはずもない。
詞幸にも拒む気はないらしく、「あくまで仕事としてだからね」と前置いてケチャップの容器を構えていた。
「これ結構難しいんだよねえ。力加減を一定にしないと線が崩れるから――」
彼の表情は真剣そのものである。まずは御言のオムライスに意識を集中させており、皿の真上から俯瞰しようと、その姿勢は前傾となっていた。
「――よっし御言さんの方は完成! お嬢様いかがですか?」
「はいっ、とっても綺麗な❤ですっ。うふふっ、メイド喫茶が人気なのはこういう楽しさがあるからなのですねっ」
御言はスマートフォンを構えて写真を撮り始めた。その様子を詩乃が羨ましそうに見つめる。
「ほらほら詞幸、こっちのも早くして~」
「急かさないでってば。すぐに詩乃さんの方も――ってありゃ? ケチャップの出が悪いや」
ケチャップの量が少なくなると空気と共に中身が飛び散ってしまい、綺麗な線を作ることができなくなるのだ。
「ごめん季詠さん。新しいケチャふごっ!?」
「きゃぁっ!」
短い悲鳴。それは季詠が発したものだ。
詞幸は前傾姿勢で作業にあたっていた。そして季詠に声をかけようと頭を上げながら横を振り向いたのである。
そこに彼女の胸があるとも知らずに。
結果として、詞幸の顔がその豊かな丘陵に埋まってしまったのである。
ふにょん、と。
「ごっ、ごめっ、季詠さん! でも、わざとじゃないからね!」
すぐに顔を離した彼の顔はおそらく真っ赤なのだろうが、季詠には確認する余裕もなかった。
「う、うん。わかってるから、大丈夫だよ…………」
愛音に胸を弄ばれた経験なら数多ある彼女だが男に触れられた経験はただの一度もない。
しかもその初めてが顔とは、口から心臓が飛び出そうであった。
(そもそも胸を触らせたら距離が縮まるなんてそんな単純なことでいいの!? 月見里くんもそこまでお猿さんじゃないと思うんだけど!)
彼の熱い吐息が残る胸を押さえる。
(こんな調子で本当に上手くいくのかなぁ……)
暴れ狂う自分の心臓が、この先果たしてもつのかも心配だった。