第232話 恋の自覚④
「詞幸くん、詞幸くん」
「……なに? 御言さん」
「こうして抱き合ってると貴方の心臓の鼓動を感じるんです。うふふっ、ドキドキしてくれてるんですね」
その笑顔には詞幸のことを好きかどうかわからないと言っていたときの翳りはもうなかった。
「あのさあ、言いにくいんだけど………………そろそろ放してくれない?」
下腹部の異常事態を知ったあとも御言はそのまま詞幸に抱きついていた。てっきり嫌悪感を表して離れると思っていたのに、それどころかより強く密着するようになってしまったのである。
詞幸にとっては恥ずかしいどころの話ではない。しかし自分を慕ってくれているというのに力づくで引き剥がすのも憚られる。かといって彼女が許容しているのだからいいではないか、ともならないのだ。ここは穏便に彼女の意思で離れてもらいたい。
「……………………わたくしと抱き合うのは嫌ですか?」
悲しそうな顔で聞かれ、詞幸は慌てて否定した。
「そんなことないよ! いや、俺だってこうしていたいのはやまやまだけど、ほら…………俺、ほかに好きな人いるし……」
彼女の気持ちを知っている状況、及びこの体勢で無遠慮に口に出すのもどうかと思ったが、下腹部の暴れん坊が云々(うんぬん)と素直に言うよりはマシな言い訳だろう。
「わたくしは気にしませんよ? いえ、ちょっぴり気にしますけれど、でも好きな人と一緒にいられるいまのこの幸せに比べたら、詞幸くんの心が愛音ちゃんに向いていることなど些細な問題です。それがわかったうえで貴方のことを好きになったのですから、いまさらこの想いが移ろうことはありえません。いつまでも愛して差し上げますからご心配なく❤」
(ツンデレの次はヤンデレみたいになってる!?)
「浮気は男の甲斐性とも言います。わたくしならば条件次第では一夫多妻制も許容できますし――うふふっ、3Pや4Pにも興味がありますから」
「まさかのハーレムルート!?」
甘言に乗せられ思わず不埒な行為を想像してしまった。いや、抱き合っているいまの状況も十分不埒な行為ではあるが。
「そうじゃなくてさ、自分で言うのもなんだけど…………俺かなりチョロいんだよね。こんな風に抱き合ってたら御言さんのこと好きになっちゃいそうで――」
「うふふっ、そんなことを聞いたら余計に放したくなってしまいますよ?」
「…………確かに」
昂る本能を抑えつけるのにやっとの彼は冷静な判断ができなくなっていた。
しかしここで閃きが舞い降りる。
「あっ、そういえば! いまさらだけどさ、そもそも俺たちASMRの録音のために来たんだよね? 早く始めないと時間なくなっちゃうよ?」
「あら、それもそうですね。すっかり忘れていました」
(我ながら素晴らしい機転だ! 解放されたらすぐさま前屈みにならないといけないけど!)
「ちょうどいいので、このまま台本を読んでリハーサルをしてみませんか?」
「………………え? このまま?」
「はい、このまま。こういうシチュエーションのシーンありましたよね?」
御言は密着した体勢を崩さず傍らの机から台本を取り、それを詞幸へと手渡した。
「実はですね、詞幸くんの台本はこんな風に男の子から迫られたい、というわたくしの趣味に合わせて自分のために用意した台本なのです」
「ああ、やっぱりそうなんだね。だとは思ってたけど……」
詞幸が演じるのは従順な執事が突如豹変してお嬢様に迫るというストーリーだ。
彼の性格上、強気に迫る執事を演じるのはなかなかに難しく、役作りには苦労したのだ。
「耳元で囁くシーンがこの状況にピッタリですっ。壁ドンして『俺の女になれよ』と言ったときみたいにカッコいい声で、わたくしに愛を囁いてください!」
胸の中でウキウキと跳ねる御言に一瞬たじろいでしまう。マイクに向かって喋るのでさえ気後れするというのに、直接人に向かってやるなんて。
しかしこの状況から脱するには覚悟を決めなければなるまい。詞幸は左手を御言の肩に回したまま、右手で台本を持ち、彼女の耳元へと唇を近づけた。
「じゃあいくよ――。ああ、今日もお美しいです、お嬢様――」
ピクリ、と御言の肩が震えた。
「くくっ、どうしたんですか、そんなに怯えて。俺がこんなことをするのは意外ですか? おっと、暴れても無駄ですよ。こんな華奢な身体で俺に敵うわけがないでしょう。スゥー……、ハァー……ああ――芳しい。嗅いだ者を狂わせる危険な蜜のようだ。それに、なんて滑らかな肌、なんて愛らしい唇。貴女がいまから俺のものになるのかと思うと、興奮して堪りません」
彼女の息遣いが激しくなる。
「その瞳、自分がどんな目に合うのかわかって――いえ、これは期待しているんですね。くくくっ、はしたない人だ。嫌がるフリをしながら、その実、これから起きることに興味津々だ。くくっ、大丈夫ですよ、お嬢様。俺が優しく食べて差し上げますから――」
「~~~~~~~~~~~~~ッ!!」
次の録音のためにスマホで呼び出された季詠はブースから出てきた詞幸を出迎えた。
「お疲れ様。月見里くん随分時間かかったね。そんなにリテイクされちゃったんだ」
「ま、まあね………………」
疲労困憊といった様子の詞幸。だがブース内の御言の肌はツヤツヤと輝いていたのだった。