第167話 写真の吸引力
細く開けたドアの隙間から注意深く外を窺い、物音がしないことを確認する。
母親はまだ買い物から帰ってきていないようだ。
部屋を出る際、なにも証拠を残していないか改めて確認してから季詠は父親の書斎を辞した。
帯刀家のプリンターは父親が持つ1台のみ。普段ならば断って使わせてもらうところだが、今回ばかりはそうもいかない。誰にも知られたくないのだ。
小さな悪戯をしているような高揚感と後ろめたさが季詠の心臓を早鐘のように打つ。
この家にはいま彼女しかいないというのに、季詠はこそこそと小走りで移動していた。
「ふぅ……」
自室のドアを閉めた所でようやっと人心地がつく。
「ふふっ」
胸に抱いているものに目を落とすと、勝手に表情筋が緩んでしまう。
だらしない顔をしているんだろうな、という自覚はあったが、誰が見ているわけでもない。季詠は軽い足取りで勉強机の椅子を引いた。
抱えていたUSBメモリと写真の束を置き、引き出しの中からあるものを大事そうに取り出した。
フレームに青を基調としたステンドグラスの意匠が施された写真立てだ。
それは1か月以上も前、詞幸の愛音への誕生日プレゼント選びに付き合った際、そのお礼にと贈られたものだ。
しかしその内側は空白のままだ。肝心の写真が飾られていないのである。
これを贈られてからというもの、季詠はここにどんな写真を飾ろうかと頭を悩ませていた。
そして先日、話術部でプールに行ったときの写真を飾ろうと思いたったものの、決心できずに煩悶を続けてはや3週間。お盆休みが明けて父親がいないこのタイミングで、ようやっと重い腰を上げたのである。
現像した写真をめくり、彼女は思い出を蘇らせる。
あの日は朝から騒々しく、そして目まぐるしい1日だった。楽しくて、恥ずかしくて、ちょっぴり反省することもあったが、大切な夏の宝物だ。
と、彼女の手が止まる。それは、とあるツーショット写真が現れたときだった。
黒髪の少女が恥ずかしそうに控えめなピースサインを作り、その横では純朴そうな少年がこちらも恥ずかしそうに笑っていた。そして栗毛の小柄な少女が後姿で見切れている。
「うぅ……この写真……」
くぐもった声を漏らして季詠は目を逸らした。
別に彼女はこの写真が嫌なのではない。むしろその逆で、この写真を飾ろうと考えているのである。
ただ、恥ずかしくて直視できないのだ。
それは自分のカメラ写りが悪いから――などでは決してない。
少年が原因なのだ。より正確に言うならば、少年が上半身裸なのが問題なのである。
男性が水着姿で上半身が裸なのはごく普通のことだが、彼女にとってはある部分の破壊力がクリティカルダメージを生む。
もしこの写真を机に飾って毎日眺めようものなら、感覚が麻痺してしまうだろう。
(やっぱりほかの写真にしようかな……)
季詠はその写真を脇に避けて別の候補を選定することにした。
だが――
チラッ。チラッチラッ。
(ダメ! どうしても見ちゃう!)
その誘惑は凄まじく、欲望に抗えない。
(試しに写真立てに入れるだけ入れてみて、合わなかったら別のを選ぼう。うん、そうしよう)
自分に言い訳するように、彼女はその写真を再び手に取った。
果たして――
「………………いいっ!」
思わずそう頷いてしまうほど、ツーショット写真と写真立てとの相性はバッチリだった。
最早そこに飾られるのが自然であるかのように――否、運命であるかのように調和している。
この写真立てはこの写真を飾るために作られたのだ。
こんなにも素晴らしい調和を齎してくれるのだ。誰に憚ることなく飾るのが人として正しい道だろう。
「いきなり参上! おっすキョミー、元気かー?」
バッ、サッ、スッ、バタン!
一連の音は、季詠が、写真立てを手に取り、机の引き出しを開け、写真立てをしまい、引き出しを閉めたときのものである。
「? どうした? なにかしてたのかー?」
「いや別になにも……それより愛音どうしたの? 今日は特に約束してなかったと思うけど……」
「やー、それがなー、コンビニの帰りに偶然キョミママに会ってお呼ばれしたんだよー」
迂闊だった、と季詠は自分の甘さを呪った。年頃の娘を慮って両親がこの部屋に入ってくることはないが、愛音が急に遊びに来ることはあるのだ。
――結果、
写真立ては季詠の机に置かれたが、その中身は件のツーショット写真ではなく、みんなで撮った集合写真となった。
もっとも、彼の裸の上半身はバッチリ写っていたが。