第245話 文化祭1日目③ 知らぬが仏
「はぁ…………」
10時を数分回ったところで御言が溜息をついた。
「誰も来ませんね……」
文化祭自体はもう始まっている。中庭のほかの出し物には客が入り始めているというのに、話術部の出店は素通りされてしまっていた。
「なんでだろうね。チラッと覗いてくれはするけど、手に取るまではいかないよね」
それは単純にASMRがニッチなものであるというのもあったし、まだ始まったばかりで客のほとんどが生徒のみで客の総数が少ないというのもあった。
もっとも、1番の問題は開始のアナウンスがあったあとも彼らが互いを可愛い可愛いと褒めちぎり合うという、傍から見ればバカップルにしか見えない近寄りがたいムーブをかまし続けていたからだが。
「でもまだまだ始まったばかりだし気長に行こうよ。折角こんないい場所用意してもらったんだからちゃんと売れるって。さすがに辺境の地の特別教室棟4階じゃあ、わざわざ誰も見に来なかっただろうけどさ」
紗百合のせいで出店の手続きが遅れたために場所が確保できるか不透明で、当初は部室での販売もやむなしと覚悟を決めていたのだ。しかしどう考えても来客が見込めないため、御言が文化祭実行委員会に直接掛け合ってなんとか融通してもらったのである。
「御言さんのおかげだよ。ここなら人目に付きやすいし、賑やかさも感じられて店番するのも楽しいもん」
中庭は広く、ほかにも多くの出店が並ぶ。一角には小さなステージも設けられており、空もよく澄み渡っているため、催し物があれば多くの人が訪れるはずだ。
「いえいえ、これはわたくしの功績ではありません。ユリちゃんの頑張りがあったのと、あとは単純に運がよかったからですね。実行委員長さんが男の先輩で助かりました」
「男の先輩…………?」
なぜそこで性別を強調するのか。そして紗百合の名前が出てきたことに胸騒ぎがして詞幸は尋ねた。
「御言さん……なにしたの?」
すると御言は伊達眼鏡をくいっと上げて「ふっふっふっ」と笑った。
「ASMR録音の前、皆さんにイメージを掴んでもらうためにユリちゃんに試し録りをしてもらいましたよね?」
「……うん」
「それを実行委員長さんにお渡ししましたっ」
「ええ!? それって――」
彼は周囲の視線を気にして声のボリュームを落とした。
「例のあの、生徒に自分の母乳を直飲みさせる内容の?」
「はいっ。学校側やPTAに知れたら大激怒必至の例のアレですっ」
にこやかに言うが、その過激さを考えれば大激怒で済むような問題ではないだろう。
「それって先生には――」
「はい、もちろん伝えていません。ですがご安心を。通常、好きな人の喘ぎ声を聞くのは自分だけでいたいもの。独占したいと思うはずです。ユリちゃんの熱烈なファンである実行委員長さんが、あんなエッチなお宝音源を人に聞かせるはずありませんから、外部に漏れてユリちゃんの立場が危うくなることはありません。うふふっ」
(そうじゃなくて先生の尊厳とか羞恥心を無視してるよね!)
知ればつらい思いをするだけ。詞幸はこの件を紗百合に伝えてはならないと心に刻むのであった。