第212話 リアル体験 前編
「この前貸した漫画の代わりにさぁ、ウチもなんか借りたいんだけど」
詩乃がそう言うので、詞幸は放課後彼女を自宅に招いていた。
「ごめんねえ。この前借りた漫画まだ読み終わってなくてさ」
「ううん、別に気にしないで。そのうち返しに来てくれればいいから」
夏休みに開催された勉強会に参加したこともあり、詩乃は落ち着いた様子で詞幸の自室に入っていく。
「なんか足痛くなっちゃった。ベッドに座っていい?」
「う、うん……構わないよ?」
しかし彼はそうもいかない。
あのとき招いたのは全員女子だったとはいえ、複数人での来客だったためにそこまで意識はしなかったのだが、今回は二人きり。
しかも彼女は自分に恋愛感情を抱いているのだ。なにもかも状況が違っており、意識するに決まっていた。
(夏服のボタンもあんなに開けちゃって……胸元の露出が目に毒だよ!)
さらには扇風機からの風を取り込もうとスカートの裾をパタパタ動かしているのだ。毒どころか致死量の猛毒だ。
「暑いでしょ? クーラー利くの時間かかるからジュース持ってくるね?」
心を落ち着けるための逃げの一手である。
「サンキュ。あ、あと綿棒ってある? ちょっと耳かきしたくて」
言われた詞幸は1階に降り、理性の回復を待ってから部屋に戻った。
「はい、詩乃さんどうぞ。綿棒だよ」
「あんがと。んじゃ、」
続く言葉は、ポンポンと自らの太腿を叩きながら。
「耳かきしたげるから、ここに頭乗せて?」
「うええっ、なんでッ!? 耳かきしたいって言うから持ってきたのに自分でするんじゃないの!?」
「だって膝枕してほしいんでしょ? 同級生の彼女に。ウチが彼女役してあげる❤」
「それは……」
さっきしたASMRの話の中で、確かに好きなシチュエーションとして挙げはした。
挙げはしたが――
「それとも、ウチの膝枕じゃイヤ……?」
震える声で悲しそうな顔になる詩乃。その瞳が潤んでいるのは演技なのか、それとも――
「……そういうのはズルいよ。逆らえなくなるじゃん」
顔を背けつつ、詞幸は彼女の隣に腰を下ろした。
「えへへ~、アンタのそーゆーチョロいとこ好きぃ」
「すっ、好きとか軽々しく言わないでよっ。恥ずかしい……」
顔を真っ赤にして逃げようとする詞幸だったが、詩乃はその肩を掴んで無理矢理引き倒す。
「はいはい、ごめんねぇ~。いい子いい子~」
ポスン、と。
後頭部に弾力を感じた瞬間には、もう彼は仰向けになっていた。
見上げる詩乃の顔は慈愛に満ち、頭を撫でる優しい手と胸をポンポンと叩くリズムは子供をあやすかのよう。
「詩乃さん…………これはやりすぎでは?」
「そぉ? ウチはこれ好きかも。母性が溢れてくるってゆーか、なんか自分の子供みたいに可愛く思えてくるし――詞幸は? こーゆーシチュエーション憧れてたんでしょ? 癒される?」
癒される、という次元の話ではない。詞幸の頭はクラクラして、寝そべっているというのに倒れてしまいそうな錯覚に襲われていた。
(あれは妄想の中だからこその癒しだったんだ! 現実だと刺激が強くて全然落ち着かない!)
ASMRの疑似彼女ならば、その睦言からまどろむような心地よさを感じることができた。
しかしそれは音声という限られた情報しか得られなかったがゆえの産物だったのだ。リアルな体験としての膝枕は、肌が触れ合う感触や息遣いに甘い香り、様々な情報が五感を刺激してしまい、むしろ興奮状態へと導かれてしまう。
と、そのとき、階下でガチャリと音がした。続いて、「ただいまー」と声。
「ヤバッ、母さんだ! もう起きないとマズい!」
身体に力を籠める。しかし、詩乃に抱え込まれるように頭を押さえられ、起き上がれない。
「話聞いてた!? 母さんが帰ってきたからもうやめないと! また部屋に乱入してくるかも!」
「別にダイジョブっしょ~。てかウチの靴だけある時点で勉強会のときと違って二人きりなのは察してるだろうし、ナニしてるかわかんないのにそんなことしないって~」
「いやっ、だからそういう誤解をされないために」
「いいから続きしよ?」
「だからそれどころじゃ」
「うだうだ言ってると喘ぎ声だすよ? いやん、そこはダメぇっ❤って」
「…………」
恐ろしい脅迫だった。
「別にいーじゃん、見られたって。たかが膝枕なんだし。詞幸だってヤじゃないっしょ?」
「…………いや……まあ、そりゃあ……嬉しいけどさあ……でも…………」
このささやかな抵抗の合間に見えた素直な感想に詩乃はご満悦だ。
「えへへ~。じゃあ耳かきしよっか。ほら、横向いて? そうそう、偉いねぇ~」
結局、詞幸は詩乃のバブみに抗えなかったのである。